第176話 あなたはいい子。

6.


 感情を爆発させて泣き出したレニの肩を、エリカは憮然とした面持ちで撫でる。

 涙で濡れているレニの顔を見て一瞬眉をひそめ、次いで涙で濡れたドレスやしがみつかれて皺になった部分を気にするような顔をした。

 だが、やがて元の嬉しそうな表情に戻り、娘の赤い髪に白い手を当てた。


「本当に……よく来てくれたわね。エウレニア」

「母さま、私、ずっと母さまに……母さまに会いたくて……」


 涙でくぐもったレニの言葉に、エリカは曖昧な仕草で頷いた。


「そうね、私もあなたに会いたかったわ」

「母さま……っ」


 エリカは泣き続けるレニから視線をそらし、辺りに目を向ける。

 部屋の入り口に控えていたシンシヴァが音を立てずに二人の側に歩み寄り、エリカにしがみついているレニに横から声をかけた。


「妃殿下、よろしければ王都の様子をお聞かせ願えないでしょうか。太后陛下は、ずっとそのことにお心を痛めていらっしゃったので」


 レニは顔を上げた。


「そっ、そっか。ごめん、母さま」


 手の甲で流れた涙を拭うレニを見ながら、エリカは扇で口元を覆う。

 一瞬、不自然な沈黙が流れた後、エリカの声が扇の奥から漏れでた。


「いいのよ、エウレニア。でもそうね、これからのことについて話し合いましょう。とても大事なことですもの」


 エリカはさりげない動きでレニから体を離し、部屋の中央にある卓のほうへ歩み寄る。

 レニに椅子にかけるようすすめると、自分も上座の椅子に腰を下ろした。エリカの脇には、当然のようにシンシヴァが立つ。

 どこか戸惑ったような、不安げな顔つきになったレニに、エリカは微笑みかけた。


「エウレニア、王都では色々あって大変だったのでしょう? これまで便りのひとつもやらなかったもの。きっとあなたは、ひどい母親だと思っているでしょうけれど……」

「そんなことっ。全然思っていないよっ。王宮は母さまにとって、あまりいい場所じゃなかっただろうから」

「そうね、王都で私はあまり幸せじゃなかった」


 扇を持つエリカの手に強い力がこもったが、顔を伏せていたためレニは気付かなかった。

 エリカは手から力を抜いて、レニのほうを向く。


「あなたは私に王都に大人しく行くように、そう言うためにここに来たのでしょう」

「それは……」


 レニは口ごもる。

 そのことが母の気持ちを傷つけるのではないか、と恐れるように、恐々と顔を上げた。

 エリカは、安心させるように娘に笑いかける。


「仕方ないわ、私がやってしまったことのせいで、レグナドルトとドラグレイヤが危うくいくさになるところだったのだもの。私が王都に行くことですべてが丸く収まるなら、喜んで行くわ」


 でも、と一呼吸置いてから、エリカは翡翠のような瞳をレニに向ける。


「エウレニア、あなたと会うのもこれが最後だと思うと、とても寂しいわ。なぜもっと早く、こうして会わなかったのかしら。親子らしいことも、一緒に暮らすことも何も出来なかった。今さら言っても仕方がないのでしょうけれど」

「そのことですが太后陛下」


 エリカが口元に手を当て悲しげな表情で呟くと、シンシヴァが横から口を添える。


「妃殿下は、お母君と共に王都で暮らしても良いとおっしゃっておいでです」

「まあ! 本当に?」


 不意に、エリカは喜びに輝いた表情で、レニの顔を見つめた。余りにあけっぴろげで大袈裟にさえ見える反応に、レニは気圧されたようにわずかに身を引く。

 そんなレニを逃すまいとするかのように、エリカは身を乗り出し白い腕を差しのべた。


「ああっ、エウレニア、本当に? 本当に私といてくれるの? あなたを捨てていた私のような冷たい母親と? 恨んでいないの? 私のことを」

「恨んでなんか」


 レニは慌てて、エリカの手を取り言った。


「恨んでなんかちっともいないよ、母さま」

「本当に?」

「本当だよ」


 エリカの手に力がこもる。


? エウレニア」


 すがるように囁くエリカの声に釣り込まれたように、レニは何度か頷く。


「私も余りお話する機会がなくて知らなかったんだけど、国王陛下……イリアス様はとってもお優しいかたなんだよ。表向きにはどうこう出来ないだろうけど、出来るだけのことはして下さるって言っていた。母さまは陰謀なんて企んでなかった、って、私からイリアス様に言うよ」


 不安そうなエリカを宥めるために、レニは必死で話をする。ひと言紡ぐごとに、自分の中の母親への愛情や慕わしさが募るのがわかる。

 その気持ちに突き動かされてレニは言った。


「だから心配しないで。私が何とかするから。私が母さまのことを守るから」


 エリカは万感の思いが溢れたような表情で、レニの小さな手を胸に押し抱く。


「ありがとう、エウレニア。その言葉だけで十分だわ。母さまはね、ただあなたと一緒にいたいだけなの。望んでいることはそれだけ。可愛いあなたと一緒なら、ジヴベールの塔に一生、閉じ込められても構わないわ」


 エリカの意外な感情の発露にレニはやや呆気に取られたが、それもすぐに喜びにとって代わられた。

「自分が母のことを守る」という言葉は、ずっと母に伝えたかったことなのだ、そういう強い確信が胸の中にあった。そしてそれに応える目の前のエリカの姿は、レニが幼いころからずっと夢見ていた光景だった。

 美しい母の顔を見つめて、レニはずっと感じてきた思いをこめて囁く。


「私も……母さまといられるなら、どこにでもいくよ」


 エリカはチラリとレニの表情を確認すると、その手を強く握りしめる。


「本当に? エウレニア。この母と一緒にいる他は、何もいらない?」

「うん、他には何もいらない。これから先、母さまとずっといられれば」


 エリカは安堵したかのようにホッと息をついた。


「良かった。これからは二人で仲良く暮らしましょうね、エウレニア。私の可愛い娘」

「母さま……」


 レニは瞳を涙で潤ませ、自分より背の高いエリカの肩を抱きしめた。抱き返してきたエリカの手つきはどこか力なく、手の冷たさにわずかに身が震えたが、ずっと求めていた母の腕に抱かれているという事実で、すぐに頭はいっぱいになった。


「エウレニア妃殿下も太后陛下と共に王都に上られると。王都からのお使者には、そのように伝えましょう」


 シンシヴァが控えめな、だが明瞭な口調で言葉を挟む。

 エリカはレニの体からサッと腕を引き、シンシヴァのほうを向く。


「そうね」


 それからレニのほうを向いて言った。


「ごめんなさいね、エウレニア。今日の午後は、王都の使者の対応をしなければならないの。兄の大公に知らせたり支度もしなければならないし。王都へ向かえば後はずっと一緒にいられるのだから、そのためにも今は我慢しなくてはいけないわね?」

「うん」


 レニは浮かんだ涙を拭って笑顔になる。


「私のことは気にしないで、母さま。何か手伝えることがあったら言ってね」

「ありがとう、エウレニア。こんな母に、そんな風に言ってくれるなんて……」


 エリカはパラリと扇を広げ、顔を隠しながら言った。


「あなたって、本当にいい子ね」

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