第二章 港街ゆったり滞在記(港街編)

第14話 海鳩亭のにぎわい

★ここまでのあらすじ★

 元女帝のレニとレニの夫の寵姫だったリオ。

 二人は一緒に王宮から脱け出して、世界中を見るために旅を続けている。

 お互いを思い合いながらなかなか素直になれない二人。

 船旅を終えて、少し距離が縮まった。


 そして二人は、大陸の端にあるにぎやかな港町にたどり着いた。



※※※


1.


 日がすっかり落ちた後も、港町フローティアの賑やかさは続いていた。

 フローティアは、東方世界への玄関口だ。交易の要の街なので人が多く、夜になっても街中は賑やかだ。

 店にも通りにも煌々と灯りがともり、人々の声高な話し声や嬌声が溢れている。


 街中から少しだけ奥に引っ込んだ場所に、「海鳩亭うみばとてい」はある。ヤズロとマリアの老夫婦二人が営んでいる、食堂を兼ねた小さな宿屋だ。

 元々、この港町を地元として育った夫婦二人の顔の広さ、人好きや面倒見の良さ、妻マリアの家庭料理の美味さで、地元では知る人ぞ知ると評判の店だった。


 たがここ数日は盛況ぶりは「海鳩亭」が開いて以来、過去に例のないものだ。


 小さい食堂では人が入りきらず、ついには外に木卓と椅子を出して、酒と食事を出すようになった。

 外に座って飲んでいる人間が、通りを歩く知り合いに声をかける。飲み始めた人間がまた知り合いに声をかけ、と人がどんどん増えていく。

 結果「海鳩亭」は、街全体にその評判が行きわたるくらいの大盛況の宿になっていた。



2.


 通りにまで人が溢れているので、いわんや屋内は、座る場所が見つからないくらい人でいっぱいだ。

 賑やかな話し声、笑い声、熱気が充満している。

 卓に座っている男が、室内の喧噪に負けないような大声で、カウンターの奥にいる宿の主人のヤズロに声をかける。


「おおい、おやっさん! レニがシチューのお代わりが欲しいだと。あと酒な。蜂蜜酒と麦酒をひと壺ずつ」

「あいよ!」


 ヤズロは、怒鳴るような大声で返事をした。

 右手に壺を二つ、左手にシチューを入れた木皿を器用に持つ。満席の卓の間を、慣れた足取りで縫うように歩き、奥の座席にたどり着く。

 奥の座席では、地元の男たちに混じって、赤毛の小柄な少女が次から次へと料理をたいらげている。


「レニは本当によく食うなあ」


 ヤズロはその姿を見て、感嘆の声を上げた。

 レニは、左手に持った魚の燻製と新鮮な野菜を挟んだ黒パンをひと口かじり、ヤズロが置いた温かいシチューのお代わりを、木のひしゃくのようなスプーンにすくい口に入れた。

 十八という年齢よりも四、五歳は幼く見える顔に、幸せそうな笑いが浮かぶ。


「マリラおばさんの料理は最高だもの。いくらでも食べられるよ」

「ありがとよ。ばあさんも、お前みたいに若い子がもりもり食べるのを見ると寿命が延びる、作る張り合いがあると言っていたよ。腹がくちくてもう食べられない、ごちそうさまと言うまで食わしてやりたくなる、ってはりきっているからな。遠慮なく食いな」


 レニは喉をならして、蜂蜜酒を壺からじかに飲んだ。

 口の端からこぼれた酒の雫を手で拭き取ると、満足そうな顔になる。


「おばさんの料理が食べられて、本当に幸せ。もうしばらくここにいようかなあ」

「うちなら大歓迎だ。お前とリオが来てからというもの、毎日が祭りかと思うくらい大盛況だからな」


 ヤズロは人でごった返している食堂を見回して、顔を輝かせる。


「俺らが店を始めてから、こんなこたあ初めてだよ。お前ら二人は幸運の神さまだ」


 使い込まれ皮膚が厚くなった手でレニの赤い髪をクシャクシャにすると、笑顔で他の客の下へ向かった。


「よう、リオ」


 ヤズロが離れると、レニたちと同席していた若い男が思いきったように口を開いた。

 レニの隣りではリオが、美しく整えられた月下の庭園に一人で座っているかのような優雅さで、食事をとっていた。

 名前を呼ばれると、ゆっくりと面を上げる。

 緑色の光を含む青い瞳を向けられて、声の主である若い男の顔に緊張と喜びが浮かんだ。

 男は上ずった声で言う。


「今日は『遠く故郷の月を見よ』を謡ってくれよ。おらあ、あれが大好きなんだ。歌の良し悪しはわからねえけど、お前が謡うのを聞くと何かこう……胸がしめつけられるみたいな気持ちがしてくるよ」

