スケッチ

雨屋 涼

スケッチ


 授業で今度、学校裏の森の植物をスケッチするのだと言ったら、リンクル叔父さんがスケッチブックをくれた。緑の厚紙に挟まれた紙はその肌触りから、質の良いものだとジミーにも分かる。

「昔に買ったものだけど、まだ使えるはずだ。けどねジミー、そのスケッチブックで誰かを傷つけるような絵は描いちゃいけない。それだけは約束しておくれ」

「うん、分かった」

 リンクル叔父さんの言葉の意味は分からなかったけれど、うっとりするような紙に手を滑らせてジミーはうなずいた。どのみち授業で描くだけだし、なによりも、このスケッチブックを手放すようなことをしたくなかった。


 そのためジミーは叔父さんのスケッチブックを大事に抱えて、学校の中庭へ向かった。すらりと背の高いシン先生がやってきて、みんなの前で課題を告げる。

「植物ならなんでもいいです。ただし、あまり森の奥には入らないこと。それから、笛を鳴らしたら中庭に戻ってくること。いいね」

 はーい、と数人の女子生徒が元気に応答すると、シン先生は彼女たちに向かって微笑みを浮かべた。

「それと、危険があったらすぐに緊急用の信号をあげてください。それじゃあ気をつけて」

ジミーはうんざりして彼女たちから距離をとった。背も高く、学校のなかでも若い先生は女子生徒に人気だった。あの手のクラスメイトは苦手だ。幸い、彼女たちは集団となって反対へ向かってくれたので、出くわす心配はなかった。ジミーはなるべく生徒のいなそうな日影を見つけて、腰を下ろす。スケッチはシロマルヒメに決めた。

シロマルヒメはどこにでも生えている。白い丸型の花弁が四枚、その外周に更に八枚の花弁が重なる小さな花である。中央には実がなり、秋になると赤く熟成する。チェリーにも似た実を齧って顔をしかめるのは、誰もが子どもの頃に経験することのひとつだ。

 ジミーはスケッチブックを広げ、ペンを手に取ると、真っ白な紙をひと撫でした。思わず口元がほころぶ。それから群生するシロマルヒメの花をひとつ摘むと、腰に下げた画材道具入れのなかから、小型の五徳を取りだした。水を入れた平皿を乗せ、小瓶に入った持ち運び用の竈火をひとつ、下に置く。

「起きて」

 小瓶を揺らして囁けば、ジミーが家の竈から連れ出した炎はゆらゆらと身体を震わせた。

「なんだよぅ」

「絵を描くから、抽出をするの。その皿を暖めてくれる?」

「あいよ」

 炎は眠たそうな青白いとろ火からオレンジ色に変化する。ジミーは小瓶の蓋を外して、平皿の水にシロマルヒメの花を浸した。水はジミーが朝、小川で汲んできたものだ。森の奥から流れる水には特殊な性質があり、しかるべき温度で煮だすと染料を作ることができる。今日の課題は、この染料を作る練習でもあった。

 はじめは慎重に、泡が立ってきたら匙をゆっくりと一周させる。攪拌によって剥がれたシロマルヒメの花弁は少しずつ溶けだし、平皿の水をとろりと白く染めた。平皿に仕切り板を入れて、実の赤や茎の薄緑と分離させていく。

 下準備を終えると、ジミーはちろちろと燃える炎の小瓶に蓋をかぶせ、ペン先を浸した。ひときわ大きな実を持つシロマルヒメに目を向ける。

いつもはペン先からインクを出すのに時間がかかるのだが、その日はすんなりと紙に染みわたった。やはり良い紙なのだろう。ジミーはほうっと息をはいて、丸みを帯びた白い花弁の形をスケッチしていった。

 すらすらと紙の上を進むペンに感動しながら、ジミーは手を動かす。スケッチブックには、次にペンの向かう先が示されているようだった。導かれるように手を動かし、目を離す。

そこには真っ赤な実を輝かせるシロマルヒメがあった。ジミーはおそらく、今までで一番うまく描けたスケッチに満足して、小瓶の炎をつついた。

「ね、どう?」

「こりゃでかい実をつけたな。竈に放りこみゃしばらく元気でいられるぜ」

「違う、そっちじゃなくて」

 シロマルヒメの実は油分が高く、燃料にもなる。ジミーは小瓶の目の前にスケッチブックを立てかけると、これ、と指さした。

「上手いんじゃねぇか? 竈火に聞くなよ、分かんねぇよ」

 それもそうだ。竈火の関心は燃えるものにしかないのだ。ジミーは声をかけたことに反省しながら、スケッチブックをめくった。集合までまだ少し時間がある。

 思ったとおりの絵になることに気分を良くして、ジミーは新しく、群生するたくさんのシロマルヒメを描いた。その周りには小さなキイロオバネも飛ばした。本来春に繁殖する蝶だ。捕まえることは不可能だったので、持ち合わせの絵具を使った。課題の趣旨とはズレているが、提出しないので問題はない。

