「他人」と生きるということ

後田 燐寸

「他人」と生きるということ

 あなたがもし家族や友人のことを「他人」と呼んだら、彼らはあなたのことを薄情はくじょうだとか、無礼だと思うかもしれない。果たして「他人」とは、本当に薄情で無礼な存在なのだろうか。

 「他人」という言葉には大きく分けて二つの意味が存在する。一つは「関係のない人」、もう一つは「自分以外の人」である。「他人」を前者として考えている人は世間を、関係のある隣人とそうでない他人との集合で考えてしまうだろうが、それは愉快ゆかいなことだとは言いがたい。

 

 街にり出せば数え切れないほどの他人に囲まれる。他人のうずの中、肩がぶつかった二人の青年はお互いに気にせず通り過ぎていく。カフェで片手を上げ、店員を呼びつけたサラリーマンは「コーヒー」とだけ言って新聞紙に目を落とす。当然、そこに感情を持った人間同士の関係はない。にもかかわらず、生きていると他人との接触をあらゆる状況で強要されるのだから、これを喜ぶ人は、まあ、変わり者だろう。

 それに対して隣人との付き合いはどうだろう。私たちは大抵隣人をうやまって生きる、そうするようしつけられているか、社会の規範としてそうするのが当然と考えさせられているかの違いはあるが、結果は同じである。つまらないジョークに声をあげ、相手の顔色を気にして相槌あいづちを打ち、自分を良く見せる為に嘘をき、嫌いな上司に頭を下げる。その割に、他人と見なすことはできないため、半端な期待感を抱き、なにか不都合なことが起きると相手に勝手な失望をいだいてしまう。もちろん、心からの友情や愛情、敬意を否定するわけではないが、それは隣人のうちの少数にのみ存在していて、大多数はこういった、信頼や利益を得るために隣人と見ざるを得ない他人同然の「ナニか」だ。厄介なことに、子供から大人になる過程で、社会への露出度と比例するようにこの「ナニか」は増えていき、本来の隣人の存在を忘れ、人は社会がいよいよ得体のしれないモノの集合に見え、ああ生きることはなんて面倒なのだと辟易へきえきする。

 

 隣人と他人の違いなど曖昧なもので、能動的に相手を定義するというより、受容じゅようする態度を使い分けているに過ぎないと言える。だが、世界を自分とそれ以外の「他人」と考えたらどうだろうか。ここにおける「他人」とは、あくまで概念としての「他人」に過ぎず、そこには善意も悪意も存在しない、無差別の平等。良くも悪くもなければ、私たちは家族、友人に対する敬意を失ってしまうのかというと、そうではない。

 人間は、どれだけ親しくても時に衝突を得るものである。「ああしてくれるだけでいいのに」、「そんなわかりきったことをどうして」。こういった価値観や意見の些細ささいな不一致は、人と人との距離感に左右されず、絶対的な位置に存在する当然の相違そういであるが、多くの人はこれを良くないこととして心の内側に封じ込めたり、激しく反発したり、あるいは前提として価値観の一致した人間のみとの交友を望んでしまう。ではそもそも相手を他人と見なした場合はどうだろうか。他人に対してあれこれと要求したり、行動の一つひとつに目くじらを立てたりする人は少数だろう――いないとは断言しないが。むしろ、他人の方がそういう意味では無害な存在であるため、私たちは余計な不満を抱えることが無い。

 加えて、私たちは初めて出会うストレンジャーに対して敬意を払うことがあるだろう。友人に当然そうするように、である。つまり、普段は意識していないだけで、敬意を払う相手はもともと私たちが決めているのだ。その範囲が広いか狭いかは個人にるが、そう考えれば、友人らを他人と見なしたところで関係性にひずみが生じる恐れなど無いと言える。

 

 「他人」を広く再定義することで、親愛なる違いを容認する第三者的な視点が得られ、これまでの関係を守りながらも、見知らぬ交流へと踏み出すことができるのではないだろうか。「他人」と生きる世の中で体温を失わないようにするために、だれかと肩を抱き寄せるのも悪くはないが、一歩外へ踏みだし、「他人」と同じ陽光ようこう享受きょうじゅすることを、改めて提案しよう。

 

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