adieu

長月 冬

adieu

 十一月に入るというのにうだるような暑さが私たちの身体を容赦なく焦がす。

 明け方に街を出発してからどれくらいの時間が経ったのだろう。陽ののび具合をみるにすでに十六時は回っているかもしれない。道中休憩をほとんどとらず、私と恋人の芳人はフルスロットルでひたすら先を急いでいた。

 砂埃舞う目線の先に頼りなさげに輝く海、そして私の弟カイの眠る小高い丘がぼんやりとうつる。もうすぐだ。私は芳人に向かって前方を指差した。彼はそれに気付くと頷いて一層スピードを上げる。マフラーの爆音が不毛な砂漠地帯にバリバリと響き渡るが私たちは何も構わない。かつて故郷だったもう何年も人のいないあの場所は明日には完全に消滅する土地なのだから。

 そう時間の経たないうちに私たちは丘のふもとへとたどり着いた。芳人の隣にバイクを並べエンジンを切りバックパックから水筒を取りだして蓋を開けキンキンに冷えた水を口に運ぶ。刹那突き抜けるような冷たさが開放感となって押し寄せた。足が鉛のように重かったがそれですら心地よい疲労となった。サングラスとヘルメットを外すと首筋を一気に秋風が吹き抜けていく。

「暑いな」芳人は目を細めながら私を見、上着の胸ポケットからジタンを取り出して咥えジッポのふたを開けて火を点けた。くすんだ煙が熱風に絡め取られて彼方へと消えていく。私は芳人の横顔を何となく眺めた。彼の眼差しはどこも指していないようでそのさまが一層海外の彫刻を思わせた。

 一昨日の夜、私が唐突に申し出た計画に二つ返事で付いてきてくれた芳人にはとても感謝している。恋人なんだから当たり前だろう、その時彼は薄く笑って私を抱きしめた。彼は今何を考えているのだろう。三年間殆ど傍を離れることのなかった私たちは表情で、声色で、お互いの思いを知れている気がした。私の思い上がりかもしれないが、出会ってから今まで芳人の全てを知ろうと彼が発する言葉やしぐさをその都度丹念に理解し拾ってきたつもりだった。「レイナといると、俺は自分を見失わないですむんだ」普段から無口で職人肌の芳人がこの言葉だけは私に幾度となく告げてきた。私と出会ったことで彼は「自分を見失って」潰した命を弔うために増やしてきた背中の梵字と断食と不眠、そして体中に焼きゴテを当てることから解放されたらしかった。そうした衝動を持つ彼と一緒に暮らしていく中で翌朝目が覚めることがないかもしれないと思う瞬間に幾度となく遭遇したが、三年間一度も明けない朝がなかったのは芳人が衝動を少しずつ克服していったからなのだろう。





「大丈夫か」ジタンを吸い終えた芳人が下を向いたままの私に気付いて自分の胸に引き寄せた。暑さと疲労に押され私の意識は混濁しかけていた。果てしない眠気を感じ、頭に波打つような鈍い痛みを感じる。手に持っていたはずの水筒はいつの間にか芳人の左手へと渡っていた。

「大丈夫じゃない」私はかぶりを振って答えた。その刺激で頭がまた痛む。

「そうだろうな。一日ほぼぶっ通しで走り続けるなんて俺もしたことねえよ」

「本当にごめん」

 腕の中で呟くように謝る私の言葉を黙って聞きながら彼はポツリと言う。

「いや、三年分の借りに比べたらこんなものどうってことない」

「借りなんかじゃないよ。私は芳人をあいして――」そう言いかけた私を芳人は息が出来ないくらいにきつく抱きしめた。彼の腕は、昔と比べて随分細くなっていた。もう、あの頃の姿は見る影もない。それが私にとっては嬉しくも悲しかった。

いつからなのか、芳人が私を連れて夜な夜な出かけることもなくなり、代わりにあれだけ嫌っていた陽の下の川辺を二人で歩く日が増えたのが単なる平和の訪れではないことくらい、言葉には出さずとも私には分かっていた。

 半年ほど前、一度だけ私の傍を離れて家を出た彼がキラキラとしたブレスレットを私にプレゼントしてくれたときに悟った。彼はすべての償いをしなければいけないのだと。彼の摘んだ命の主たちがみな悪人でも、それでも彼は自分の身をもって贖罪を果たさなければならないのだ。芳人の顔の右半分には夥しい乾いた血がこびりつき、右目の眼帯がどす黒く変色していた。「これを着けていてほしい。俺が世界のどこにいてもレイナを探し出せるように」私は頷いて、彼から受け取ったブレスレットを右腕に着けた。ブレスレットのキラキラが何重にも重なった。大粒がぼたぼたとブレスレットの上に落ちて、あっという間に水たまりをつくる。「すまない」芳人が私を抱き寄せて呟く。

「すまない。愛している」

「レイナ。カイに逢いに行くんだろう」芳人の声で私は微睡から現実へと引き戻された。目的を失いかけていた。私は彼の手を引いてふらつく足を前へと進ませる。空気は驚くほど澄んでいた。この大地がまさか全ての生物を死に至らしめる物質で汚染されているなど、誰も信じるよしはない。

