LV16「聖痕」

窓から薄っすら差し込む日差しでアシュレイは目覚めた。

 朝である。

 寝具から身を起こし窓を開くと世界が水色に包まれていた。


 新しい一日が始まろうとしている。

 ――また、無為な日を過ごしてしまった。


 賢者ロペスとの修行を終えて後、師がいうような大義を果たすための仲間を探すためと生計のために冒険者の世界に身を投じたか、未だ結果はついてきていない。


 幸か不幸か、アシュレイの実家であるウォーカー家の追討から百日も経たぬうちに、騒動自体が世間から急速に忘れ去られようとしていた。


 アシュレイの悲しみと怒りは深いが、大衆から件の事件が薄れることによって、警戒は解け行動はしやすくなっていた。


 命懸けの仕事でわずかな賃金を溜めて行動費に充てる。


 ――本当にこのままでいいのだろうか。

 アシュレイは漂泊の旅の折、幸か不幸か親切な少年に出会い格安で宿屋の部屋を借り受けることに成功していたので日々の生活は贅沢をしなければ特に問題はなかった。


 部屋の外の気配を窺って扉を開ける。

 無理をいってこの時間用意して貰っている湯の入ったポットを台車から受け取ると部屋に戻り、洗顔及び身支度を行った。


 胸元を拭う。

 アシュレイの左乳房の上部に奇妙な痣が現れていた。 


これは生まれたときにはなかったものだ。両親も、アシュレイを取り上げた乳母も知らない。この奇妙な痣が現れたのは、二年前だ。なにか理由があったわけではなく、この赤い痣は突如として出現した。修道院長に相談した際に、彼女はこれがアシュレイを導く聖痕であると言っていた。鮮やかな朱色のそれは、日を追うごとに奇妙な紋章として浮かび上がり、知らぬ人間からすれば刺青以外には見えないだろう。このこともアシュレイが婚約者であったノワルキ皇子に肌を許さない原因のひとつであった。


 ――聖痕が疼く。

 ここ数日は特に酷かった。痛みではなくむず痒く、爪で触れ掻くと得も言われぬ快感を伴ってアシュレイの意識を奪う。


「私は朝からなにを」


 就寝時、外してあった仮面をここでようやく装着する。貴族令嬢であるアシュレイは有名人でもないが、一応は指名手配の身の上なので万が一を期して仮面はつけ続けた。師であるロペスから受け取ったこの仮面は強力な精霊の加護があり、邪な力を受けつけぬもので防具の意味もあった。


「あら、シスター。おはようさん。今日も早いね」

「おはようございます。アンナ、朝食はいつものように部屋へお願いします」


「はいよ。シスター、いい一日を」

「はい、あなたにも神のご加護がありますように」


 でっぷりと太ったアンナはアシュレイを案内してきた少年ジャックの母でこの宿屋の女主人だ。


 早くに亭主を失くした彼女は女手ひとつでひとり息子のジャックを十六まで育て上げ、信心深いこともあり格安でアシュレイに宿を貸してくれている恩人である。


 アシュレイは中庭に出ると、故郷の父母や姉弟など親族たちが眠るであろう方角に跪き祈った。


 無理やりに叛徒としてでっち上げられ一族を滅ぼされたアシュレイは毎朝彼ら彼女らの冥福を祈ることだけである。


「シスターおはよう。今日もいい朝だね」

「ジャック、おはようございます」


 気配に振り向くと宿屋の孝行息子で知られるジャックが朝食の用意に使用する薪を運びながらアシュレイの偽りの名を口にした。


「毎朝いつも大変ですね。あなたのような人を持ってアンナもさぞ自慢でしょう」


「え、ええっ。こんなの普通だよー。それよりシスタークラリス。身体は大丈夫かい? なにかあったらドンドン僕に言ってよね。できるかぎり力になるからさ」


 ここではクラリスという妹の名を名乗っていたアシュレイは年下の親切な少年に頭が下がる思いであった。現在所属している冒険者ギルドも彼の母である土地の人間であるアンナの口利きがなければ加盟できなかっただろう。


一体、縁もゆかりもない人間の「事情がある」の一言だけでなにも聞かずに身体を張ってくれる者がどれほど貴重であるか。アシュレイは表向きは修行の一環として冒険者稼業に身をやつしているが、堅気の人間からすれば眉唾物の存在である。


「ありがとうございます。でも、問題ありませんから」

「そ、そうかい……?」


 ジャックが熱っぽい目でこちらを見ている。貴族社会と両親の庇護から離れて初めてアシュレイは世間というものに触れて、視野が広がった。アシュレイはジャックが自分に対して気があるということを早い段階で気づいていた。


「な、なあクラリス。本当に例の件は冗談じゃないんだよ。この前は、ちょっとごまかしたけど、僕と一緒にこの宿屋をやっていくっていうの考えて欲しいんだよ……」

「ええ」


 アシュレイはジャックの話に乗るつもりはなかった。それは、彼が平民であるからとかそのような問題ではない。実際、自分が公爵令嬢であったことを忘れて、ただの女としてジャックに嫁ぎ平凡な宿屋のおかみとして一生を終えるほうがよほど幸せになれるということはたやすく想像できる。混沌の魔女が暴虐を振るってもそれの害を受けるのは帝都にいる一部の皇族や貴族、そして上流階級の市民だけで、はるか南に位置するちっぽけな港湾都市にまで余波はほとんど来ないであろう。


(わかっていて、彼の行為を利用することは――)


 アシュレイはなんら悪意も打算もない好意を向けられたのは生まれて初めての経験だった。


 それだけに、修羅の道となる四季迷宮の攻略と、帝都にて余裕綽々の顔をしている混沌の魔女との対決を思えば、心が沈んだ。


「なあ、クラリス――」


 ジャックが薪を放り投げ手を握ってきた。動揺しないと決めつけていたアシュレイは不意に行われた意外なジャックの行為に胸が初めて揺れた。



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