後編

「あれか……」


 教えられた通りに駒を進め、ゴール地点に備え付けられたボタン目掛けて指を置く。

 電話の向こうにいた人物が俺を出迎えてくれた。

 彼女の姉と名乗る人物に靴を脱ぐよう促され、この家の奥へと案内してもらった。

 足を止めた先に待ち受けていたのは、悲しい現実だった。

 花に囲まれ眠っている彼女に、静かに歩み寄る。

 膝を曲げ、彼女の頬に触れる。

 冷たさが残る俺の手よりも遥かに冷たい彼女の体が、彼女の死を肯定した。

 それを受け入れたくなくて、彼女に話しかける。


「病室なんかより、この箱の中の方が、君にはお似合いだ。綺麗な花に囲まれて、君の美しさがより一層際立っている。綺麗だよ、揚羽。

 これは、俺が君に贈る、最初で最後の口説き文句だ。

 ありがたく受け取るといい。

 ………否定してくれないと困るんだけどな。俺に恥をかかせてくれよ。なぁ、早く起きてくれよ。頼むから。」


 俺と彼女との間に沈黙が流れる。

 暫くして彼女の姉が、涙ながらに語ってくれた。

 彼女は昔から体が弱く、昼間は陽の光があるせいで、外に出ることが出来なかったそうだ。

 詳しくは聞いていないが、恐らく色素性乾皮症だったのだろう。

 昼夜問わず引きこもりがちになっていた彼女を、姉が夜の散歩に誘いを掛けた。

 それをきっかけに、彼女は少しづつ笑顔を取り戻していった。

 その時間が近づくと、ソワソワし始めた彼女が1人で玄関に出向き、靴に足を通して私を待っていたと彼女の姉が語る。

 俺は彼女の笑顔を1度も見た事がない。

 そうか、君は置いてきたんだね。

 大好きな姉のいるこの場所に、その笑顔を。

 君が、大好きな姉のいる場所に帰ってこられてよかった。

 こんなことを言うのは不謹慎だと思われるかもしれないが、聞いて欲しい。


「おめでとう、揚羽。」


 夜の帳が下りた公園を見て、街灯が動き始める。

 その前に立ちはだかる蛾の群れを、俺はじっと眺めていた。

 視界の端で、何やら青白い光が蠢いている。

 そちらに意識を傾けると、1匹の青い蝶が俺と一緒に攻防戦を観戦していた。

 今ある子の現状に既視感を覚え、疑問が浮かぶ。

 不意に、近くで俺を呼び止める声が聞こえてきた。

 辺りを見回し確認するも、人影は一つも見当たらない。


「おじさん」


 彼女だ。

 彼女が俺を呼んでいる。

 どこにいるのかと探しに行こうとした矢先、先程覚えた既視感が頭の中に現れた。

 まさかと思い、振り向くと、思い焦がれていた人物がそこにいた。

 気持ちが高ぶり、目頭が熱くなる。

 伸ばしかけた手を必死に押え、歩き出す。

 途中、彼女の言葉に足を止めた。


「私ね、あの痣を見られたのはおじさんで3人目なんです。1人はパパで、1人は病院の先生だった。2人とも口を揃えてこの痣を"蝶に見える"と私に言った。おじさんもそうでしたね。」


 俺は静かに頷いた。


「じゃあ、この痣を見てもなお、"蝶に見える"と私に言えますか。」


 自らがさらけだしたその背中には、禍々しいほどに美しい目玉と羽が縫い付けられていた。

 鋭い眼差しでこちらを睨みつけてくるその痣に、鳥肌が止まらない。

 1歩、また1歩と後ずさる。

 恐れおののく俺の体に言い聞かせた。


 きっとこれは、彼女との最後の語らいだ。

 これを逃せば、死ぬまで後悔するだろう。

 彼女は待っている、俺の言葉を。

 ちゃんと伝えてやらなきゃ、彼女はあの痣に囚われ続けてしまう。

 だから、立ち向かえ。

 打ち勝つんだ、その恐怖に。


「俺には、綺麗な羽に見えるよ。たとえその痣が俺を睨みつけていたとしても、俺は君の全てを受け入れる。蛾か、蝶かなんて、俺には関係ない。君だから、その羽は美しく見えるんだ。君だけが使えるその羽で、あちらの世界まで飛んでごらん。大丈夫、神様はいつも君の味方をしてくれる。だから、安心して空を飛びなさい。もうここにいてはいけないよ。さぁ、いきなさい。またどこかで会えるといいな。」


 彼女は涙を流し、最後に笑った。

 どうか……この空の向こうに、彼女の幸せがありますように。

 神様、彼女に自由を与えてください。

 俺は掴むことの出来なかったその羽を、その身一つを、拾ってやってください。

 お願いします。


 君のご冥福をお祈りします。

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