ある男の、生きる理由のお話 1

 正直、俺は賢人というものが心底どうでもよかった。


 ある男爵家に生まれた俺は、五歳くらいの時に先代賢人である爺さんに引き取られた。親は家から賢人が出たと喜んで差し出して、そこから一度も会っていない。顔どころか、家名だって覚えていない。

 そこから俺は賢人について学びながら育った。しかし、五歳の子供が突然親元から引き離されて次代賢人になれ、なんて言われても喜んで頷くわけも無い。

 毎晩毎晩、爺さんと顔を付き合わせて話す内容は賢人の知識について。子供の時は泣きながら帰りたいと喚いた事もあったけれど、出来ないのだ繰り返し説得されて、諦めた。遊びたいと叫んだ事もあったけれど立派な賢人になる事だけを考えなさいと言われ続けて、遊びは諦めた。


 趣味も諦めた。夢も諦めた。全部全部諦めた、諦める事が一番楽だった。


 そうして数十年が過ぎた時だった。素晴らしい賢人になる事だけを考えて生きろ、と教え込んだ爺さんは、神から素晴らしいお告げを聞いたと喜んで出て行き─────二度と帰ってくる事は無かった。

 それから暫くして、俺には正体不明の声が聞こえるようになった。それが、話に聞いた神の声なのだと理解するには時間がかかった。

 何故なら、俺の想像とは全然違ったからだ。それは耳から聞こえる訳ではなく体の内から響くようなものだった。耳を塞いでも聞こえなくなる訳でもなく、強制的に聞かされる。

 そして、何より予想外なのがその内容だ。俺は、神々しく命令されるのかと思っていた。しかし、神の言葉は理解不能なものが多い。例えば、俺が石に転ぶから気を付けろという内容のお告げでも、神から聞こえてくる単語はとても幼い声で『石に転ぶ』だけだ。

 どの石なのか、どの時間なのか、誰が転ぶのか、そんなものは一切ない。だから、賢人はそれを出来るだけ正しく読み取る為に様々な知識が必要だったのだとその時に気付いた。


 そんな日が続いて、爺さんが処刑されたと知る。俺に声が聞こえるようになって予想はしていた。元々爺さんはもう歳で、声はほぼ聞こえていなかった。もしかしたら、聞こえた喜びで判断を間違えたのかもしれない。

 今回聞こえた言葉は『四つの角を抱えて産まれる、王族の子』だった。この神とやらにしては長めの言葉だ。

 これについて考えた。あの時に王室で妊娠していたのは側室のセフィル様だけだった。そこに間違いはない、ただ『抱えて産まれる』という言葉に違和感があるのだ。

 何故『四つの角が生えて産まれる』ではないのか。爺さんが処刑された所を見ると、間違いなく問題の皇子は四本角ではなかったのだ。三本角……いや、それ以上に角が少なかったのだろう。しかし、後に四本角になるという事ではないのだろうか。


 あんなに、賢人である事を誇りに思っていた爺さんは最後の最後で読み間違えた。悲しい終わりだと思う。ただ賢人として生きて、賢人として死ねた。爺さんとしては幸せな最期だったのかもしれない。


 問題はこれから先、俺はどう生きるかだった。俺には賢人なんてどうでも良かったけれど、賢人として生きる手段しか学んできていなかった。

 それに、どんなに嫌がっても声は流れ続ける。夢も、将来も、諦めた。やりたい事なんてもう無かった。だから、考えるのはやめて賢人の役割を果たす事にした。


 次に神の声が示しているのは『黒髪の角ナシ』だ。その顔も、どこにいるかさえわからない。それでも、適当な呟きのような声を拾いながら目的の人物を探して探して探して……ようやく辿り着いたのは、奴隷の監督者としての仕事だった。

 ここに、黒髪の角ナシがいる。しかし、そこで出会った黒髪の角ナシは不思議な男だった。


 本名は、長めだったのでみんなは、彼をタカと呼んでいた。


 タカは歳の割にはよく動ける奴隷だった。そして、奴隷には珍しく彼の瞳は死んでいなかった。奴隷に落ちた人間は既に希望もなく目が死んでいるものだ。

 更に、彼は何故か人を惹き寄せる。容姿が特別美しいという訳では無い、ただの角ナシ。しかし、監督者たちは誰もがタカを名前で呼んで特別扱いしている。好かれる何かがあるのだろう。


