大都市に上京したその日に無職を告げられました。

長月 冬

第1話

 秋の初めだというのに、カバルの夜は妙に寒々しい。うすら寒いと言ってもよかろう。故郷ザルフより北東に千里ほど離れているので寒さは仕方ないにしても、メアはザルフの朗らかな気候を思い出して、少しばかり後悔した。

 メアが北の大都市カバルに到着したその日の正午前、働くはずだった貿易商の職が突如なかったことにされた事実を突き付けられ、メアは怒りと困惑で途方に暮れていた。――私があの腐れギツネから推薦状を手にするためにどれほどの苦痛を強いられたのか、奴ら何も知らんのだろうな。

 メアは足元に散らばる小石を方々に蹴散らした。腐れギツネとは、メアが十歳からカバルに出発する直前の十八歳までを過ごした施設の長のことだ。キツネは陰険そうな細い眼をした男で、メアが施設に入所するや否や、彼女の全てを支配しようとあらゆる手を回しにかかった。自分の戸籍、名前の綴り方、日常の廻り、そしてヒトが独りで生きる術となる推薦状、生きていくために必要不可欠なその類を手に入れるため、メアはいわれのない屈辱を身体の芯まで味わわされた。だが、彼女はキツネを潰そうとはしなかった。キツネはうだつのあがらない悪魔だが、中級悪魔という位ゆえカバルへのコネをいくつか持っていたのだ。そのコネの一つを頼りに、靄のごとく昏いカバルに来たのが、このザマだ。

 着古した、カーキのミリタリージャケットのポケットからスティック型の煙草を取り出してスイッチを入れ、メアはそれを口の端に咥えた。瞬間、目の辺りがチカと覚醒する。

 金銭的にまだ余裕はある。裏通りにたたずむ狭い一部屋くらいは借りることができよう。問題は、とてもシンプルだが、食い扶持をイチから見つけなければならないことだ。この世界では口利きがとかく物をいう。高等学校を終えたが、上級学校への道を最初から断たれているメアに与えられた選択肢は「働くこと」ただそれだけだった。

 地方出の、何の特徴もないヒトの女がコネなしでありつけることができる職といえば、「料亭」と呼ばれる部屋付の店での給仕か、掃除婦しかない。それはザルフならいざ知らず、カバルとて同じであった。それでメアは思うのだ。薬師をしていた母は、あれでも、恵まれた境遇に生かされていたのだと。


 空気がシけていたのか、煙草は瞬く間に火を失った。メアは煙草をそのままケースに仕舞った。気持ちを切り替えていくしかない。とにかく今日はもう終わりだ。踵を返そうとしたとき、

――ドサ、

 鉛を振り投げたような鈍い音が、メアの左側をかすめた。音は一つではない。ゴミの塊が、落ちてきたのだろうか。

 おかしい、と思い直して傍に目をやる。途端、メアの心臓が鋭く痛んだ。

 ヒトの塊だった。しっくいを塗りたくったようなのっぺりと白茶けた身体は何も身に着けておらず、一部が抉られたように穴が開いている。眼ははち切れんばかりに見開かれ、毛という毛は全て抜け落ちており、ヘドロまみれの巨大なゴムボールのようだった。何かに縋ろうとしたのだろう、変形した指の先にはべちゃべちゃとしたどす黒い肉の塊と、ガサガサの爪が僅かに貼り付いている。塊は少なくとも、三体はあるようだった。

 危険だ。咄嗟にそう思った。頭上から響く声。そしてドタドタと、階下に降りてくる足音――気づかれた。ここを離れなければ。だけどあの塊から目を離すことができない。ドアが――

「早く」急に誰かに右腕を強く掴まれ、メアは表通りへと引っ張られていった。

「捕まれば、あの塊と同じになる」メアの腕を掴んだまま声は続く。メアの心臓にまたも鋭く痛みが走った。この声は――、瞬間、ドアから夥しい黒いモヤモヤがメア目がけて飛び出してきた。ドロドロに溶けた触手のようだ。

