LV15「賢者ロペス」
三日三晩馬を駆け通して乗り潰したアシュレイは、人気がなく美しい湖のほとりで手にしていた乗馬鞭を放った。
疲労が全身を覆っている。草むらには血が乾いた乗馬鞭が寂しげに転がっていた。鞭に残っていた血は逃避行の途中で追いすがる帝国兵を打ち据えた残滓だ。
黒っぽい森が延々と続き、鳥や小動物のわずかな鳴き声が控えめに響いている。
アシュレイは肩掛け鞄から布を取り出すと、きょろきょろとあたりを見回してから用心深く衣服を脱ぐと、清い水で身体を拭った。
ロクに食事もとってはいなかったが、疲れは彼女の身体に現れていなかった。真っ白な裸身の雫をすべて拭き取るとアシュレイは残った力を振り絞って修道服を着ると、服の袖から紙片を取り出すと法力を込めて空に放った。
紙片は宙に浮かぶとすぐさま真っ白な小鳥になって森の梢を軽々と飛び越え空に消えていった。
「お願い」
小鳥はアシュレイの法術によって現れた一種の使い魔である。修道院長の言葉どおり、この場所がノーワードに達しているのならば、この先アシュレイを導いてくれる賢者ロペスの庵は遠くないだろう。
「おかえりなさい」
ほどなくして白い小鳥は戻るとアシュレイの肩でちちちとかわいらしく鳴いた。念話で意思疎通を図ったアシュレイは賢者ロペスの位置を知ると、閉じそうになる目蓋をこすって歩き出した。
人生の中でもっとも精力にあふれる十七歳という年齢であっても、不眠不休の行動はさすがにアシュレイにも堪えた。
だが彼女の怒りと復讐の心はともすれば尽きそうな身体に残った体力の最後の一滴を無理やり絞り出させた。
よろよろと歩きながらアシュレイが森の奥に苔むした賢者の住まいを見つけたとき、とうとう意識が途切れ、糸がぷつんと切れたように気を失った。
「ホ、ホ。気づいたかの」
しわがれた声に意識は一瞬で戻った。アシュレイがかけられていた毛布を蹴って即座に構えを取ると、そこにはグレーのローブを纏った男が茶器を片手に立っていた。
短躯猪首。背はアシュレイよりずっと低い。一瞬、子供であるかと思いそうになったほどであるか、こちらを向ている顔は真っ黒な髭に覆われた成人男子のものであった。
ギョロリとした丸く大きな瞳の上を毛虫のような太さの眉がぴくぴく蠢いている。
――ドワーフ族。
島に住む少数民族であり、小柄であっても膂力に優れている。また手先が器用であり工芸品や細工物を作らせれば右に出る者はいない。
「ま、慌てるでない。ここは安全じゃて。ゆったりとした気分で落ち着くがよい」
「賢者ロペスさまでございますか。私は――」
「話は小鳥から聞いた。今回のことは難儀じゃったわ」
アシュレイはロペスから受け取った茶を舐めるように飲んだ。
馥郁とした香りと共になんともいえない滋味が口内に満ち溢れる。
身体がぽかぽかとあたたまりアシュレイはようやく人心地がついた。
「このような僻地にいても帝都の暴虐やアシュレイ、お主たち一族が味わった苦しみは伝え聞いておるよ。儂が睨むに、今回はのことは第三皇子が狂われたわけではない。混沌の魔女のなせる業じゃ」
「混沌の魔女――? あの、伝説の?」
「フム。どうやら皇子のすぐそばに現れた娘。ナタリヤに憑依しているのは間違いない。そうでなければ、ブルトン一の功臣かつ名将で知られるウォーカー卿の一族をああもたやすく滅ぼすことはできぬよ。アシュレイ、お主はノワルキがここ最近、混沌の魔女に関するなにかについて動いたことを知らぬか?」
「そういえば、先々月の半ば、皇子が士官学校のご学友とご一緒に封印の塔に肝試しにゆくと戯言を……そのときは私も必死にお諫めして皇子もお聞き入れ下すったと。まさか……」
「間違いないの。ノワルキは封印の塔に封じられた混沌の魔女をなんらかの形で解放したのじゃろう。封印は皇族の血を引く者でなければ解くことはできぬからの」
「ロペスさま。私は、この先どのようにすればよいのでしょうか?」
「それじゃがの。アシュレイ、お主は島を出て大陸にゆく気はないか?」
「え――」
「ロムレスじゃよ。幸か不幸かこれでもわりかし知人は多くてのう。大陸のロムレス王国の貴族に友がおる。アシュレイよ。罪はなくとも、もはや反逆者の烙印を押されたウォーカー家の子女としては島で生きてゆくのは不都合があるじゃろう。大陸の、ロムレスに渡ってそれなりの貴族に嫁げばお主は女としての幸せを得ることができる。誰かに嫁ぐのが気が進まなければ修道院で神に仕えて平穏に生きる道もあるが、どうじゃ……?」
「お言葉ですがロペスさま。それはできませぬ。混沌の魔女が復活したというのなら、それを止めるのは、ただ一個人の復讎ではなく、帝国のためでもあります」
「そうか。ならば、方法はただひとつじゃ」
「あるのですか。混沌の魔女を再び封じてこの国を救う方法が」
「魔女には魔女を――この島に住む四人の魔女と会い、その助力を得るしか道はない」
「魔女ですか」
賢者ロペスの忠告は修道院長と同じであった。
「島には四季迷宮という四つの迷宮があり、そこにはそれぞれ四季を司る四人の魔女がいる。魔女にはそれぞれ守護獣がついており、それを打ち倒し、力を示した者にのみ守護を与えてくれるのじゃ」
「私に、それができるでしょうか」
「儂が若ければ自ら出張ってことの収拾を図るのじゃが、病があってそうもいかぬ。代わりと言ってはなんじゃがの。アシュレイ、お主は修道院で習った拳法を使うようじゃ。どうじゃ。いささか儂にも腕に覚えがある。ここで武術を研鑽していったらどうじゃ? 焦るのはわかるが、ことを起こすのには、天の刻、地の利、人の和が必要じゃ。いまは行動を起こすときではない。わかるかの」
「ロペスさま。お心遣いありがとうございます。追っ手の騎士と戦いましたが、私の技もやはり錆びついております。大義の為に稽古をつけていただければ幸いです」
ロペスはニカッと顔一杯で笑って太く大きな拳を差し出してきた。アシュレイはその場に片膝を突くと、その手を取った。
子弟の契りを結んだ瞬間だった。
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