風渡る

月輪雫

風渡る

 あの独特な押入れの香り。家の匂い、カビの匂い、木の匂い――俺の中では服の防虫剤に使う樟脳の香りだったりする。特に夏休みに遊びに行くおばあちゃんちの押入れはそう。暗く狭く密閉されているのに、その中は、なぜか恐怖を感じずにいられる不思議な空間だと、俺は思う。

「淳ー。おーい」

 何か夢を見ていたような気もする。そんなまどろみの向こう側でおばあちゃんの声が聞こえた。目を開けると薄暗い部屋の中、丸い蛍光管の電灯に二燭光だけが俺の真上で灯っている。降りしきる雨音に混じって、ぼんやりとみんなの声が聞こえてきた。それもそうだ、ここはいつもお父さんとお母さんと家族三人で暮らしている家ではないのだから。田舎のおばあちゃん家にお盆で帰省していたのだと、寝ぼけた頭がゆっくりと思い出す。お父さんのお母さん――つまり父方の祖母の家は、夏になれば親戚一同が大集合するタイプの家で、そこで俺は一人行き場を失っていたということも。

 俺はなぜかあの家に、みんなが集まるこの場所で、一人居心地の悪さを感じていた。居場所を見いだせずにいたのかもしれない。別に親戚が嫌いなわけではないのだ。おじちゃんも従妹もおばあちゃんも、きっと久しぶりに会って照れくさいだけ。

 きっとそうだ、と思う。

 おばあちゃんの家の座敷でいつの間にやら寝落ちていたらしい俺は、部屋に流れ込んでくる濃い水の匂いと激しい雨音に包まれながら目を覚ました。

 お昼までは夏の風物詩と言わんばかりの入道雲が縁側から見えていたが、とうとう降り出したらしい。

「起ぎだが?」

 東北訛りの濁点がいっぱい付いたような声と共に、洗濯かごを抱えたおばあちゃんが座敷にやってきた。おばあちゃんは電灯のひもを二回引っ張って電灯の蛍光管をつけ、目を瞬かせている俺の側に腰を下ろした。

「うん、雨降ってる?」

 いつの間にか掛けられていたタオルケットからもぞもぞと起き上がった隣では、手早くおばあちゃんが洗濯物を畳み、遊びに来ている家族ごとに分けて積み上げている。

「んだ。なに、すぐに止むべど」

 おばあちゃんは手元から縁側の窓に目線を移してそう言った。その視線の先ではバケツをひっくり返したような雨が降っている。

「んだ、あんだのスケートボード、玄関さ置いであっから。もうすぐ雨も上がるべし、止んだら散歩さ行ってこ」

「……うん」

 思い出したように言うおばあちゃんに、ホントに?とは聞かなかった。おばあちゃんは冗談は言っても、嘘は言わないとおじいちゃんが言っていた。

「どれ、淳も仏様拝むべな」

「……うん」

 俺はそう言って渋々仏壇の前に座ったおばあちゃんの左隣の少し後ろで、ぎこちなく正座をして見よう見まねで手を合わせた。

 おばあちゃんが小さな声で「じいちゃん見でらいよ」と言っていた。おばあちゃんが立ち上がった音がして目を開けて振り向くと、

「雨も上がったべし、遊びさ行ぐなら夕方までには帰ってきゃっせん」

 と畳んだ洗濯物を抱えたおばあちゃんが廊下に向かいながら言った。

 その言葉通り、間もなく雨の降り方は弱まっていった。しばらく座敷でごろごろしていたが、鴨居にかけられた歴代のご先祖様の遺影の視線がやけに気になって、ここでもまた居心地の悪さを感じてしまった。そこに混じった真新しい写真に、雨上がりの眩しい太陽が差し込んで、雨上がりを告げるように再び蝉たちが鳴き始めた。

