第35話



今年1番の冷え込みを観測した日の放課後、私はいつものように殿下の元へ行こうと魔力保持者の校舎に足を踏み入れた。2階へと続く階段を登り、突き当たりまで進めば殿下の部屋だ。


長い廊下を歩いているとバルコニーに誰かが居るのに気付いた。小柄で華奢な身体と艶のあるストロベリーブロンドの髪――聖女ベティだ。

聖女はバルコニーにある椅子に座り「うぬぬぬぬぬぬ。」と険しい表情で何やら唸っていた。そんな姿すら可愛らしい。


ふと、殿下の“聖女には近づくな”という忠告が頭をよぎった。



―分かってますよ、殿下。



私は聖女に気づかれないようにそっと踵を返す。遠回りをして殿下の部屋に行こうとした。



「あっ、エリザベータ様!」



遅かった。私は聖女に呆気なく見つかってしまった。


聖女は私を見つけると、満面の笑みを浮かべてこちらに駆け寄ってきた。失礼ながらその姿はまるで主人を見つけた子犬のよう。こんなにも嬉しそうな顔を見てしまうと、立ち去ることは出来ない。心の中で殿下に謝った。



「ごきげんよう、聖女様。」

「はい!こんにちは!最近エリザベータ様に全然お会い出来なかったので、やっと会えてとても嬉しいですっ!」



全てを浄化するような眩しい笑みに私は心の中で吐血をした。流石は神に愛された乙女。暴力的なまでの可愛らしさだ。



「そ、そうですね。最近少し忙しくてですね…」



…聖女の言う通り、最近私は彼女の前に姿を見せなかった。それもそのはず、殿下の忠告の元、私は徹底して聖女を避けていたからだ。

色々と忙しい聖女のことだから、放課後まで校舎には残っていないだろうと思っていたのだが……油断した。



「大変ですね…。私で手伝えることがあったら言ってくださいね!私、エリザベータ様のためだったらなんでもやりますからっ。」



小さい身体で胸を張る聖女は、この世のものとは思えないほどに可愛らしいが、何故ここまで私を慕う理由がわからない。



「まぁ、心強いです。」

「うふふ。あっ、エリザベータ様はこの後少しお時間ありますか?お願いしたいことがありまして…」



私の様子を窺うかのように聖女は上目遣いでこちらを見上げる。同じ性別であるのに、その可憐な仕草にクラクラした。そんな目で見られたら断れない。

思わず「大丈夫ですよ。」と返事をすると、聖女はまるで花が咲くみたいに喜んだ。



「ありがとうございますっ!エリザベータ様、こっちに来てください。」



上機嫌な聖女は軽やかな足取りで私をバルコニーへと案内する。廊下からバルコニーに出れば、冬の冷たさが頬を撫でた。外はだいぶ冷え込んでいる。この様子だともう時期、雪が降るかもしれない。

聖女は私を椅子に座らせた。



「お恥ずかしいのですが、私…絵を描くのが苦手でして…。先生からその出来があまりにも酷いと言われて、人物画のスケッチの課題が出たんです。そこで、エリザベータ様には絵のモデルになって欲しいんです。」



そう言う聖女の手には鉛筆とスケッチブックが握られていた。なるほど、彼女が放課後に残っていた理由はこれか。

神に愛された聖女にも苦手なことがあるんだなと少しだけ親近感が湧いた。



「モデル?私で良いんですか?」

「勿論!むしろ、エリザベータ様がいいんですっ!エリザベータ様がモデルになって頂けるだけでやる気が全然違います!私は今エリザベータ様のおかけでやる気に満ち溢れています!」

