LV55「三文芝居の終わり」

 アシュレイを凌辱しようとしていた奴隷のボビーが状況の変化に追いつけず、呆気に取られてポカンと大口を開いたまま動きを止めている。


 その一瞬の隙を衝いて、瀕死であったはずのクレイグが素早く立ち上がりざまにボビーに向かってジェイクのナイフを振り下ろした。


 刃渡り三十センチほどのナイフがボビーの脇腹から肝臓と腎臓を楽々と刺し貫いた。ボビーはくるりんと白目を剥くと、口元から蟹のような泡を吐き出して仰向けに倒れて絶命した。


 クレイグの攻撃による傷はそれほど深手ではなかった。だが、人間は痛みに酷く弱い。ボビーは強烈な刺し傷の痛みに心臓が耐え切れずショック死したのだ。


 このわずかな間に処刑人に化けていたルーファスが治癒魔法を行っていたのだった。


 戦線に復帰したジャレッドとスペンサーが素早くアシュレイを拘束台から解放する。


「貴方はアシュレイが連れていた護衛。しかし、それがなんだというのですか。戦況が逆転できたとでも? たった六人でなにができるというの。冷静に周りを見てごらんなさいな」


 肩に刺さった手斧を引き抜いた混沌の魔女が感情のまるで籠らない声で言った。


「なぁに。芝居の演出が少々俺好みじゃなかったもんでね。こっからは役どころを交代させてもらうとするよ。せいぜい派手に踊ってもらうぜ。主演の喜劇女優にな」


「道化風情が、この私を誰だと思っているのですか」

「芝居の成否は演出家に帰するもんだ。その点、姉ちゃんにゃそっちの才能もねぇみてーだな」

「なんですって……!」


 混沌の魔女が唇を歪めて右手を真っ直ぐ差し出した。

 嵐のような魔力が物凄い勢いで叩きつけられた。


「のわっ!」


 九十キロを超す蔵人の身体が軽々と浮いた。

 ほかの仲間も同様だった。


 ――地上に叩きつけられる。


 そう思った瞬間、懐に仕舞っておいた緑の玉が宙に浮いて激しく輝いた。


「春の魔女!」


 シドに殺されたはずの春の魔女が杖を差し向けて混沌の魔女が放つ魔力のうずを全力で堰き止めていた。


「くたばったんじゃなかったのか!」

「あのくらいじゃ死なないわ! 休んで傷を回復させてたの! 私が防いでいる間に。さあ、アシュレイ! やっておしまいなさいっ!」


 春の魔女が左手を突きだしてアシュレイに緑の光を放射した。


「これは……?」


 アシュレイの身体が薄い緑の膜で覆われている。春の魔女が加護を与えたのだろう。


 混沌の魔女が鋭く舌打ちをしたのが響いた。


「私は春を司る魔女よ。緑の加護であなたの力を底上げしたわ!」


 虚空に浮いている春の魔女が言った。アシュレイは向き直ると一切躊躇せずに、混沌の魔女が放出する魔力のうずに飛び込んでいった。左胸に刻まれたアシュレイの聖痕が輝きを強めた。


 混沌の魔女の隣に控えていたサンディーが焦りながら矢をつがえるがもはや間に合わない。


 アシュレイは魔力の束の裂け目に身を投げ入れると猫科の猛獣を思わせるしなやかさで混沌の魔女へと襲いかかった。


 全身からアシュレイがオーラを外に向けてほとばしらせたのがわかった。


 鋭い気合を込めてアシュレイが吠えた。

 膨大なオーラの籠った鉄拳が混沌の魔女の顔面を激しく打ち据えた。


 骨と肉が鳴る音が響き渡った。

 素早くアシュレイは後方に飛び退って迎撃の構えを取った。


 混沌の魔女の身体は木枯しに舞い上げられる木の葉のようにくるくると回転して転がった。


 サンディーが駆け寄りざまに「ひ」と引き攣った悲鳴を上げた。


 うつぶせのまま首だけを上げた混沌の魔女の顔は激しい怒りに塗り潰された世にもおぞましいものへと変貌していた。


 ぼたぼたと混沌の魔女の鼻腔から真っ赤な血が垂れ落ちる。


 点々が広がると同時に夜叉が細い肩を震わせながら立ち上がった。


「シド! この者たちを皆殺しにしろ!」


 憤怒の表情で混沌の魔女が怒声を放った。

 それは若い娘の声ではなく、人に命令するのに慣れ切った年増女のヒステリックな叫びだった。


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