病は気から

「軽い風邪のようなものでしょう。お薬一週間分出しときますね。」


 その言葉を聞いて目の前の老人はにこやかに去っていった。


 私はいつも通り淡々と仕事をこなす。

 患者の多くは「喉が……」だったり「頭が痛くて……」とか、「熱があって……」とそれぞれ症状を訴えてくる。……が、そのどれにも私はこう答える。


「軽い風邪でしょうね」と。


 それを聞くとどの患者も納得した様な表情を浮かべ「あー、やっぱり風邪なのか」と、さっきまで見せていた不安の顔が嘘のように晴れ安堵のそれに変わる。


 人間とは、進化の過程で脳が大きく発達した。

 それは四足歩行から二足歩行に変わる過程で両手が自由に使える様になり、その結果、捕食者から身の安全を守り、獲物を獲保して生命を保ちながら、地上生活に適応できるようになり、大脳の容積が次第に増大し、知能や知性が進化したということ。


 ……私が何を言いたいか。

 それは人が進化しすぎた脳を持つため不安という感情を手にしたという事だ。

 不安という感情の根本を考えたことがあるだろうか?

 まだ人間が狩猟を行なっていた時代。

 獣と狩る、狩られるの生活を行なっていた頃だ。その頃の人間は文字通り命掛けで狩りを行なっていた。鬱蒼と生い茂るジャングルに足を踏み込み、耳で、目で、鼻で、肌で、獣の気配を察知する。


 その際、彼らの緊張感はピークに達していただろう。アドレナリンが溢れ、生物の自然的欲求『死にたくない』という考えが頭を埋め尽くす。それは即ちだ。しかし、『死にたくない』が不安という感情の根本ではない。不安の根本とは『』だ。どこから敵が襲ってくるか。初対面の相手がどんな人か。人間は死んだ後どうなるのか。だから人は死に対して不安を覚える。


 そして人は脳が発達したあまり、過剰に物事に反応する様になった。例えば江戸時代、まだ電気が無い時代。夜は薄っすらと灯る蝋燭の光を頼りに生活をした。するとどうだ、ホワッと明るいその光は、全てを照らすわけではないから見えない部分が出てくる。

 そう、人は想像イメージする様になった。『もしかしたら』と考えるのは人間の武器であり弱点だ。


 さっきまでの患者達だってそうだ。自分達が半端な知識を持っているが為に、自らの症状が重いのかどうか分からない。『大変な病気なのでは?」と、考える。『不安』の根本は『分からない』だ。


 だから私が「軽い風邪でしょうね」と言うだけで彼らの中の『もしかしたら』が払拭されて安心した顔をして帰っていく。


 ……と、いうのは私が自らの心を保つための言い訳に過ぎない。実は私は医師免許なんて持っていない。医大には入ったが中退した。


 けれどそんな私でも白衣を着て一言、「大丈夫ですよ。軽い風邪です」と添えれば患者皆んなが喜んだ。

 真に彼らが考えなければならなかったことは、「この医者は医師免許を持っていないのでは?」である。

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