「そ、そうですか…。なら良いのですが。」



やけに熱弁する聖女は顔と顔がくっついてしまいそうな程、勢いがすごい。その圧に押された私は頷くしかなかった。



「はいっ!ありがとうございます!ではエリザベータ様、こちらに立ってください。」



聖女は私をバルコニーの柵の前へと案内する。私は言われた通りの場所に立った。バルコニーからちらりと下を見れば、まだ残っている生徒たちの姿がちらほら見えた。



「楽にしてて下さいね。すぐに終わらせますから。」



聖女はにこりと笑い、紙に鉛筆で絵を描き始めた。シャッシャツと鉛筆が紙の上を走る音がする。

その音を聞きながら、モデルをしている時はどうしていれば良いのだろう?と考えた。絵のモデルなんて初めてだ。動いては勿論駄目だし…私は暇を持て余していた。



「ごめんなさい。何も出来ないのって苦痛ですよね。」



私の心情を読み取ったのか、聖女が申し訳なさそうに言ってきた。私はそれに慌てる。



「そんなことはないですよ。モデルなんて、初めてなので少し緊張しているだけですから…」

「緊張なんてしなくていいのに…。あ、じゃあこのままお話ししていましょう!」

「お話ししてたら、絵を描くのが難しくなりませんか?」

「そんな事ないですよ!話しながらでも絵は描けます。それに私はもっとエリザベータ様とお話をしたいですから…」

「ぐっ」



そう言う聖女はまるで恋する乙女のように頬をポっと赤く染める。それを見た私は、何で私にそんな表情を見せるのかと噎せそうになった。



「例えば、エリザベータ様は私に何か聞きたいこととかありますか?何でも答えますよ!」



何でも…。

正直、彼女に聞きたいことは山ほどあるが彼女の正体が分からない今、それを馬鹿正直に尋ねるのはとても危険だ。そこら辺は慎重にならないといけない。300年前のように聖女の気を悪くして処刑されるなんて真っ平御免だ。



「そうですね…。聖女様はなぜ私をそんなにも慕ってくれるのですか?」



当たり障りのないことを聞くことに決めた。それに、この疑問はここ最近ずっと思っていたことだ。

聖女は一瞬キョトンとした顔をしたが、直ぐに柔らかく微笑んだ。



「エリザベータ様が殿下から私を庇ってくれたからです。あの日、突然殿下から怒鳴られて……怖くてパニックになっていた私を貴女は助けてくれました。」



聖女ベティと初めて出会った日のことを思い出した。確かにあの時の聖女は殿下にとても脅えていた。あんなにも顔を青くして震えていた彼女はとても演技だとは思えない。



「私、ついこの間まで普通の人間だったんですよ?それが、突然聖女だって言われても自覚なんてありません。…あまり大きい声で言えませんが、今も自分が聖女だっていう自覚はあまりありません。あ、これ誰にも言っちゃダメですからね?」

「誰にも言いませんよ。」

「うふふ、ありがとうございます。…そんな私が訳も分からないまま慣れ親しんだ場所から、この学校にも連れてこられて…ずっと心細かったんです。」



聖女は手を止め、そのピンクダイヤモンドの瞳で私を見つめた。


あぁ、やっぱりだ。私はその瞳から、目が離せない。



「この学校で初めて私に優しくしてくれたのはエリザベータ様、貴女です。それが、私には堪らなく嬉しかった…。これが貴女を慕う理由です。」



聖女があまりにも優しく微笑むものだから、私の心は罪悪感と疑心感に押し潰され悲鳴を上げた。



―あぁ、分からない。



何が真実で、何が嘘なのか。


彼女は聖女になったことにより孤独を感じていた。それなのにそれを人に見せることなく気丈に振る舞っている。あぁ、何て健気なのだろうか。いっそう庇護欲が掻き立てられる。あぁ、私が守りたい、守ってあげたい。


だが、これが私を騙すための嘘だったら?実は聖女ベティは聖女マリーで、前世の私を許せなくてまた殺そうとしている?


分からない。貴女がわからない。

私は何を信じればいいの?殿下?それとも目の前に居る聖女ベティ?

あぁ、分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない…



くらりと目眩がした。

身体を支えようとバルコニーの柵を掴む。



――その瞬間、



私の身体はそのまま傾き、宙に投げ出された。突然、内蔵がせり上がってくるような不快な浮遊感に襲わる。


耳元で風が渦巻いているが、不思議と世界はゆっくりと流れていた。


確かこれは“タキサイキア現象”だ。昔、義弟が言っていた。



『え?転んだ時、世界がゆっくりになった?ふふふ、それはですね…魔法ではなく脳の誤作動ですよ、姉上。命を守ることを最優先だと考えた脳は、大量の出血を防ぐために血管を収縮させたり、血液を固まりやすくするんです。なので、それ以外の活動を低下させます。その結果、目から脳へと伝わるはずの信号も鈍足化されて、世界がスローモーションに見えるんです。人間って、面白いですよね。』



―あ、死ぬ。



落下しながら、そう思った。








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