「乗れ」そう短く命じられてメアに迷う余地はなかった。今はこの声の主に従うしかない。目の前には旧式のアメリカンバイク。メアがバイクのシートに跨ると、厳つい車体には似合わぬ、驚くほど静かな音でバイクは触手から逃れていく。ヒトだったあの塊は赤い月の下、ぬらぬらと不気味に照らされていた。


 秋の夜風を切ってバイクは闇を進んでいく。ヒトの声も悪魔の嬌声も、何の音もない。大都市とは所詮名ばかりか。通りを抜けると、地平線まで食い尽くすような広大な草原と巨大なゴシック様式の大聖堂が眼前に広がった。街のひとつなのだろうか。大聖堂に隠れるように、似たような建物があちこちに建っている。人けがあるようだ。橙色のぼんやりとした灯がそこらを照らしている。

 大聖堂に見えたそれは、どうやら街の入り口である門らしかった。バイクが近づくと、音もなく中心が開き、メアを乗せたまま低速で車体が走っていく。

やがてバイクは、一棟のレンガ造りの建物の前に停まった。

「いいよ」声の主がメイアの方を振り向く。間違いない。メアの心臓が一層早鐘を打つ。尋ねてはいけない。でも――

「クロード?」

 クロードと呼ばれた青年はメアを見やる。眼差しが懐かしい。少年だった面影は精悍な顔つきに変わっていたが、灰色の瞳は確かに八年前のそれだった。

「今はバルクだ。クロードとは名乗れない」バルクはメアを真っ直ぐ見据える。バルクの表情は読めない。瞳孔はあの頃よりも鋭く、顔には細かな傷痕がいくつもあった。

「すみません」メアはバルクに頭を下げる。敬語になってしまったのは、昔馴染みといえど八年もの歳月がそこに穴をあけてしまったからだ。

「とりあえず、中に入って。それから話をしよう」そう言って、バルクは建物の中へとメアを促す。外で立ち話をする余地は与えないらしい。メアは大人しくそれに従った。

 建物の中には、書類が無造作に積み上げられた古びた重厚なテーブルと、本棚に覆われた壁面が見える。奥では暖炉の火がパチパチと音を立てている。

「そこ、座って」後ろ手にドアを閉めたバルクがメアに椅子を指差す。メアは頷いてテーブルの前の椅子に座った。

「薬茶とコーヒー、どちらがいいかい」メアにひざ掛けを渡しながらバルクが尋ねる。

「…コーヒーを、お願いします」そう言った瞬間、バルクは目の前に湯気の立つマグカップをメアに手渡した。カップとバルクを訝しげに交互に見上げるメアを見、バルクはふ、と笑った。

「今、きみをどうこうしても俺にはデメリットしかない。大丈夫だよ」

 そう言って自分もいつの間に手にしていたのか、マグカップに口を付けた。

「…いただきます」躊躇したがメアも恐る恐るカップに口を付ける。本当にただのコーヒーだった。熱い液体が喉を通り、夜風で冷えた身体に暖かさが沁みる。

さて、とバルクがメアの向かいの椅子に腰かける。眉根を寄せている。

「どうして、カバルなんかに来たんだ」

「え」

 メアはバルクを見つめ返した。どうして、と言われても大都市だから、働き口がそこにあるはずだったから、としか言いようがない。それすらとうに消え失せたが。それに何故あのタイミングで、あの場所にバルクがいたのか、こっちこそそれを問答したかった。

 バルクとの再会は嬉しかったが、見ず知らずの他人に責められているような気がして、目の前にいる険しい表情をした男にメアは何も話したくなくなった。しかし助けてもらった以上、状況は説明しなければならない。

「働くためにです」

「敬語は、戻してくれないか。働くためってことは分かっている。ザルフみたいなところにいても腐るばっかりだしなあ。俺が聞きたいのは、何でカバルを選んだのかってことだ」