 なだらかな丘陵をのぼり私たちは頂上へとたどり着いた。墓標も何もないそこには黄色がかった砂地が広がっている。遠くの方で海の波がさざめくほかに聞こえるのは、二人の息づかいだけだった。空気はとても澄んでいるのに、吸い込んだ空気を肺に入れるたびに私の肺は軋むように鈍く痛む。歯を食いしばり、止めどなく流れ落ちる額の汗を左手で拭った。あの日の出来事が走馬灯のように駆け巡る。


 三年前の今頃、私は家の中で額縁に入れた亡くなった母の写真を新しいものに取り替えていた。カイはストーブの傍で寝息を立てていて、ストーブの風に吹かれたカイの柔らかな亜麻色の髪がたなびいていた。彼はまだ五才になったばかりで冷蔵庫の中にはホールケーキがあと半分残っていて翌日食べることにしていた。


 それは、あまりにも突然だった。

 金属の割れるような嫌な音を頭上で感じた刹那、凄まじい熱波が私とカイを覆った。巨大な黒いタンクが私の家を直撃したのだ。私はカイを抱きかかえ、家を飛び出して咽せるような霧の中を海に向かって走り、凍えるような海の中に飛び込んだ。カイは泣き声を上げることもなく、ただ真綿のようにぐったりとした重みをもっていた。

 それから今日まで、三年間は飛ぶように過ぎていった。カイを失い、波打ち際でうずくまる私を芳人が見つけた瞬間。冷たく固い石となったカイを芳人が丘陵の頂に埋めた瞬間。瞬間を糸のように紡ぎ未来は続いていく。だが明日には消滅する故郷、その翌日には自らの命をもって贖罪を果たす芳人、それらも以ってして私はいったい何に希望を見出すことが出来るだろう。この地が芳人と彼の住む国の者たちがかつて追っていた「悪い奴ら」の巣食う場所ではなかったらすべては始まりもしなかっただろうか。

“悪い奴ら”は殲滅させられた。ただ一人私を除いて。「魔が差した」とカイを埋め終えた芳人は私に向かって言い放ちその日から彼は家に棲みつき誰も寄せ付けなかった。芳人が私を匿ったことで彼は安住の人々を脅かす悪となった。だが芳人は酷い罪悪感に苛まれる私に対し、是非の問うことを私に禁じ続けた。だから私は永劫、芳人が何故私といることを選んだのか知る術を持てないままだ。それでも私は良かった。彼が最後まで私の傍にいてくれるのなら理由は何だって良い。

あの日私の故郷に毒が落とされたのは歴史の因果に対する報復だった。先住の民だった芳人の先人たちを私の先人たちは迫害し断崖の地に彼らを追いやった。肥沃な大地の花々を踏み荒らし敵陣の血をまき散らして勝利を声高に叫んだ。

だから私が故郷の崩落とカイの死を芳人に責めるのは抗えない壁を壊すことに等しく、お門違いもいいところだ。

 私がカイに逢いに行こうと思い立った理由を芳人はもちろん知っている。カイは芳人に殺されたわけではなく元々腎を病んでおり、あの日黒いタンクが落とされなくとも幾ばくもしないうちに幼い命は絶えるものだった。毒によって死んだことは偶然だった。

 しかし私の家が狙われたのは偶然ではなく必然だ。国を取り戻すために殲滅を繰り返していた芳人の部隊は生き残りである私とカイの存在を嗅ぎ付けていた。そして幸運にしてあの日私が浴びた毒は確実に体内を蝕んだ。もうあと一週間と生きながらえることはできそうにない。それでも良かった。悪の末端は私で終わりだ。だから最期に故郷が永遠に消え去ってしまうことに対する寂寞、敵であった芳人へ三年間を共にしたことへの謝罪、悪とはいとも簡単に変容することへの無力感、すべての想いを私はカイに伝えたかったのだ。


 丘の遥か彼方で夕日が眩しく輝く。陽が沈んでしまう前に私だけはこの地を去らなければならない。芳人と言葉を交わすことが出来る時間はあまり残されてはいない。

「魔が差したなんて、随分酷いことをレイナに言ったもんだな」彼が掠れた声でぽつりと言った。

「今まで多くの人間を消してきたんだ。いい奴も、悪い奴も。でもレイナにはどこか惹かれるものがあった。思い返してもよく分からない。レイナを救ったことで俺は国中を敵に回した。それは当たり前のことだ。だけどレイナは絶対に消しちゃいけないと思った――運命ってやつか」

 私は芳人の横顔を見つめた。視線に気づいた芳人もこちらを見やる。残った左目の眼差しはとても穏やかだった。途端に急き立てられるように私は彼に確かめたくなった。

「また、逢えるかな」

 芳人は短く笑う。

「恋人だから当たり前だろう」

「約束ね」

 そして私たちは指切りげんまんをして固く抱き合った。

 大丈夫。きっとまた逢える。

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