ℵα のワイン
中田もな
ℵ0の日常
大人ってやつは、どうにも可笑しい気がする。俺はずっと前から、そう思って生きて来た。
「ねぇ、あなた! ついにあのワインが、日本に上陸するんですって!」
「おお、やっとか。とうとう、日本人も飲めるようになったんだな」
家族向けのアパートの、少し狭いリビング。嬉しそうに話す両親の声は、少し離れていても丸聞こえだ。
「それで? 予約はちゃんとしたのか?」
「ええ、もちろんよ。一口しか飲めないって話だけど、それでも飲めるだけありがたいわ」
二人の話の内容は、高校生の俺にもよく分かった。つい最近、世界史の先生も話していたから。
「近々日本に、ルキウス・ティベリウスが愛飲したワインがやって来る」
噂によると、先生はかなりの呑兵衛らしい。この日も随分と嬉しそうに、ルキウス皇帝のワインのことについて喋っていた。
「これはな、凄いことなんだぞ。あのローマ皇帝が好んだワインを、俺たち一般人が飲めるってことなんだからな」
世界史の授業が始まって、もう三十分が経過している。先生はカリキュラムなんてそっちのけで、黒板に「推定 一五二〇年前」と書き始めた。
「せんせー! ルキウス・ティベリウスって、一体誰ですかー?」
「おいおい、黒田。受験も近いのに、有名なローマ皇帝の名前も覚えてないのか?」
黒田のおちゃらけた質問に、先生は呆れたような顔をした。高三も十二月になってくると、黒田みたいなやつはある意味すごい。
「俺の受験する大学は、近代史ばっかりなんでー。中世史は全然勉強してないでーす」
「全く、おまえは……。後で職員室に来い!」
俺はこの間、こそこそと数学の勉強をして、時間を有効活用していた。ベクトルの応用問題が、どうしても解けなかったのだ。
「それに、白金! おまえも黒田と一緒に、後で職員室に来い!」
……大人ってやつは、どうにも可笑しい気がする。俺はただ、時間がもったいないと思っただけなのに。
黒田の巻き添えを喰らった俺は、仕方なく職員室に向かい、仕方なく中世史のプリントを貰って来た。
「あははー、白金も災難だったなー! 内職は、もっと上手くやらないとな!」
黒田は気さくな性格で、誰とでも仲良くなれるタイプだ。人生を楽に生きてそうだと、俺はいつも思う。
「えー、何なに? 『ブランデゴリス王の娘と、騎士ボールスの間に生まれた子どもの名前は?』……。うーん、サッパリ分からん!」
「へリン・ル・ブランクだろ」
「おー、さすが天才! よっ、東大志望!」
「やめろよ、恥ずかしい」
廊下を行き交う下級生が、俺らの方をじっと見てくる。知らない人に志望校をバラされるのは、どことなくこそばゆい。
「それより、おまえはどうなんだよ。模試の判定、ヤバいって言ってなかった?」
「いやー、実はそうなんだよね。でもまぁ、どっか受かるだろ!」
無駄に爽やかな笑顔を浮かべながら、黒田は俺の肩に手を回す。こういうやつほど、案外いい大学に合格しそうだ。
「羨ましいな、この能天気」
「ちょっ、なんかディスってねぇ!?」
こいつはきっと、普通の大人になるのだろう。何の違和感も覚えずに、この世界と同化していくのだろう。……俺とは違って。
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