「ええっ、あんなの辛気臭いじゃん」


 熱っぽい眼差しを向けてくる男の言葉に、リオが答えるよりも早く、レニが高い声を上げた。

 酒が入っているせいか、頬がやや赤く染まり、ハシバミ色の大きな瞳にも酔いが浮かんでいる。


「『海を越えよ、いざ東へ』のほうがいいなあ」


 レニは蜂蜜酒の入った壺を片手に持ったまま、やや音程の外れた陽気な声で歌い出した。


「いざ~行け~、嵐の顎門あぎとも~大イカの十本の腕も~、世界へ羽ばたく翼は~折れぬ~」

「お前、ほんと『海いざ』が好きだな」


 同じ卓に座るもう一人の若い男が、気持ち良さそうに高らかに歌うレニを見て笑う。


「おい、酔っ払い。ヘッタくそな歌を歌ってんじゃねえ」


 リオに曲を要望した男……テイトは、ムッとしたようにレニに言った。


「そんな冒険だ、夢だ、お宝だ、大イカだ、なんて歌は、リオが歌うには子供っぽすぎるんだよ。情緒もへったくれもあったもんじゃねえ。あのしっとりとした声で歌う意味がねえじゃんか。これだからお子さまは」

「はあ?」


 レニが眉をつり上げる。


「そっちこそ、なあにが『胸が締め付けられる』だ。歌なんかそっちのけで、リオの顔ばっかりジロジロ見ているくせに。テイトなんか、大イカの足にぎゅうぎゅう締め付けられているのがお似合いだよ」

「な、な、何だと?! だ、誰が……誰の顔……っ」

「へへん、この前なんて『月の女神みたいだ』とか、気障なこと言っちゃってさ。笑っちゃうよね。テイトにリオの何がわかるんだよ」

「てっ、てめ……っ!」

「おっ、何だあ? やるかあ?」


 レニとテイトは睨み合う。 

 二人は酒杯を卓に置き、酒を飲んだ人間特有の気の短さで腰を浮かしかける。


「レニさま」


 不意に、睨み合う二人のあいだに、深みのある静かな声が入り込んだ。

 レニもテイトも動きを止める。


 腰を浮かしかけた姿勢で静止しているレニの口元に、リオは白い指を伸ばした。

 三人の視線が集中するなか、リオはレニの肌にそっと触れ、そこについたパンくずを指先でとらえる。

 リオはレニの瞳だけを捕らえ、美しく色づいた唇を開いた。


「お口元が汚れております」

「えっ? あ……う、うっ……うん、あっ、ありが……と」


 卓につかれたレニの手に、リオは白い手を重ねる。酒で赤くなったレニの顔が、さらに赤くなる。

 リオはレニの顔を覗きこみながら、繊細な楽器によって生み出された旋律のような美しい声音で囁いた。


「お酒を召し上がりすぎです。体をおいといください」

「……は……はい」

 

 レニが小さな声で呟く。リオはレニの手に手を重ねたまま、優しい微笑みを浮かべる。

 レニと同じように立ち上がろうとしていたテイトは、毒気を抜かれたように音を立てて椅子に座りこんだ。

 もう一人の若い男、ヴァンが笑いながら言う。


「ほんっと、レニのところはカカア天下だな」

「カっ……カカア……って」


 レニは顔を真っ赤にしたまま、怒っていいのか喜んでいいのかわからないように口の中で呟く。


「諦めろよ、テイト。リオは飯を良く食う、赤毛のおチビにご執心だと」

「けっ、言っとけ」


 テイトは脇を向いて、ぼやくようにヴァンの言葉に答えた。

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