夏は黄昏の夜に

秋野 柊

第1話 花~桃子

 花


 これから、夏が始まる。


 中学二年生の田中 花(たなか はな)にとって、夏とは夏休みの始まりと共に訪れる。

 きっと全国の小中学生も花と同じ気持ちではないだろうか。それほど夏休みというものは、子ども達にとっての一大イベントなのだ。


 冬休みなんていうのは冬の惰性感の中で過ごすものだけれど、夏休みは違う。

 夏という季節の真ん中に、子ども達はぽんと投げ出されるのだ。

 その夏の中心を、何も考えず、がむしゃらに駆け抜けるしかない。

 後悔なんて許されない特別な時間が、今日から始まるのだ。


 花はそんな高ぶる自分の気持ちを自覚しつつ、いつもの通学路を歩いている。

 さきほど冷房の効いた自分の家を出たときには、蝉の騒ぎ立てる声と、むっとした蒸し暑さが花を出迎えた。


 空には巨大な入道雲が浮かんでいる。焼けつくような太陽は、その雲を上手に避けて今も花を激しく照らしていた。


 前に近所に住む竹田のおじさんが、「ここは山と田んぼと川しかない田舎だから、都会よりはずっと涼しい」と言っていたけれど、花はこの町の夏しか知らない。

 なので、他所がどれだけここより暑かろうが、花にとってはそんなことは何の気休めにもならなかった。


 少し歩き出しただけで自分のおでこや首筋に一気に汗が滲み出るが、それもいつものことだ。今となっては暑さのことなんて全く気にすることなく、頭の中ではこれからもらう通知表の中身を気にしている。


 ――あーあ、少しゆううつだなぁ。


 花は小さく溜め息をつきながらそんなことを考える。その理由は通知表の中身のことなんかではなく、もっと別の、もっと特別なことだ。


 ――今日で私達の学校も廃校になっちゃうんだなあ。

 今度はさっきよりも大きな溜め息を漏らす。


 そう、こうして当たり前のように歩いているこの通学路とも今日でお別れなのだ。


 この小さな町は、過疎化という田舎町ではもはや自然の流れが進み、世帯数・子どもの数が年々減少している。花が小学校に上がる頃には、町に唯一あった山桜幼稚園・初等部・中等部学校の校舎は一つに統合されてしまっていた。

そして、その唯一の学校が廃校になってしまう。


 花は自分の家が学校から近いため徒歩で通っているが(とはいっても40分は歩くけど)、他の子達の中では親の車で通っていたり、スクールバスで通っていたりしている子もいる。

 何にせよ、みんなは今日の終業式を最後に他の学校に移ることが決まっているのだ。


 夏休みのプールも、登校日も新しい学校でやるみたいだし・・・。それに・・・。


 そこで花は秋(しゅう)の顔を思い浮かべる。そして、そうしたことで自分の気持ちがより一層暗く沈んでいくのを感じた。


 結局、今日まで秋ちゃんに言うことができなかった。

 まだ、秋ちゃんはこのことを知らないはず。言う機会は今までもたくさんあったのに。秋ちゃんとは保育園の頃から、ずっと家族同然のように過ごしてきたんだから。


 しかし、そのことを言わなければと思いながらも、いざとなると尻込みしていた。 

 そして、何だかんだで今日までずっと先延ばしにしてしまっていた。

 結局、そのことはさくら子ちゃんにしか話すことができなかった。


 ――今日こそ言えるだろうか。言うなら、今日だ。


 花は直感的に、今日言えなければ、最後まで言うことができないだろうと確信していた。


 いけない、と花は首を振り、自らの気持ちを奮い立たせる。これから楽しい夏休みが始まるというのに。終業式の日からブルーになっている場合じゃない。


 笑顔でいないと良いことなんか起こらないんだから。


 花は思い切り空気を吸い込んで吐き出した。

 それにはさっきまでの溜め息とは違い、小さな決意が込もっている。


 そして花はどこか開き直ったような表情で、じりじりと焼けつく通学路を、ささやかな秘密を持って歩いていった。



 秋


 ――ああ、やっぱりカメラを持ってくればよかった。


 鈴木 秋(すずき しゅう)は小さな後悔を抱えたまま、ゆったりとした長い坂道を下っていた。


 その道の途中で軽トラックとすれ違う。先ほど秋が歩いた道を辿るかのように、その軽トラックは気だるいエンジン音をたてながら坂を上っていった。

 山と川に囲まれた、この町。町に寄り添うように流れる「山萩(やまはぎ)川」と呼ばれる川は一級河川ということでとても大きく、幅が広い。

 だからなのか、この町の近くにある山萩高校にはボート部というものがある。練習環境に恵まれているおかげか全国大会の常連で、秋たちも毎年、家族や友達、近所の人達みんなで応援に行っていた。


 秋は灯油屋の前を通りすぎ、少し足を止める。そしてショルダーバックからお茶の入ったタンブラー式の水筒を取り出した。この地域では夏の定番の飲み物といえば麦茶ではなく、なぜか緑茶なのだ。

 秋は氷がたくさん入って冷えすぎた緑茶を一口飲むと、ほっと息をついた。


 今日で廃校だっていうのに。せっかく校舎とか記念撮影しようと思ってたのにな。


 秋の通う中学校は橋を挟んで二つの校舎に分かれている。


 一つは「生活校舎」と呼ばれる、生徒達の教室や、職員室、特別教室がある校舎だ。


 そしてもう一つは「閉鎖校舎」と呼ばれる校舎だ。この閉鎖校舎、大きさが生活校舎の2倍もある。十五年前まではこちらがメインで使われていたのだが、校舎の老朽化が原因で、以前から立ち入りが禁止されていた。