「散歩行くかぁ……」

 どこに向かうか考えを巡らせながら、縁側を通り玄関に向かった。おばあちゃんの言った通り、玄関の戸に俺のスケートボードが立てかけられていて、見たときになんだかホッとした自分がいた。玄関は引き戸でそのガラスから差し込む光を反射して、道路に面する方であるボトムの虹色の波のような模様が、生きているように明滅している。

 お気に入りのスニーカーに足を入れ、相棒のスケートボードを手に取る。玄関の引き戸を開けると、外は天気雨のような小雨が少しパラついていたが、庭先の水溜まりには洗われたような青空が映っていた。伸びをしながら深呼吸をすると瑞々しい雨上がりの匂いが体を満たしていった。

「うっし、乗るか」

 庭を抜けて雨上がりの蝉時雨を浴びながら、大の字で寝ていても轢かれなさそうな田舎道を進む。道路を挟んで片側には緑の海のような田園が広がり、反対は鬱蒼と茂る山。蝉の声に混じりガラガラと田舎っぽさからは遠い音を立てて、相棒は俺を乗せている。都会の逃げ場の無い、うだるような暑さとは違い、時折吹く熱気を洗い流すような風が心地よかった。

 あの座りの悪い家でごろごろしているぐらいなら、一人散歩でもしている方が気も紛れる。

 木陰やを渡り歩きながらしばらく行った時だった、脇道が目に留まり、俺は相棒にブレーキをかけて地面へと降りる。その道は森の中へと続く道で、車一台がやっと通れそうな古い舗装路だった。数十メートルほど先にあるカーブのせいか出口は見えなかった。

「こんな道あったっけ?」

 きらきらと揺れる木漏れ日が道を照らし、道の入り口には生垣に囲まれた平屋の瓦屋根が見えている。どこからか聞こえる涼し気な風鈴の音はきっとその家からだろう。目に留まったこの道に行こうか迷う俺の背を、生い茂る木々の間を吹き抜ける風が押した。

「うぉっ、びっくりした……」

 突然吹いた寒いぐらいの突風は俺を追い越して、森の中へと吸い込まれていく。一瞬の身震いの後、辺りには真夏の熱が戻ってきた。

 意を決した俺は相棒の先を持ち、助走と共に少しタイヤに勢いをつける。手を放してその背に乗り、片足で熱を帯びたアスファルトを蹴った。ぐんっと速度を増したボードの上で、熱を帯びた空気を切る。すると、俺の鼻をある匂いが擽った。風が嗅いだことのある匂いであると気が付くのに、そんなに時間はいらなかった。

(押入れの匂い……?)

 そう、この森の匂いはおばあちゃんちの押入れの匂いがする。親戚の子供たち総出のかくれんぼの時に、よく隠れたあの押入れの匂いだ。

 樟脳の匂いだと理解した瞬間、胸がドキドキしはじめる。おじいちゃんが決まってかくれんぼの鬼で、見つけ出されるのを待ってる時のあの緊張感。あの時の心臓の鼓動は嫌いじゃなかった。だんだん見つかっていく他の子たちの声。隙間からこっそり覗いてはきょろきょろしているおじいちゃんを見て声を殺して笑ったものだ。

「……会いたいよ。おじいちゃん」

 気が付くころには声に出ていた。蝉が煩いほど鳴いていたはずなのに、辺りには相棒のタイヤの音だけが響いている。

「眩し……」

 と、真夏の太陽が一瞬俺の目を焼いた。その刹那の白の中、俺は昨年亡くなったおじいちゃんがにっかりと笑っている姿を見た。皺だらけの手には、誕生日に俺にくれたスケートボードがあった。




「どうだ、淳!虹色でかっこいいべ!」

 十一歳の誕生日の日、おじいちゃんは俺に相棒をくれた。部屋の明かりに照らされたまだピカピカのスケートボード。タイヤが付いているの方には、虹色の波のような模様が描かれている。

