第7話 主の名前


「雨、止みませんね」


 フェイリスが洞窟の隅で膝を抱える。ほとんど裸同然の格好だ。冷えるのだろう。


 山の天気は変わりやすいが、一日も足止めを食うとは思わなかった。


 俺もついにおたずね者。


 街道を使えないため、山越えを目指す。山は初めてではないが、ろくな装備もない状態では苦行に等しい。


 フェイリスは獣らしく安全なルートを請け負う。「ここいらは庭みたいなものです!」ほんとか? 毒キノコを食べて倒れた時はヒヤヒヤしたが。


 赤くなった彼女の肩に上着をかけてやる。頬まで赤味がさした。


「あ、ありがとうございます……、主」


「お前、これからどうする?」


 何度となく繰り返されたやりとり。フェイリスはその度に力む。


「主のお側に……! ご迷惑はかけません」


「俺は金時計を探す」


 ジェシカはわざと時計を落として、俺に拾わせたように思う。深い意味はわからないが、クランツとの仲を見せつけたかったとかだろう。ただじゃおかねえ。時計を見つけて冤罪でしたと言わせてみせる。


 そしてあの時計を持っていった連中は、


「ヴェーラが言っていたですね」


 確証はないが、獣王の証を持っていた奴らだ。統率権を奪ったり、ヴェーラに魔法を仕込むくらいわけないだろう。


 生き延びたヴェーラの処遇は、フェイリスに任せた。縄張りを託したのは意外だった。


 一番驚いたのはヴェーラのようだった。激高し、侮辱だ。殺せと喚いた。そんな姉にフェイリスは、


「王は仲間を信頼し、大らかに構えるものです。ま、心の狭いヴェーラには無理かもですが、後をお願いします」


 ヴェーラは毒気を抜かれたように笑い、「大きいなお前は。そして大バカだ」と言って、山のどこかへ消えた。もはや無意味に人を襲うことはないだろう。


 ボス争いで敗れた個体が群れに残る事はままある。フェイリスが決めたのだから何も言うつもりはない。


「別に無理に付き合う必要はないぞ。俺は身の潔白を証明したいだけだから」


「わたしも、あの方とやらに借りがあります。ヴェーラをそそのかした者に鉄槌を下してやりましょう」


 ヴェーラはあの方をよく覚えていなかった。小さい人型としか。俺と同じだ。正体は不明。


「ところで、その主っていうのやめないか。堅苦しいし」


「えっ! でも主従の線引きというのも大事ですよ?」


 従えるという実感も特にないし、俺は構わないのだが。むしろこんな姿にした責任を感じている。


「試しに呼んでみてくれよ。スミスって」


「スミスぅ」


「唇めくりあげんな。腹立つ。ほら、もう一回」


 何故か抵抗があるようだった。声が小さい。そのうち慣れるだろう。


「スミスぅ、まだあの女に未練があるのです?」


「は?」


 ジェシカの事を蒸し返され、言葉に詰まる。まだかさぶたにすらなっていない心の傷だ。


「わ、わたしがいるんだし、あんな女さっさと忘れちゃいなさいよ」


 いや、誰なんだよお前。励まそうとしてくれている……?


「スミスぅが望むなら、体触らせてあげてもいいですし」


「どうせ大胸筋でしたってオチだろ。もう女は懲りたね。少し寝る」


 不機嫌そうに言って、俺は横になる。本音ではめっちゃ触りたい。


 なんで女ってあんな重そうなもの下げて平気な顔してるんだろう。見たら見たで嫌そうな顔する癖に。しかもこいつは獣。欲情したら負けだ。


「誰も胸を触らせるとは言ってませんよ。肩のあたりに違和感があるので確認して欲しかったのですが」


 策士! 誤魔化さなければ。


「ヴ、ヴェーラにやられた傷か」


「はい。あ、でも、スミスぅの近くにいると治りが早い気がするので離れないで下さいね」


 獣王の証の効果か。まだ不明な点が多いので、できる事を慎重に探っている。ヴェーラや他の虎たちにかざしてみたが、反応はなかった。女王個体限定の可能性が高い。あとなんか体が疲れやすくなった。歳のせいかもしれないが。


「お、雨止んだな」


 洞窟の縁から水滴が垂れて、靴に染みた。棒みたいな足でまた歩かなきゃならないのは気が重い。


「スミス! 早く来てください! 虹ですよ虹!」


 子供のように飛び出したフェイリスの後を追う。


 晴れ間の空から指す光は清々しい。これまでの疲れを一時忘れた。

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