恋ヶ窪ライクワイズ

うつりと

寝手場架莉

 団地が嫌いだ。

 それなのに自分の住んでいる団地を毎日見ている。

 灰色でひび割れた壁面、錆で廃墟にしか見えない自転車置き場、子供がいない公園の遊具。

 古くて老人っぽい匂いが街中に満ちている。

 老人が出ていかないし、取り壊すにも金がかかるから放置されてるんだろう。

 新宿へも池袋へも吉祥寺へもバスと電車を乗り継いで一時間もかかる陸の孤島。名前だけは東京都なのに、とても東京には見えない死んだ街。

 田舎の方が何倍もマシだ。山も川も海もある。

 1970年前後にこんなのが東京の武蔵野のあちこちに建てられたらしい。

 高度成長期で日本人が増えていた時代ってことは知っている。まだみんな未来を信じていた頃なんだろうけど、いつか人口が減るって誰も気づかなかったのだろうか。

 その頃は若い人たちしか新しい団地にはいなかったんだろうけど、今じゃ老人しかいない。老人でないのにこの団地に住んでいるのは負け組だけ。

 僕の親もそう。典型的な負け組。

 父親は「俺は品川で生まれたんだ」ってことしか自慢できない非正規労働者。

 母親はクリーニング屋のパートのはずなのに、時々パートとは思えない派手な服とメイクで出かけて行く。

 僕は入学四日目の二限で行くのをやめてしまった不登校中学一年生。

 それから毎日こうして住んでいる団地を歩道で眺めているだけの濁った水槽に沈む魚。

 この団地から出て行くことも、ぶっ壊すこともできない。

 でも楽しいこともある。いろんなものに名前をつけるのが好きだ。

 毎日黄色い服を着て歩いているおじいはバンブルゾンビ。交差点の交番に一日置きに来る太った警官はポリベイマ。夕方何時間もヤマザキの前に立っているおばあはスーパーアイドル。

 僕の頭の中は敵意でいっぱいだ。


 今日が何曜日かはわからない。だって知る必要ないから。

 いつものように歩道にしゃがんで団地を眺める。

 昼も夕方もほとんど誰も通らない。時々トラックが数台通り過ぎるだけ。

 それなのに僕の中学とは違う制服の人が歩いてきた。

 白いシャツに青いリボン、チェックのスカートの女子。

 ついじっと見てしまったけど、その人は特に気にしていないみたいだ。

 十月だから冬服のはずだけど、その人は半袖の夏服。暑くも寒くもないからまあそれはいいんだけど、一つだけ普通と違う。

 裸足だ。

 足の裏が痛くないのだろうか。

 その人はしゃがんでいる僕のすぐ目の前を通り過ぎた。手を伸ばせば届くくらいの距離。

 僕は大学生くらいまでなら正確に学年が見ただけでわかる。

 この人は僕の一つ上、中学二年だろう。

 女子は中学に上がると同時に太る。二年になればもっと太る。僕はそれを醜いと思うけど、世の中的には女性らしく成長していると言う。

 五メートル程過ぎたところで、その人は急に立ち止まった。

「あんた、スマホ持ってる?」

 ちゃんと振り向かないままそう訊いてきた。僕しかいないから、僕に訊いたのだろう。

「ねえ」

 ようやくそこでこちらを向いた。僕を人間と認識しているらしい。

「持ってます」

 女子と話したのは小四の一学期、日直になった相手と以来だ。

「恋ヶ窪ってこっちでいいの」

 その人は南を指差して聞いたことない言葉を尋ねる。

 よくわからないので返事ができない。太った中二とは喋りたくないし。

「調べてよ」

「スマホ持ってないんですか」

「持ってない」

 だろうね。手ぶらだし、鞄も持ってないし。知っててわざと訊いたんだよ。

 胸ポケットから母親のお古のスマホを取り出し、マップで「こいがくぼ」と検索してみる。地名なのか店名なのかわからないけど、結果が表示される。

「恋ヶ窪って駅名ですか」

「うーん、たぶん」

「こっちでだいたい合ってます」

「なんで敬語」

「年上だから」

「あんた小学生?」

「中一です」

「ふーん」

 中学生なら今は学校にいる時間だろ、とは言われない。だってこの人も学校行ってないから。

 ふーんだけでお礼も特になく、その人はまたスタスタ歩いて行く。

 真っ直ぐな道だから、信号を渡ってもまだその人が見える。ただひたすら歩いている。

 どうして裸足なの。

 それが気になって気になって気が狂いそうになる。

 僕は立ち上がり、その人に追いつくために走り出した。


 走りながら名前を考える。

 特徴は裸足なことしかないから、ハダシンだ。センスないけど走りながらだからそれしか思いつかない。

「ねえ」

 追いついて声をかけたけど、ハダシンは振り向かない。

「道わからないんですよね。一緒に行きます」

 ようやく立ち止まって振り返るハダシン。息が上がっているのを見られるのは恥ずかしい。なんか必死みたいで。

 さっきは気づかなかったけど、よく見るとまあかわいい部類。いや、髪もボサボサで顔も汚れてるけど、結構かわいいのかな。

「どうして」

 裸足なの。

「恋ヶ窪へ行くんですか」

 怒っているのか黙ってじっとこちらを見つめている。

「じゃあ、連れてって」

 ハダシンは質問には答えなかったけど、一緒に行くことになった。


 マップだと団地から一時間半かかる。

 途中は二人とも何も喋らなかった。

 訊いても答えないだろうし、向こうも僕に関心ないのは知っている。

 面白くもない普通の道をただ歩くだけ。それでも女子と二人で歩くのは僕には生まれて初めてのこと。

 十月でも午後二時の気温は二十九度もあって、ハダシンの白いブラウスは汗で張り付いている。大人になりかけの女子の身体は気持ち悪い。

 新青梅街道と青梅街道を横切り、小金井公園の近くで右折。

 地名は変わってもどこまでも何もない地域が続く。それが武蔵野ってやつ。

 ハダシンの踵から血が出ている。よく見ると手首にも傷がある。みんな同じだ。街に、親に、学校に馴染めず居場所を探しているのに、この名ばかりの東京の外れから出られない。