「……派手じゃない?」

 照れ隠しもあってか、感謝よりも憎まれ口を滑らしてしまう。

「んだべか……」

 分かりやすくしょぼくれたおじいちゃんがなんだか可笑しくて、クスクスと俺は笑った。

「でもこれ好きだよ。ありがとう、おじいちゃん」

 ぱぁっとおじいちゃんは嬉しそうに笑っていた。




「あれ、おばあちゃん?」

 辺りにはひぐらしの声が鳴り響いている。

「お、いだいだ、こっちさこ」

 そう言っておばあちゃんが俺に向かって手招きしていた。白い光が収まるとそこはおばあちゃんちの目の前の道路だった。

「じいちゃん達呼ばるべし、迎え火焚ぐべ」

 気が付けば、辺りは茜色に染まっている。頷いて俺は脇にスケートボードを抱え、おばあちゃんのいる庭先に向かった。

(あれ、なんだろ、うまく思い出せないけど……)

 なんだか不思議とスッキリしている。ぽっかりと開いていた胸の穴がちょっと満たされて、ストン、と何かが腑に落ちた感じだ。森の道に入っていたところまでは覚えているのだが、そこからここまでどうやって帰ってきたのか思い出せなかった。

 おばあちゃんの手には、らっちょくと呼ばれる苧殻の皮を剥いで先端を赤く塗ったものとマッチが握られていた。

「これで、おじいちゃんたち、帰ってくるの?」

「んだ。じいちゃんだけでなくて、他のご先祖さん達もみんな帰ってくんだ」

 そういっておばあちゃんはらっちょくを積み、マッチで着火剤代わりの杉の木の皮に火をつけた。ツンとした匂いのあと、みるみるうちにめらめらと赤い炎が育って、紺色に染まりつつある家の庭先を明るく照らしている。火の粉が風に乗って空に向かって吸い込まれていくのを、俺はぼんやりと目で追った。

「あんだはじいちゃんさよぐ似でら」

 おばあちゃんは零すようにぽつりと言った。

「そうなの?」

「人見知りだべし、頑固だべし…… じいちゃんはな、みんなさ『うぢの孫は世界一だ』って言って歩いだもんだ。軽トラさ乗へでドライブさ行ぐってさ…… 乗り物好ぎで、ハイカラなもの好ぎだったのす」

 ふーん、と言いながら、俺はじいちゃんに買ってもらったスケートボードに目線を落とした。迎え火に照らされてキラキラと輝いている。

 燃え落ちたらっちょくを寄せながら、そう言うおばあちゃんの顔はどこか嬉しそうだった。

「みんなーご飯だよー」

 家の中からお母さん達が呼ぶ声がする。途端に家のあちらこちらからバタバタドタドタとみんなが集まる足音が聞こえ始めた。

「ばあちゃん、火ぃ消えでがら行ぐがら、先行ってろ」

 俺は頷いて玄関に向かった。途中振り返ると、いつもはシャンとしているおばあちゃんが少しだけ小さく見えた。

「ただいまー」

 茶の間にはいつもは使わないテーブルまで出されて、煮しめやらオードブルやら、お盆のごちそうが並んでいた。

「淳兄ちゃんおかえりー! あ、それ兄ちゃんのだったの?」

 声をかけて来たのは今年小学二年になった従弟だった。茶の間でゲーム機をいじっていた手を止めて、きらきらとした視線を俺から抱えられている相棒へと移していった。

「そ、そうだけど?」

 相棒をつい持って入ってきたことに俺は気が付き、玄関において来ようとした時だった。

「今度さ、乗り方教えてー!」

 と言う、元気な声が後ろから投げかけられた。

「……うん、いいよ」

 と、答えると従弟は「やったぁ!」と飛び上がって、台所にいるお母さん達の所に走って行って嬉しそうに話し始めた。

 網戸の側で風鈴がちりりんと涼し気な音をたてていた。

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風渡る 月輪雫 @tukinowaguma

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