第44話
口数が少なくなった殿下の背中に大人しくついていく。彼が今どんな表情を浮かべているのかは分からない。
小一時間ほど経ったかと感じた頃、町外れにある森入口に辿り着いた。以前、義弟と一緒に来た森と同じ場所だ。
予想もしていなかった場所に思わずポカンと森を見上げていると、殿下は躊躇なく森に足を踏み入れた。
殿下の背中を追い掛けるしか選択肢のない私は慌てて殿下についていく。
義弟と一緒に来た時は、木々が青々と生い茂っていたが、今ではその葉もほぼ抜け落ち、寒々しい姿となっていた。
歩く度、足の下で落ち葉の絨毯が湿った音を立てる。落ち葉に足を取られないように慎重に歩み進めていると、ふと義弟と一緒に過ごしたカモミール畑の事が気になった。
確か義弟は、あのカモミール畑は一年中枯れることなく咲いていると言っていたはずだ。
「あの、殿下。」
「テーオ。」
「…誰も居ないのでもういいじゃないですか。」
「はいはい。で、なに?」
殿下は振り返らない。私はそれに構わず背中に話し続ける。
「私、寄りたいところがあるんです。知っていますか?ここには一年中咲いているカモミール畑があるんですよ。」
せっかくここまで来たのだ。少しぐらい寄り道しても良いだろうと思った私は殿下に提案すると、殿下は急に立ち止まり、振り返った。突然の事に私は止まることが出来ず、そのまま殿下の硬い胸にぶつかってしまった。
「ぶっ。」
鼻を強打する。地味な痛みに悶えながら、両手で鼻を抑えている私を殿下は呆れた表情で見下ろした。
「何やってんだ、お前。」
「殿下が急に止まるから。」
「あー、そりゃあ悪ぃ。ってか、それよりも…」
「“それよりも”って…」
「何であの花畑知ってんだ?」
何でって…
「少し前に、ユーリに連れてきてもらったことがあるんです。」
「…へぇ?」
そう言う殿下は何か考え込むように、顎に手を添えた。その様子に首を傾げる。一体どうしたのだろうか。
「殿下も知っていたのですね。」
「知っているも何も…、まぁいいや。あんな気味の悪い所なんて行かねぇーよ。」
嫌そうに顔を顰めた殿下は、再び森を歩き出した。そんな殿下を慌てて追い掛ける。
「お待ちください。気味が悪いってなんですか?」
「一年中咲いているとか、普通に考えて気味が悪いだろ?」
そう…だろうか?奇跡的で、とても素敵だと思うのだが…。
花畑に足を踏み入れた時、嫌な感じはしなかった。寧ろ、暖かく迎え入れてくれたような…。
義弟と一緒に見たカモミール畑がまぶたに浮かぶ。可愛らしく、健気に咲いていた白い花。
―もう一度、見たい。
何故かそう強く思った。
「殿下。やっぱり行きたいです。」
「俺は行きたくない。」
「では、一人で行ってきます。」
「…はぁ?」
「直ぐに戻ってきますから、ここで待っていてください。」
道は覚えている。ここから直ぐだ。
少し覗けば満足できるだろうと思い、私は踵を返した。
「って、おい。ちょっと待てって。」
「ぐえっ」
突然、殿下に襟首を掴まれた私は、淑女にあるまじき下品な声を出してしまった。思わず後ろを振り返る。
「何をするんですか!」
「お前が子供みたいなことをするからだろ。」
「だからといって、女性の襟首を掴むだなんて非常識です。」
「はいはい、わるーございました。」
悪びれた様子もない殿下にむっとするも、彼の言う通り子供のようにワガママを言ってしまった自覚もあったので私は押し黙った。
頭上からため息が降ってきた。また私に呆れているのだろう。
今日の私はずっとそうだ。彼を困らせている。好きで彼を困らせたい訳じゃないのに。こんな自分は本当に嫌になる。
「…わかったよ。」
ポンポンと頭を軽く撫でられた。見上げれば「しょうがないなぁ。」というような感じの苦笑いを浮かべている殿下いた。
「一緒に行ってやるから、一人で行こうとするな。」
「…良いんですか?」
「よくわねーけど…。見たら直ぐに戻るからな。」
「ありがとうございます。」
「行くと決まったらさっさと行くぞ。」
そういう殿下は花畑の方角へと歩き始めた。先程と同様にその背中を追い掛ける。
…彼はなんだかんだ言っても、私に甘い。きっと、それはモニカの記憶が影響しているのだろう。
ここまで、彼に影響を与えたモニカの記憶とは一体どういうものなのだろうか。
―…モニカ、貴女は私が処刑された後、何を思って生きていたの?
