十六分音符の奇跡

「ただいまー」


 いつものように誰も居ない部屋の中に向かって……いや、植木鉢に向かって声をかけた。

 コートを脱いで服を着替えて缶チューハイを用意して、さあ鼻歌の時間だ……と、その時。


「えっ……!?」


 なんと、植木鉢の土にオレンジ色の棒のようなものが刺さって……いや、棒が生えているのに気付いた。

 とうとう芽が出てきたのか……?

 いや、それにしちゃ葉っぱも付いてないし茎だけ……っていうか棒。

 土に植えた全音符から棒が生えてくるとかシュールにもほどがある……いや、まてよ?

 もしかして……。

 何となく形は思い浮かんでいるのだが、はっきりした事が思い出せなかったのでスマホを手に取って検索してみた。

 画面に、色々な音符の画像が表示された。


「……そうそう! 全音符に棒が生えたら二分音符だ! ってことは、このまま育て続けたら……」


 俺は缶チューハイをクイッと喉に流し込み、ニヤニヤ笑いながら植木鉢に生えた棒のために鼻歌を歌った。

 この時初めて、あのオジさんが“ホンモノ”だったんだと確信した。

 その記念に……というわけでも無いが、俺はアンコールでもう1曲、鼻歌を披露。

 そして、いつの間にかベッドに寄りかかるようにして眠りに落ちていた。




 それからしばらくすると、さらなる変化が現れた。

 植木鉢の棒の先っちょから、ニョロっとしたヒレのような物が生えていたのだ。


「やっぱり! 全音符に棒とヒレ……それはもう八分音符だよな!」


 そう言いながら、そのヒレ部分を指でピンッと弾いてみた。

 すると、

 

 リーン──。


 聞き覚えのある美しい音色が部屋に響く。

 と同時に、右目からツーッと涙が流れた。

 何故なのか全く分からない。

 けど、心の中は悲しさや切なさではなく、澄み切った水面のように透明でとても清々しい気持ちで満ちていた。

 そして、何かが変わる予感がした。

 



 それから1週間後。

 早速変化が現れた。

 あのニョロッとしたヒレのような物が2つに増えていたのだ!

 それはもう十六分音符で……って、それはともかく、仕事の面でも大きな変化があった。

 鼻歌効果なのかどうか分からないが、悩みやらストレスやらうじうじと考える時間が大幅に減ったことで、前よりも余裕を持って仕事に集中することができるようになった。


「それで今日、今まで一度も任されたことが無かった重要な作業を初めて任されたんだよ! 思わず、心の中でよっしゃーって叫んじゃったぜ」

 

 十六分音符に向かって喋りかける俺。

 傍から見たらヤベぇ奴って思われる……なんてことは考えなくなっていた。

 それも変化と言えば変化……なのかな?




 その後も仕事は順調、その分めちゃくちゃ忙しくなり、前とは違って心ではなく身体が物理的に疲れるようになった。

 それでも、家に帰ってからの鼻歌を休むどころか、2曲も3曲も歌うようになっていった。

 そして、心地良い疲れをまといながら、ベッドで気持ちよく眠りについた。




 翌朝。

 いつものように、スマホに設定したアラームよりも早く目覚める。

 昔から朝には強く、生涯で一度も遅刻したことが無いのが数少ない自慢だった。

 そして最近、ベッドから起きて真っ先にやることがある。

 それは、音符のヒレを指で弾いてあの音を聞くこと。


「あの何とも言え無い綺麗な音を聞くと、今日も1日頑張れるぞって気になるんだよな」


 そう呟きながら、ベッドから降りようとしたその時。


「ありがとう! 綺麗な音って言ってくれて!」

「……あ、うん。だって、本当に綺麗だから……って、えーっ⁉」


 ドテッ‼

 驚きのあまり、ベッドから降りたばかりの足がもつれて、背中から倒れてベットに逆戻り。

 だって……俺以外誰も居るはずが無い部屋の中に、オレンジ色のワンピースを着た見知らぬ女の子が居たのだ。

 

「あっ、大丈夫⁇」


 仰向けになった俺の顔を、女の子が心配そうな顔で見おろしていた。

 いやこれは……全然大丈夫じゃない!

 俺、いよいよ頭がおかしくなったみたいだよ!

 毎日1人で植木鉢に向かって鼻歌歌うなんて正気の沙汰じゃなかったんだ……。

 自分では気付かないぐらいじわじわと、確実に頭がおかしくなっていたんだ……。

 ってことはやっぱり、あの音符屋のオジさんは──。


「ねえ、大丈夫? 今日も仕事でしょ? ほら、早く起きなきゃ!」


 女の子は、こっちに向かってサッと右腕を伸ばした。


「ど、どうも……」


 頭の中がごっちゃごちゃになりながらも、確かに今日も仕事で、順調なこの時期に人生初の遅刻なんて絶対しちゃダメだってことはハッキリ分かっていた。

 だから俺は、差し伸べられた小さな手を握った。

 色の白さとは裏腹に、女の子の手は凄く温かく、そして力強い。

 その力に引っ張られるようにしてベッドから身体を起こす。


「よし、起きた! ほら、早く顔洗ったり歯磨いたりしないと間に合わないよ! あっ、その前にいつものやつやっとく?」


 そう言って、女の子は顔を横に向けた。

 いつものやつ、ってなんだ……と、俺はキョトンとするしかなかった。


「ほらほら! いつものピンッってやつだよ!」


 女の子は右手の親指と人差し指で輪っかを作って、俺の方に向かってピンッと指を弾いた。

 ちょっと待てよ……それってまさか……。


「もしかして、音符のヒレにピンッ……ってやつ??」

「そうそう! このカラダの場合は、ここをピンッで音が出るから! ほら、やってみて!」


 そう言いながら、自分の左耳を指差した。


「えっ⁇ そこを弾けってこと?? っていうか……キミ、誰⁇」


 今さらながらの質問。

 でも、絶対聞いておかなきゃいけない質問だ。

 場合によっちゃ、警察沙汰も覚悟しとかなきゃ……。


「もう! ほら、ピンッてすれば分かるから! とにかくやってって!!」


 女の子は、両手で俺の肩を掴んでグイグイ揺らしてくる。


「わ、わかったわかった! やれば良いんでしょやれば!」


 見知らぬ女の子の耳を指で弾くなんて気が引けるどころの騒ぎじゃなかったが、そうしないことには質問にも答えてくれそうも無いんだかやむを得ない。

 俺は右手で作った輪っかを女の子の耳の前に持っていき、できる限り軽~くピンッと弾いた。

 すると……。


 リーン──。


 あの美しい音色が部屋の中に響き渡った。


「えっ⁉ ってことはもしかしてキミ……」

「フフッ♪」


 女の子はイタズラっぽく笑った。

 テーブルの植木鉢に目をやると、土に丸い窪みが出来ているのが見えた……。

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