「キツネが推薦状をくれたから」

 キツネ、という言葉を聞いた瞬間、ああ、とバルクは何かを思い出したように一瞬空を仰いだ。

「こないだ会いに行った」

「会った?」

「10日前に、会いに行った。俺を見るなりメアのこと、悔しそうに言っていたよ。散々仕込んでやったのに、逃げやがったって。色々つまらないことを言っていたから、砂にした」

「え」何年も帰っていないザルフに戻ってきたと思ったら、再会したばかりのキツネを消した――メアは状況を理解しようとしたが、考えるほどにこんがらがってしまう。

「アイツ、メアに推薦状をくれていたのか。もしかして、キツネのことが好きだった?」

 メアは勢いよく頭をふった。まさか。好きだなんて、その言葉を思い起こすだけで虫唾が走る。憮然とした彼女の表情からすぐに関係を悟ったのか、バルクは訂正するように手を左右に振った。

「すまない。悪魔が推薦状をヒトに渡すことは番いになることと、同じことだから」

「番い、なんて」

「混乱させて悪かった。いろいろ。今はとりあえず、コーヒーをゆっくり飲むと良い」

 バルクに言われるままコーヒーを啜る。混乱と、バルクと名乗るかつての幼馴染との噛み合わぬ再会の言葉のやり取りに対する複雑な気持ちが混ざり合い、コーヒーの深みはついぞわからぬまま空となった。

「助けてもらったことには、感謝をしてる。だけど今は、あなたが本当にクロードだったのか分かるすべもなくて、どうして今はクロードと名乗れないのか、そしてなぜタイミングよく私を助けてくれたのかすべてを知りたくて、でもまとまらなくて。キツネに会いに行ったいきさつも。だから手放しでは再会を喜べなくて」

「そうだよな。すまない、としか今は言いようがない。でもそれではきみは納得しないだろう。俺のことも順を追って話はしないといけない。だけどその前にメア、住むところはもう決まったのか」

「いいえ。私は――」今日のうちに起こった出来事を話そうとしたが、望みを絶たれたあの絶望感がせり上がってきて、メアは慌てて目元を抑えた。

「ゆっくりでいい。話したくなければ、無理に言わなくてもいいんだ」

 メアは首を力なく横に振った。疲れだろうか、暖炉の暖かさからなのか、相手を訝しんでいた先ほどとは裏腹に、つっかえる思いを目の前の幼馴染預けてしまいたかった。

「決まっていた仕事があった。貿易商の。正直、コネがなければつくことが出来ない仕事で、でもそれがカバルについた今日、突然なかったことにされた。職が無くなった理由は教えてもらえなくて、斡旋所のドアは目の前で閉じられて、私は外を歩き回るしかなかった。ザルフでは、推薦状をもらうためにキツネのどんな要求にも応えて、来る日も来る日もザルフを離れることだけを目指していたの。推薦状を持たない私が出来る仕事は、“料亭”だけかもしれない。だけどそうなっても良いようにと、キツネはいつも私を…」

 メアの固く握られたこぶしが小さく震えていた。それを見やり、バルクはそっとブランケットをその上に重ねた。

「住むところは、ない。仕事も。あなたが通りがかったあの時は、ただただ歩いていたら郊外の建物につきあたったところだった」

「メア」俯いたメアの視界にバルクの目線が沿う。

「あの塊が落ちてきた建物が“料亭”なんだ」

 メアはハタとバルクの顔を見つめた。

「君も見ただろう。あの塊は、かつてはきみと同じような年のころの女の子たちだった。事情はそれぞれだろうが、みな悪魔の相手をしてお金を稼いでいた。そうして、身体も心もだんだんと蝕まれていって、耐え切れなくなったんだろう。あれは彼女たちのなれの果てだ」

