山口貯水池の水は何処へゆく

つとむュー

第一話 狭山湖の水が飲みたい

 夕暮れの風が肌寒くなってきた十月の金曜日、僕、武佐むさ瑞樹みずきは所沢市にある山口ダムの上を歩いていた。

 総貯水量二千万トンを誇る国内有数のアースダムはどっしりとその体を大地に根付かせ、上部に広がる山口貯水池は圧倒的な規模で僕の心を癒してくれる。

 貯水池を囲む山々の標高が低いことも解放感を味わえる要因だろう。水面と山々との標高差は最大でも八十メートル。つまり今、目に映る景色の約九割は夕焼け空とそれを反射する湖面で構成されている。ちょこんと雪を被った富士山と夕陽との競演を撮影しようと、五、六人のカメラマンが三脚の前で息を潜めていた。

 しかし突然、静寂は打ち破られる。

「狭山湖の水が飲みたい!」

 見れば四阿広場に立つ一人の女性が湖面に向かって叫んでいた。ちなみに狭山湖とは山口貯水池の通称である。

 何て場違いな行動をと怒りすら覚えた刹那、そのシルエットが教室でいつも目で追う女性そのものと酷似していることに気づいた僕は、そっと彼女に近づいた。

 肩にかかるセミロングの髪、僕より十センチくらい低い身長、同じ高校の制服をまといスカートはちょっと長め、そして右手には外国産のペットボトルが握られている。

 間違いない。僕はドキドキしながら彼女の名前を呼んでいた。

「林語さん?」

 林語りんご路子みちこは僕のクラスメートだ。いつも持参しているペットボトルの銘柄からボルヴィックさんと呼ぶ生徒もいる。

「えっ?」

 驚いたように振り向いた彼女は、もじもじしながら僕に問いかける。それはまるで親に悪戯が見つかった女児のよう。

「武佐君、なんでこんな所に?」

「ここは金曜日の帰宅ルートなんだ。僕の家は東村山市にあるから」

 僕達が通う高校は所沢市の西部にある。いつもは所沢経由の電車で帰宅しているが、金曜日だけは湖畔を散歩することにしていた。

「そっか、武佐君は東京都民なんだ……」

 悲しそうに俯く林語さん。そんな素振りに気を留めず、僕は杓子定規な対応をしてしまった。

「このダムは水道水用だから安全上の理由で水面には近づけないよ」

「知ってる」

「ここの水が飲みたければ東村山浄水場か境浄水場に行けばいい」

「それも知ってる」

「明日か明後日なら案内してあげてもいいけど」

「違うの! そういうことじゃないの!」

 激しい剣幕で僕を否定した林語さんは、再び湖面を向いてしまった。

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