「あの? 俺の顔に何かついてます……?」

「え、あ、いや。違うんだ、少し考え事してた。えと、今日からこの牢の担当になったソラノだ」

「わざわざご丁寧に。俺はホシダタカユキ……まあ、タカでいいです」


 自分の思考に浸りすぎた。

 今は日も落ちて真夜中。神の声が示した黒髪の角ナシを間近に見たくて、彼の牢に来たがあまりこの辺りでは見ない肌色と顔立ちをしている。古株の監督者に、来たばかりの時は言葉すら通じなかったと聞いた。

 結局、彼を見つけたはいいがこの後はいつも通り、謎だ。大体、この黒髪の角ナシが良いものか悪いものかさえ分からないのだ。これから判断して、悪ならば皇帝や対処出来る者に報告して決める。毎回こんなものばかりとはいえ、少々うんざりだ。ため息が小さく零れた。


「お疲れっすね、大丈夫ですか?」

「ん、ああ、うん、まあ」


 狭い牢内、鉄格子にもたれ掛かるタカを再度眺める。着ている衣服はお世辞にも綺麗とはいえないもので、全身が汚れている。ぼさぼさの黒髪に伸びきった髭、唇は荒れ切っている。どう見てもお疲れなのは、このタカだろう。だというのに、タカは本気で心配そうにこちらを窺っているから驚きだ。

 しかし、他人に心配されるというのは爺さん以外は久々だった。だから、だろうか。口を開いたら、言葉が溢れ出た。


「少し……自分が進んでいる道に迷っていてさ」

「道?」

「俺にはやらなければならない事があるんだが、それは難しいしやりたい事でもない。けれど俺はその為に全部諦めてきたから、それ以外にやれる事もない。もう欲しいものだってない」

「……」

「……何の為に、生きてるんだろ俺」


 最後に零れた言葉では、自分でも思った以上に感情が死んだものだった。そこまで口にして、はっと小さく息を呑んだ。何を言っているんだ俺は。こんな角ナシに言っても仕方のない事だ。同じ三本角に言ったとしても、鼻で笑われる事だろう。馬鹿な事を言った。笑って誤魔化そうとしたが、タカの方を見てそれは止まる。

 タカは、俺を真っ直ぐに見ていた。その黒い瞳には、悪意も困惑も無くてただ澄んでいた。


「なら、これからですね」

「は?」

「諦めてきて何もないなら、今なら沢山詰め込めるって事じゃないすか。やらなければならない事はわからんので何とも言ってあげられないんすけど」

「……うん」

「やりたい事は、見付けるのが楽しいんですよ。生きてるってそれだけで何とかなるもんすよ」


 タカは締まりなく、緩く笑う。俺は、すぐにそれに応えられずに固まった。タカの言葉は、俺には全然理解出来なかった。生きてるだけで、なんて思うはずもないし、諦め癖のついた俺にこれからやりたい事が見付けられるなんて思ってもいない。悪いが、全く同調出来ない。理解も出来ない。

 だが、彼がそれを言うのか。


 ここは奴隷にとってお世辞にも良い環境とはいえない。労働は辛く、動けなくなれば即処分。そんな中で生きてきた彼が、生きているだけ何とかなると言うのだ。馬鹿なのか、底抜けの楽観主義なのか。

 しかし、そんな彼の言葉に、じわりと胸に広がる正体不明の温かさがあった。思わず俺の口許が緩んだ。

 なんとなくわかった。監督役たちがタカを気に入る理由が。


「っはは、変な奴だなあ、お前」

「そうっすかねぇ。まあ、とりあえずそんなつまらなさそうな顔してないで、笑った方がいいすよ」


 自分の頬を指差すタカを見て、俺は悪くないなと思った。彼がどういう存在なのか未だに判断出来ないが、彼という人の傍にいるのは思った以上に悪くない。

 諦め続けた人生だったが、ここに来て諦めたくない何かを見付けられたような。それが一体どういうモノなのか、その時の俺には全然わからなかった。

ただ、その時は言われるがままに口許を緩めた。

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