 ジミーが二枚目の絵にも満足した頃、シン先生は集合の合図である笛を二度、吹き鳴らした。先生の笛は特別だ。森中に響き渡る音は生徒すべての耳に届き、ぞろぞろとみんなが戻っていく。ジミーもスケッチブックを閉じて、中庭へ向かった。

提出した絵は、ジミーが今まで造ったどの制作物より評価が良かった。突然の高評価にクラスメイトの視線が刺さる。ジミーはそれらを無視して、スケッチを褒める先生の微笑みにだけ集中した。先生は現役の制作家だ。そんな先生に褒められたと聞いたら、リンクル叔父さんもきっと喜ぶだろう。


 その日は一日浮かれ気分で、ジミーは最後にもう一度、スケッチした場所を見てから帰ろうと思った。森に足を踏みいれて、それからぽっかりと口を開ける。シロマルヒメの周りには、季節外れのキイロオバネが飛んでいたのだ。春と秋を勘違いしたのだろうか。ジミーは通学鞄からスケッチブックを取りだすと、先程描き上げたスケッチと目の前の光景を見比べた。寸分たがわず、同じ場所にキイロオバネがいる。近寄ってみても逃げないが、その黄色い羽の蝶はたしかに生きていた。

 ジミーはおそるおそる絵具を取りだし、スケッチブックに新しいキイロオバネを加えてみた。シロマルヒメの赤い実にとまっている姿である。そんなものは見た事がなかったが、スケッチブックの前ではすらすらと手が動いたし、なにより今回は被写体がある。一羽目よりも繊細に描けたキイロオバネは、絵具が乾くと、ジミーの予想どおりとなった。

 森の奥からひらひらとやってきたキイロオバネは、シロマルヒメの上を浮遊したあと、赤い実の上にとまったのだ。ジミーは恐ろしくなってスケッチブックを閉じた。踵を返し、森を出て、急いで家へ駆け戻った。

 その日以来、ジミーはスケッチブックを鍵のかかる引き出しにしまってしまった。リンクル叔父さんのもとへ行って、尋ねる勇気もなかった。もしかしたら、あの日、ジミーだけが見た幻想だったのかもしれない。そうであってほしかった。


 学校裏の森に近づくこともできないまま、シン先生の次の課題が発表された。今度は炭を使った彫像スケッチだ。季節は、冬になっていた。

ジミーは未だにあのスケッチブックが恐ろしくて、新しいものを買ってもらおうか悩んだが、この間叔父さんに貰ったでしょ、と母に言われるのが想像できて諦めた。そのため課題の日は、火薬でも抱えるかのようにおどおどしながら、叔父さんのスケッチブックを学校へ持っていった。

スケッチモデルはクラスメイト四人につき一つだった。ジミーたちのモデルはシン先生の作った翼のある人型彫刻だ。愛を運ぶキューピッドを題材にしたものらしく、羨ましげな視線が別のグループから突き刺さる。

今日は話を聞いてくれる小瓶の竈火もいないのだ。ジミーはなるべくクラスメイトの視線を気にしないようにして、炭で慎重にスケッチを開始した。相変わらず紙は滑らかで、心地がいい。ジミーは夢中で手を動かしたが、慣れない画材を使ったスケッチは難しく、時間だけが過ぎていった。

「途中で休憩を挟んでもいいですからね」

 教室全体に疲弊した空気が漂いはじめた頃、シン先生はよく通る声で言った。教室内の空気がどっと緩んでいく。ぞろぞろとクラスメイトたちが教室を出ていったので、ジミーは彼らが戻ってくるのを待った。タイミングをずらして外へ出る。おかげで人は少なく、教室内で感じていた視線も感じずにすんだ。

 しばらくして、気分転換を終えたジミーが戻ると、教室内は騒然としていた。視線の先にはジミーたちのグループがある。目をやるとモデルであった彫像は台座から落ち、二枚の翼はぱっきりと付け根から折れてしまっていた。

「みなさん、怪我はないですか」

 箒を持ってきたシン先生がグループのみんなに確認する。戻ってきたばかりのジミーは開きっぱなしだったスケッチブックに目をやって、咄嗟にそれを抱えこんだ。心臓が跳ね上がった。先生はてきぱきと周囲から生徒を退け、彫像を片付けはじめる。

「離れて。ほかのグループはスケッチを続けてください」

 それは突然の事故だった。シン先生も、嫌味な視線を送る女子生徒も、黙々と課題を進めるクラスメイトたちも、誰もがそう思っていた。ジミーは彫像の隣で震えている。彼女のスケッチブックには、翼を断つような黒線が二本、乱雑に描き加えられていた。

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