第101話 それで十分だ。
「お前は女のために……他人のために学府に入りたいのか。理解できんな」
クレオは自分の言葉を小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「ソフィスもそうだった。貧しい子供や若造を教えたい、と言って、学府から出ていった。あの公女殿下もだ。世界を救うなどと言っておる。大層なもんだ」
僅かに顔を上げたリオの様子など気にもとめず、クレオは話し続ける。
「他人のために知識を身につけて何になる? 何故、学ぶか? 自分のためだ。私は知りたい。この世のありとあらゆることがな」
クレオは青い瞳を宙に向けたまま、言った。
「しかし、ほとんど何も知らずにこの年になった。世界は余りに広く、歴史は余りに長い。何十年もここで学び、知ることが出来たのはそれだけだ。ありとあらゆることどころか、自分の鼻の頭のイボの取り方すら知らん」
リオは思わず顔を上げてクレオの鼻の頭を見たが、そこは何もなかった。
クレオは不機嫌そうな眼差しをリオに投げる。
「私が死んだあと、また何も知らん奴が同じ道を歩くだろうよ。その繰り返しが学府を作っておる」
クレオはしばらくリオの顔を眺めたあと、付け加えた。
「お前もその一人になりたいのか。同じことを繰り返すだけの一人に」
リオは、クレオの顔を見つめ返して呟いた。
「わかりません。ただ……」
リオは白い手を胸の前に握りしめ、囁くように言った。
「私は今の自分でないものになりたい。それが何かの繰り返しに過ぎないとしても」
「じゃあ、来い。学府に」
クレオはリオの顔に、強い眼光を向ける。
リオは口をわずかに開き、クレオの横顔を眺めた。
「良いのですか? 学府に入っても」
クレオは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「お前が来たいなら、勝手に来ればいい。まあせいぜいあのイカれた公女殿下と一緒に、世界が滅ぶの滅ばないのをやれば良いさ。知識はただ、知識に過ぎない。馬鹿にしたものでもないが、信奉するものでもない。マルセリス導師はそれがわかっとらん」
「何故……ですか?」
独り言のようにブツクサとぼやくクレオの前で、リオは狼狽えたように言った。
「私は……」
「お前は人の質問にまったく答えんくせに、やたら質問をするな」
クレオはひどく苛立ったように、机の上に人差し指を何度も打ちつけた。
苛立ちを鎮めるように、横を向いて言った。
「お前が物になるかどうかは私にはわからん。学問は長丁場だ。頭だけではない。色々な要素が問われる。鳴り物入りで入ってきて、一年も経たずに学府から消える。五十年以上ここにいて、そんな奴らを山ほど見てきた。右も左もわからんアホ面で入ってきて、学府の歴史に名を残した奴もいる。誰にも先のことはわからない。
お前は、五日の間、本を読み続けた。どこがその話の要点か、どこに自分が興味を持つか、考える力がある。何より女のことで頭がいっぱいの時でも、お前は読んでいるものの内容にすぐに惹きつけられる。
お前の唯一良いところは、自分が何も知らん阿呆であることを知っているところだ。自分を賢いと思っている人間は、他人から学ぶことは出来ない。
学問は広大な世界だ。知識も、既に編まれた思考の体系も複雑で膨大だ。その膨大さに比べれば、何かを多少知っていたところで何も知らん奴と大して変わらん。自分が何も知らんアホであることを知っている。とりあえずはそれで十分だ。それすらわからん奴がいくらでもいるからな」
ただし、とクレオは苦虫を噛み潰したような表情で続ける。
「お前のそのいまいましい、女を追っかけたい気持ちがなくなったら、だ。人間は、金銀財宝や名誉や権威や世界を救うことを夢見ながら学ぶことは出来る。欲というのは、自分のやっていることに何の意味があるのか、と腐った時の最後の支えになる。
だが女は駄目だ。女に惚れている奴は学ぶことは出来ん。どんな頭のいい奴でも、女に惚れた途端に頭が空っぽになる。女のことを頭から追い出すには、こっぴどく振られるか、モノにするかどちらしかない。振られるほうがいいがな。女というのは追いかけたら追いかけたで、いたらいたで厄介だ」
クレオは、まるで鼻の周りを虫にでもたかられたかのようなうざったそうな表情で、リオを追い払うかのように手を振った。
「女のことが片付いたら、学府に来い」
クレオは忘れ物を思い出したかのような口調で、付け加えた。
「自分がしてきたことが、いかに空しい徒労だったか。それを何十年かけて知ることが、ここで生きるということだ。その阿保らしさに耐えられる人間だけが、ここにい続けることが出来る。ここに入った日から、無為と虚しさとの戦いだ。それは覚えておけ」
クレオが口を閉ざすと、リオは長いあいだその横顔を見ていた。
緑の光彩を持つ青い瞳は、クレオに向けられながら、何かまったく別のものを見ているようだった。
「出来るでしょうか、私に。ここで生きていくことが」
リオはすぐに口をつぐみ、やがて微かに震えた声で言い直した。
「俺に」
クレオは何も答えなかった。
自分に対する問いではないことが、わかっているようだった。
リオは胸の前で白い手を握りしめると、意を決したように執務机の前に進み出た。
椅子ごと横を向いているクレオに向かって、作法に適った優雅な一礼をする。
「ありがとうございます、学長」
紡がれた言葉には、万感の思いがこもっていた。
「戻ってきたら、精一杯研鑽し、学ぶことに一生を捧げます」
不意にクレオは、驚いたようにリオのほうを向いた。呆気に取られたように、微笑むリオの顔を凝視して叫ぶ。
「お前、女だったのか!」
「いえ」
リオは笑った。
そうしてはっきりとした口調で答えた。
「男です」
クレオは、混乱したようにリオの美貌を、その優美な肢体を眺めた。
だがやがてそんな自分が癪に障ったように、「どちらでもいいわ」と叫び、横を向いた。
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