 今ではそこは開かずの校舎とされ、生徒達の間ではそのまま旧校舎と呼ばれている。


 そして今日、秋は直や花と一緒にその旧校舎を探検することになっている。担任の山中先生が記念にと、特別に旧校舎の中を見せてくれるそうなのだ。


 旧校舎には色々な噂話が伝えられている。その中には「悪魔の絵」と呼ばれている自画像や、夜に動く初代校長の銅像などがあるらしい。


 もしかしたら、それを今日確かめることが出来るかもしれない。とはいっても、秋はそれにあまり興味はなかったが。


 そこで秋は花の顔を思い浮かべる。花は旧校舎の噂話に興味津々といった様子だった。そんな花を見ていたら「まあそういうのもいいか」という気持ちになるから不思議だ。


 ああ、やっぱりカメラを持ってくれば良かった。家に取りに戻れば良かったかな。

 でも今さら家に戻るのも面倒だなあ。携帯のカメラでいいか。


 そんなことをまた思いながら秋は、今や目の前に見える学校へ向け歩みを進めた。



 桃子



 森下 桃子(もりした ももこ)は学校へと続く並木道を、小さな歩幅でのろのろと歩いている。


 もともと小柄で色白のせいか、陶器のような滑らかな頬は赤く紅潮していた。

 二歳年上の姉である桜子は、とっくに準備を済ませ、さっさと家を出てしまっていた。

 桃子たち姉妹は周りからは品行方正で、清楚な姉妹という評価を得ている。


 しかし実際のところ、桃子と桜子の性格は基を同じくしつつも、全く対極の位置にあった。


 桜子はまさに大和撫子を絵に描いたような人で、誰に対しても礼儀正しく、勉強もスポーツもでき、友達も多い。更に小さな学校ながらも生徒会長という役職についていて、教員達からも頼りにされている存在だ。


 それに引き換え桃子は、運動神経はまるでなく、おっとりとした性格をしている。

 その上、生まれつき体が弱いせいか、よく熱を出して寝込んでしまう有様だった。

 だからなのか、友達と外で遊ぶよりも、家で本を読んだり、音楽を聴いたりするほうが好きという完全な引きこもり気質であった。


 更には極度の面倒くさがり屋で、面倒なことは極力避けていた。やらなければいけないことは必要最小限にし、余計なことはしない。ただ自分の好きなことを、自分のペースでやりたいと思っているのだ。


 相手に対して表向きは物怖じしない姉に比べて、桃子は人と関わるのが大の苦手だ。そんな性分もあってか、よく周りから「変わった子」だと形容されていた。


 しかし、周りと違うということは桃子自身も自覚していることだった。なので今では、自分が気にしなければ別にいいのだ、と悟ってしまっていた。


 幸いにも勉強においては、桃子も姉に負けず劣らず良い成績を修めている。そのおかげで周りの大人たちは、変わった子イコール頭が良い子だと解釈して温かい目でみてくれている。そして学校の子たちも、そんな桃子には一目置いてくれていた。


 まあ、それは桜子の妹だという効果もあるだろうけれど。


 ――そんな桃子にも、唯一心を開くことのできる人がいた。


 秋は、今日の終業式の後、私の家に遊びに来る約束、覚えているだろうか。


 桃子はそんなことを思いながら、今日は秋と何をしようかと考える。秋は桃子より一つ年上だが、桃子の数少ない理解者だ。


 桃子と秋は趣味がよく合い、秋が薦める本や音楽は必ずといっていいほど桜子のお気に入りになった。逆に桃子が薦めるものも秋は気に入ってくれるので、これほど貴重な存在はいなかった。


 いつのまにか、秋と一緒に図書室で本を読んだり、部屋でお気に入りのCDを聴いたりすることが桃子の最も好きな時間となっている。


 以前、自分が持つ不思議な力について秋に話した時も、秋は素直に信じてくれた。

 今までは人に話すのが怖くて、桜子にしか話したことがなかった、秘密。


 桃子は秋のそんな態度に心から安堵し、秋のことを心から信頼した。思い切って話して良かったと心から思った。

 秘密の共有者が一人増えたことは、桃子にとってとても心強いことだった。


 終業式が終わったら秋と図書室で何かDVDを借りようと、桃子は決める。

 こんな田舎にはDVDを借りられるようなお店がないため、学校側がわざわざ図書館にDVDを仕入れてくれているのだ。


 そんなことを考えているうちに桃子は、「桜谷山白滝(さくらややましらたき)」という名前の、小さな滝の前に来た。


 そこにはささやかながらも小さな祠がある。何を祀ってあるのか不明だが、そこでお参りすることが、小さい頃から桃子の習慣となっていた。そして、誰かが備え付けた木製のベンチに腰掛け、そこでしばらく休むのが、桃子のお決まりの登下校パターンになっている。


 そこで桃子は、「終業式の後にちょっと用事が入ってる」と秋が言っていたことを思い出す。そういえば待ち合わせはそれで16時になったのだった。

 確か、旧校舎を覗きに行くからとか何とか。


 そういえば、私も桜子に誘われたような気がする。確かめんどくさくて断ったのだった。

 そこで桃子は、お人好しの自分の姉のことを思う。

 桜子は世渡り上手なくせに、いつも肝心なところは鈍くさいんだから。


 私はDVDだけ借りて、先に帰って待っていようと、桃子はのんびりと考え直す。


 まさかこれから、長い長い、奇跡のような一日が待ち受けていようとは、今の桃子には想像もできなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る