LV56「奇襲作戦」

 蔵人が身構えたとき、目の前の空間が悶えるように歪んだ。


「きたか――」


 黒い影が徐々に人の輪郭を帯びて、やがて巨躯の魔人へと変わった。


 シド。

 混沌の魔女の力によって現世に蘇った伝説の勇者パーティーの格闘士である。


「ひいいっ」


 春の魔女はシドの姿を見るなり怯えて蔵人の背中に隠れた。


「あのな……」

「アイツをギッタンギッタンにやっつけなさい!」

「へいへい」


 蔵人はシドを包囲しようと臨戦態勢に入る仲間たちを左手で制止した。


「ふん。これで終わりね。私の最強の手駒に無数の兵士たち。どちらにせよ、あなたたちの嬲り殺しは確定よ」


 混沌の魔女が勝ち誇った表情のまま顎をわずかに上げた。


「だといいがな」


 蔵人は混沌の魔女に応じると、胸元から銀の懐中時計を取り出して月明かりにかざした。


「なに、なんなの?」

「そろそろか」


 懐中時計の針が深夜零時を差すと、贖いの塔の最上階に据えつけられていた巨大な鐘が鳴り響き、厳かに日付が変わったことを知らせた。


 鳴り響く鐘の音はさらに木霊し、夜の闇を破って蔵人の耳を聾した。それを合図に城壁の外から天地を揺り動かさんとするほどの、雄叫びと軍鼓が轟き渡る。


 同時に、階段を息せき切って登り切った物見が肩を上下させながら叫んだ。


「申し上げます。前方に諸侯の軍勢が突如として現れ、城に攻め寄せてきました」


 この報せは余裕を口辺に漂わせていた混沌の魔女の機嫌を損ねるのに充分だった。


「数、数は」

「オズボーン侯爵を主体とした歩騎三万。先陣は悪名高きテンプレ騎士団がおよそ千騎」


 混沌の魔女は長い小指の爪を噛みながら憎悪に満ちた視線を蔵人に放った。


 だが、指揮官として、彼女もまた無能ではない。

 すぐさま階下に控えていた親衛隊長に指示を下した。


「まんまと策が当たったと言いたいようね。貴方、クランドとか言いましたかしら。私、腕が立つ殿方は嫌いじゃありませんの。すぐ、その横にいる負け犬のお嬢さまをおとなしくこちらに差し出せば、好待遇で迎えますわよ」


「あいにくと、そこのオッサンとまだ決着がついてないんでね。それに、おまえみたいな女は信用しないことにしてるんだ。顔に嘘つきって書いてあるしな」


「……ふん、千載一遇の機会を逃しましたわね。シド、下に残っている兵を呼び寄せて残らず討ち取りなさい。私は気分がすぐれないので、手早く済ませなさいな」


「黙っていろ」

「な――」


 混沌の魔女は苦汁を呑み込んだような顔つきで手にしていた扇をばさりと落とした。あまりのことに、従者のサンディーも顔を蒼白にして震えている。


 冥府に落ちて混沌の魔女の霊力でこの世に現存しているシドが逆らうことは、受肉した身体を失うということにほかならない。


 圧倒的な上位存在であるはずの混沌の魔女は、まさか手駒が逆らうなどと微塵も思っていなかったのだろう。ただでさえ引き攣れ気味だった表情がさらに歪んだ。


「まさか、あなたは、この期に及んで私に対しても返り忠を――?」


「誤解するな。あの男、戦士クランドと勝負を着けたくなっただけだ」


 シドはわずかに眉を上げると壇上から跳躍して広場に降りた。


「さあ、クランド。余人を交えずこの場で雌雄を決しようではないか。我はシド・ガーウェル。この戦いにだけは微塵の曇りもない。貴殿に正々堂々の一騎討ちを申し込む」


 と、シドが多くの兵に聞こえるよう高らかに宣言した。


 迎撃に向かった以外でその場に残っていた兵たちが応ずるように鯨波を作った。


「愚かなことを。なにを勘違いしているのだか――親衛隊長。下の者たちに伝えなさい。直ちに、アシュレイ以下叛徒を討ち取りなさい」


 混沌の魔女に命ぜられたカイゼル髭の親衛隊長が息せき切って転がるように階段を下りた。広場に残った兵たちに向かって居丈高に怒鳴るが、誰ひとりとしてその場を動く者はいなかった。


 名乗りを上げての正々堂々の一騎討ち。

 シドの強い思いが配下の兵士たちに遍く伝播して、その心胆のありようが理解されたのだろう。


 混沌の魔女は所詮は女である。

 ノワルキの愛姫としかみなされていなかった彼女の命令は誇りと命を懸けて戦う男たちの根源的な部分で拒否されたのだった。


「てなわけだ。あのオッサンとカタつけてくらあ」

「クランド……」


 片手を上げて階段を降りようとする蔵人の前にアシュレイが歩み寄った。蔵人はそっと右手に伸ばされたアシュレイの震える指に片眉を上げた。自然と視線が絡み合った。


 喜びよりも不思議さを前面に押し出していたアシュレイの頭の上に蔵人の大きな手のひらがそっと乗せられた。静かに撫でると、瞬間、アシュレイの表情が童女のように和らいだ。


「任せろ。必ずアイツをぶった切る」

「ご武運を」


 蔵人はアシュレイのすがるような視線を振り切って階段を下りた。


 その後ろ姿には、もう、なんら未練はなかった。

 ただひたすら階下で待つ蘇った英雄にのみ意識が向けられていた。



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