鳥の鳴き声かと思い、古々河八百音ここがわやおねは足を止めた。彼女は、両脇を杉並木が連ねる砂利道を歩いているところだった。

 キリッとした目を上へ向け、耳を澄ます。風で揺れる葉音しか聞こえない。

「……気のせいだったのかな」

 八百音は再び歩き始めた。長い黒髪ポニーテールを、リュックサックの上で左右に揺らしながら。

 かつて『信濃』と呼ばれていた『ナガノ』の北西部にそびえ立つ山、『天隠あまがくれ山』。その中腹に、山の名前をそのまま取った小さな村がある。村の広範囲に木々が茂り、家屋や建物もほとんどないので、首都『トウキョウ』からやってきた八百音にとっては、いわゆる“田舎”だった。

 冬は雪に埋もれて通行止めとなる箇所もあるという。もうすぐ五月に入るのに、木影には雪がうっすら残っている。雪解け水のせいなのか、足下もグシャグシャだ。八百音は新品の春物ブーツを履いてきたことを後悔した。

 高校を卒業した八百音が、大手の環境保全企業『三岸みつぎしマテリアル』に入社してもうすぐ一ヶ月。会社での辛い研修を終え、いよいよオフィスレディとしての生活が始まるのかと思ったら、与えられた仕事は地方への出向だった。同期入社の仲間たちは社内の部署に配属されているのに、自分だけ。指をくわえながら出向の準備をする一方で、彼女は理由も自分なりに理解していた。

「頑張れば本社勤めになるかもしれない!」

 もう何度目になるか分からない喝を入れ、八百音は両手で頬を叩いた。自分に与えられた仕事を精一杯に取り組もう。

 それにしてもこの杉並木はどこまで続くのだろうか。道も細く、険しくなってきた。

「あっ」

 また音がした。

 さっきも聞いた音だ。でも鳥の鳴き声なんかじゃない。金属音。何かが何かにぶつかるような甲高い音。

 八百音は一瞬だけ身体を震わせた。鳥なんて可愛らしいものではなく、もっと大きな獣が近くにいるのかもしれない。田舎には人間の生活範囲にも獣が現れると聞いたことがあった。

「まさか、ね……」

 精神統一。目を瞑り、鼻から息を吐く。が、嫌な想像は膨らんでいく。

「……よし」

 八百音は音がした方に身体を向けた。

 確認だけすればいい。そうすれば自分の気が済む。万が一危険な物音ならば、事前に策を練ることもできる。何もないと分かれば、己の仕事に集中することができるだろう。

 杉の木の間に高く生えた藪をかき分けるようにして、八百音は砂利道から逸れていった。

 人間の侵入を拒むように、草木が彼女の肌にちくちく刺さる。虫が足下から顔の前に跳ねてもきた。八百音は驚いて上半身を仰け反らせた後、虫が近寄らないよう手で振り払った。

「っ!」

 二十メートルほど進んだ時だった。八百音は咄嗟に身を屈めた。できるだけ背中を小さく丸める。

 前方に何者かの姿を認めたからだった。

(人……?)

 自分の目が確かなら、そうだった。

 しゃがんだ八百音は草むらから少しずつ頭を出していき、目の高さになったところで止めた。

 視線の数メートル先は、楕円形に開けた場所になっていた。そこだけ木が立っておらず、地面は砂利混じりの土だ。人為的に造られた空間だと思われた。

 太陽の光が差し込む下に、一人の男が立っていた。

 八百音の位置からは横顔しか見えないが、自分と同じ年頃かな、と彼女は思った。白のTシャツに黒のジャージパンツとスニーカーという出で立ちだったが、彼が醸し出す何とも表現しがたい雰囲気に、八百音は唾をごくりと飲んだ。

 陽の光のせいか青みがかって見える黒髪の下、男は十メートルほど先に置かれた巨大な石を見詰めていた。男の背丈ほどもある石だ。巨石の、目線の高さの部分に、黒い三つの同心円が手描きされていた。それはまとを思わせた。

(あっ)

 男がゆっくりと右手を顔の高さまで上げた。何かを持っている。握り拳くらいのサイズで、黒く鉄製。星形のように尖った形の物だ。八百音はそれを書物で見たことがあった。

 『手裏剣』という飛び道具――。

 実際に見るのは初めてだった。だが間違いない、と八百音は思った。記憶には自信がある。八百音は自分の体温が上昇してきているのが分かった。

 男は素早く腕を振り下ろし、手に持っていた手裏剣を投げた。一直線に巨石へ向かい、的の中心へ刺さ――らず、当たって地面に落ちた。見れば、数枚の手裏剣が重なるようにして同じ場所に落ちている。そこで八百音は、鳥の鳴き声のように聞こえていた音の正体が手裏剣と巨石だと知ることになる。

(この音だったんだ……)

 ホッと胸を撫で下ろした八百音の前で、男はまた手裏剣を持った右手を上げた。

次の瞬間、八百音の左耳の辺りを風がかすめていった。

「!?」

 前方から何かが飛んできて、後方に飛んでいったのだ。違和感を覚えた八百音は、左手で耳の辺りを触ってみた。手の平に、切られた髪の毛がついていた。

 八百音は手の平に向けていた視線を、何かが飛んできた方へと移した。

男だ。あのTシャツの男が顔も身体も巨石を向いたまま、右手首から先だけをこちらに向けていた。さっきまで手に持っていた手裏剣が無くなっている。

(えっ……)

 八百音の血の気が一気に引いていった。身体に力が入らなくなり、自然と尻餅をついていた。

 男が手裏剣を自分に向けて投げてきたのだと、瞬時に理解した。こっそり覗いているつもりでいたが、甲斐のないことだったらしい。

 男が八百音を振り返った。無表情な彼から、何を考えているのか読み取ることができない。彼の整った顔立ちを正面から見て、かっこいい人だな、とどうでもいいことだけが頭に浮かんだ。

 歩み寄ってくる。

 八百音の心臓の音が、外に漏れ聞こえてしまいそうなほどに脈打った。身の危険を感じて。

 いや、身の危険を感じてじゃない――

 男が目の前に立って見下ろしてきた時、彼女は思わずこう口にしていた。


「で、弟子にしてください……っ!」

 

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