※※※※※
「わぁ…!」
目の前に広がる光景に思わず歓喜の声を上げる。
そこには以前と変わらず、全盛期のように生き生きと咲き誇っている可愛らしいカモミール畑が広がっていた。甘い香りを胸いっぱいに吸い込む。
やはり、義弟の言う通りに一年中咲いているようだ。
「おい、もういいだろ。」
後ろを振り返れば、本当に嫌そうに顔を歪める殿下が居た。
「こんなにも綺麗なのに、どうしてそんな顔をするのですか?」
「さっきも言っただろ?気味が悪いって。」
枯れることのないカモミール畑を不思議だとは思うが、気味が悪いとは思わない。
「それにここは…っておい!どこに行くんだよ。」
私はふらりと花畑に足を踏み入れた。
「せっかく来たのですから、少しぐらい良いじゃないですか。」
「…ったく…。」
呆れる殿下を余所に、私は何処か夢心地でカモミール畑の中を歩き出す。前回と同じだ。この花畑に足を踏み入れると、何故か幸福感で胸がいっぱいなる。
フワフワと…私は、今、どこを歩いている?
「ふふふ…」
花畑の中心に行けば行くほど、甘い香りは強くなる。私はその香りに誘われるまま中へ中へと足を進める。
まるで、花の匂いに誘われて甘い蜜を求める虫にでもなった気分だ。
「虫?ふふふ…」
我ながら自身を虫に例えるだなんて、面白い。クスクスと笑いながら花畑の中心に辿り着いた。何となく、ここが中心だと思ったのだ。なんでだろう?でも、私はずっとここに来たかった。ずっと、ずっと…
私はその場にしゃがみこみ、足元に咲いているカモミールに手を伸ばす。
この子が1番香りが強い。
甘い、まるで林檎のような香り。
硝子細工を扱うように優しく1輪のカモミールを摘み取る。
そして、そのまま口元へと運んだ。
「何してんだっ!」
突然、誰かに手首を掴まれる。その反動で摘み取ったカモミールがはらりと地面に落ちてしまった。それがひどく悲しい。
「おい、エリザ。」
「…殿下?」
殿下の険しい顔を見て、ふと我に返る。
―私は、何をしようとしていた…?
自分の不可解な行動に唖然としていると、殿下は大きなため息をついた。
「あんなに食べたのに、まだ食いたんねーのか。」
「いえ、そんなことは…」
カモミールを一瞥した殿下は舌打ちをする。そして、掴んでいる手首を引っ張り上げ私を無理やり立たせた。
「わっ、」
転びそうになる私に構わず殿下はズンズン歩き始め、私達の足元にあるカモミールは無惨な姿に変わっていった。
「お待ちください、殿下。」
「もう待たない。行くぞ。」
強く手を引かれたまま、後ろ髪を引かれる思いで振り返った。そして目を見張る。
何故なら、カモミールの花々が一斉にこちらを向いていたからだ。その異様な光景にぞわりと肌が粟立つ。
その姿はまるで、私達を引き留めようとしているかのように見えた。
※※※※※
殿下に手を引かれるまま、森の奥へと進んでいく。
彼の背中を見ながら私は既視感を覚えていた。
昔もこうして誰かに手を引かれて歩いたことがある。
まぶたに浮かぶのは、絹糸のような黄金の髪に私よりも少し大きな背中…。
そうだ、あれは義弟ではない。
――あれは…
「着いたぞ。」
気付けば、私達は開けた場所に辿り着いていた。周りには木々がなく、とても見晴らしが良い。
その中心ある木で造られた小さな十字架が、何処か寂しげに私達を迎えてくれた。
殿下はその十字架に近づき、片膝をつく。そして、十字架の足元に白百合の花束をそっとお供えした。
「殿下、それは?」
そう言いながら、私も殿下の隣にしゃがみ込む。
「お前の墓。」
真っ直ぐに十字架を見つめながら、そう呟く殿下。
「正確にはエリザベータ=コーエンの墓だ。」
彼の言葉が理解出来ず、私はただその静かな横顔を見つめる。
いつの間にかその瞳はいつものサファイアの瞳に戻っていた。
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