 バルクの声音は落ち着いている。だがメアにはそれがかえって、被害者となったヒトの女たちの断末魔を思い起こさせるものとなった。メアは俯いてバルクの話に耳を傾けた。

「それでもきみはカバルで働きたいのか」

 メアはバルクの瞳を真っ直ぐ見つめる。彼の瞳はメアが吐く煙草の煙と同じ薄い灰色だった。そこにメアが映し出されている。薄汚れて、痩せっぽちの迷い人の眼差しが。

「私には、帰る場所がない」

「俺がキツネを屠ったから?」

「違う。キツネがいまいと私はこれから新しい働き口を探さないといけなくて」

「推薦状は紙くずも同然だ」

「分かってる」

 これ以上故郷に戻るよう促しても無駄だと悟ったのだろう、バルクはふーっと息を吐くと、おもむろに立ち上がった。

「きみが今いるこの建物は、これから大がかりな書類整理に入るんだ」

「はあ」

「だけど今人手が足りなくて」

 バルクはそう言うとメアの手からコップを取った。

「きみに住み込みで書類整理をお願いしたいんだが…もちろん、お給金はちゃんと現金手渡しで。あと、食事付きだ」

 メアは耳を疑った。この灰色の瞳の男を信じて良いものなのか?職を得るために訪れたカバルで職を失い、謎の触手に襲われそうになり、そしてかつての幼馴染だという男から衣食住が保証された仕事の機会を与えられつつある。すぐにでもこの好機に飛びつきたい気持ちを堪えたが、状況を慎重によまなければならない。

「とてもありがたいのだけど…私は正直なところまだ理解が追い付いていなくて。あなたがかつてクロードだったのなら、尚更」

「八年間のことを悪かったという言葉でまとめるつもりはない。キツネを消しても時間が戻らないことは分かっている」

「話を、してほしい。全てが難しいのならどうして今は名前を変えているのか、それだけでも理由を教えて」メアの心臓が大きく鼓動している。バルクの瞳も、声色も、しぐさも、八年前のそれを呼び覚ましたようだった。

「もちろんだ。メアにはきちんと説明する義務があると思っているよ。だけど今日はもう遅い。ゆっくり休んで明日改めて話すということでどうかな」

 バルクが言うようにメアの身体の疲労は限界まで来ていた。少しでも気を緩めると一気に意識が遮断されそうな感覚に襲われる。

「二階ある客室を一部屋きみ用に空けるよ。今日から好きなように使って良い。内鍵になっているから安心して。部屋の中には浴室もお手洗いも付いている」

「…ありがとう」

「また、昔みたいに笑顔で話してくれたらなあ」

 そう言ってバルクは穏やかに笑った。その声を聞いた瞬間二人きりで過ごした八年前のある冬の日を一層思い起こされメアは口元を覆った。ともすれば涙が溢れ出てきてしまいそうだった。

「明日また呼びに来るよ。だから安心して今日は寝るんだ」

「ありがとう」

 こちらへ、とバルクが二階を指差す。階段を上がると一面に廊下が広がり、暖かなオレンジ色の光が灯った。バルクはそのまま廊下を進みつきあたり右側の部屋をメアに案内した。

 アイボリー色の扉が開くとそこには重厚な壁作りの客間が広がっていた。鮮やかなステンドグラスがバロック調の嵌め殺しの小さな窓を彩っている。床には毛色の長いカーペットが敷かれ窓に沿って大きなベッドが置かれていた。

「こんなに立派なお部屋」

「きみの好きなように変えていい。仕事の内容は明日詳しく説明するけれど、ここで働いても、他にもっといい仕事があればそこに移ってもいい。だけど当面の間はうちで働いてほしいんだ。それにメアと再会した祝杯も近いうちにあげたいと思ってる」

 メアがじっとしていると、バルクはメアの肩にそっと手を置いた。メアはそれを払うそぶりを見せなかった。

「すまない。…いきなり色々言われて混乱しているだろう」

「混乱は、してる。でも今はバルクを信じるしかないよ」

「ありがとう」

 バルクはメアに部屋の使い方を簡潔にしたあと「明日来るよ」と言って部屋を後にした。


 睡魔はもう限界値に達していた。

 ベッドに倒れこむとメアはすぐに寝息を立て始める。何年振りかの、夢すら見ない深い眠りについた。

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