 意外とあっという間に恋ヶ窪駅に着く。こんな遠くまで歩いて来たのは初めてだ。ここもうちの団地と大した違いのない匂いがする。

 小さい駅舎の看板をじっと眺めるハダシン。ぶつぶつ何かを呟いている。

「もういい」

「ここに用事あるんじゃないんですか」

「“恋ヶ窪”って漢字が見たかっただけ」

「なんで」

「本当に行きたいのは“姿見の池”ってところ」

 僕はまたその名前を検索する。JR西国分寺駅の近くで、ここからそう遠くない。

 帰り道一人だとキツいな、と思いながらもう一度歩き出す。

 途中スマホで自動販売機のドリンクを二本買う。何も言わずに受け取り、一気に飲み干すハダシン。

 そこはちょっとした公園になっていて、小さな池が実際にあった。

 午後四時近く。

 緑に囲まれた池の中に木道がある。二人で真ん中まで歩き、濁った池の中を眺める。

 今はもう、中学二年生の女子を気持ち悪いと思わなくなっていた。

「鎌倉だか平安時代だかの武将の彼女の夙妻太夫(あさづまだゆう)って人が、武将が死んだよって嘘を教えられてここで自殺したんだって。それで恋ヶ窪って地名になったみたい」

「なんで裸足なの」

 初めてハダシンが僕の目を見る。

「彼氏が死んだから」

「わかんないんだけど」

「彼氏と同棲してるんだけど、家に帰ったら首吊ってた。怖いし私中学生だし面倒だから逃げる時に慌てた」

「中学生同士で同棲って出来るの」

「彼氏は三十六歳」

 汚れた池に魚影が見えた。ハダシンの言っている意味が理解出来ない。

 肩がぶつかるくらい近くで見ると、手首の傷だけでなく、顔にも痣がある。

「本当は慌てたんじゃなくて、この池で死のうと思って」

「ふーん」

「彼氏いないと生きていけないから。だから裸足」

 終わってる。団地も武蔵野も東京も日本も。

 新宿にも池袋にも吉祥寺にも行けない淀んだ中学生は生きる価値も逃げる場所も見当たらない。

 この子も終わってる。

 こんなに痩せて、こんなに痣だらけで。

 ほかの太った中学二年生女子とは違う。

 僕は観察しているようで、なにも見てはいなかった。女の子も団地も。

 自分自身も。

 ハダシンは身を乗り出して姿見の池を覗いている。魚を見ているのではなく、自分の姿を見ているのかも。

 遠くに子連れの母親がいるだけで、近くに人はいない。

 決めた。

 この子を殺してあげよう。

 死に切れないみたいだから。

 そう望んでいるんだから。

 後ろから首を絞めて池に落とせば死ぬ。

 監視カメラにいっぱい映っているからすぐバレるけど、十三歳以下の不登校生徒なんて大した罪にはならない。

 長く茶色い髪に後ろから近づく。

 汗ばんだブラウスは背中にもべったり張り付いている。

 首を絞めるために両手を伸ばす。

 あと十センチ。

 どうして汗べったりなんだ。どうして。

 髪と汗の匂い。

 周囲より高い体温。

 十三歳の背中は死んだ団地とは違い、血が流れて生きている。

 生きている。

 ひどく強く生きている。

 彼女の髪に顔を埋めた。

 少女は嫌がりもしないし、何も言わない。

 髪の匂い。

 派手なメイクで出かけたりしなかった頃の母親の匂いと同じ。

 団地の匂い。武蔵野の匂い。

 それからどれくらい髪に顔を埋めていただろう。

 僕は泣いていた。

「一緒に死ぬ?」

 するっと身を翻して、僕から離れるハダシン。

「夙妻太夫(あさづまだゆう)になろうよ」

 少女はそう言いながら僕のまつ毛に残る涙を指先ですくう。

 そしてそれを舌先で舐める。

 八百年以上昔の話を信じて真似をしようとする中学生。

 女子がそういう話が好きなのはずっと変わらないのかもしれない。

 この池も、海でも山でもないこの武蔵野という平地も。

 八百年後には団地も遺跡になって残っているのだろうか。

 僕は一生武蔵野から出られないだろう。

 それでも生き残る価値があるのか。

 それともここでこの少女を殺さなかったことを一生悔やむのか。

「なあんだ、死んでくれないのか」

「帰らないの」

「一年以上帰ってないけど、一応親はいる」

「靴あげるよ。24だけど」

 脱いだ靴を躊躇なく受け取るハダシン。

「そのうち返すね」

 そう言う割には名前も学校名も訊かれない。

 それでも君のこと信じるよ。

だって恋ヶ窪の匂いは僕の団地と同じだから。   

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恋ヶ窪ライクワイズ うつりと @hottori

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