愛の飛行機雲

@nobuo77

愛の飛行機雲

愛の飛行機雲


また、交差点の手前で信号が青に変わった。

 とし子は宮崎市郊外の自宅を出てから高鍋の町まで、国道一〇号線の信号をほとんど青で通過できた。朝のラッシュ時から少しずれている。それでも、車は前後に切れ目なく走っていた。


 ノンストップ状態で郊外の道路を疾走する気分は最高だった。こんな幸運な走りは、年に一度あるかないかだ。ハンドルが軽い。

「ラッキー」

 とし子は声をあげた。上目遣いにルームミラーをのぞく。化粧ののりがいい。



 新富町にさしかかった時、頭上を爆音が横切っていった。新田原基地を飛び立った航空自衛隊のジェット戦闘機だ。東の空に消えていく銀色の点が、フロントガラスの端の方に、ほんの一瞬映った。


 高鍋の町に入り、最初の信号を左折して直進すれば、舞鶴城址は間もなくだった。

 「いい絵が描けそう」

 駐車場に車を停め、両手を天井に突き上げて背伸びした。運転中の緊張感が、全身から心地よくほぐれていく。


 もっと早くにきたかったが、ずっと雨続きだった。数日前のテレビニュースで、ここの桜模様を映し出していた。そのときが満開だった。今日あたりは、もうだいぶ散っているだろうと思いながら走ってきた。


 車を停めた足もとの水たまりには、幾重にも淡い色の花びらが浮いている。先週末には、桜祭りがあったらしい。ボンボリや提灯がまだあちこちに残されていた。

 とし子は数年前まで桜をおそれていた。

(桜の木の下には死体が埋まっているにちがいないのだ)


 そんな文章ではじまる小説を、女学生の頃、学校の図書館で目にして以来、桜を避けるようになっていた。いまはもう、作者が誰だったか思い出せない。


 小説の内容も風化して、ほとんど記憶にない。その一節だけがいまだに胸の奥にこびりついている。桜の木の下に死体が埋まっているわけは、春になると妖艶な花を咲かせることに起因している。


 桜は秋から冬の間、亡び行く死体の養分を吸いながら、春先の開花を待っている。桜の花びらが人肌色に美しいのはそのためだ。とし子は結婚する頃まで、そう信じていた。


 とし子は桜前線の話題を耳にするようになると、身近な者の死を連想した。まだ生きている身内や友人の姿が、次々にあらわれては消えた。独身時代は、桜の花の季節になると狂おしい思いに悩まされた。


 いまでも桜の花を見て、胸騒ぎを感じる一瞬がある。不安はすぐに船乗りである夫の安否に結びつく。夫は目井津港所属の遠洋カツオ船の航海士である。結婚以来、桜の花の咲く季節が、カツオ漁の最盛期と重なって、夫が家にいることはなかった。


 結婚した年の春から、とし子は不安を断ち切るために、桜の花のスケッチを始めた。桜を避けるのではなく、少しでも馴染もうと心持ちを変えた。


 境内の奥で、老婆が落葉を焼いている。紫煙がモヤのように広がってくる。

 目の前の石垣と石段の上に枝を張りだしている樹に惹かれて、とし子は芝生のはしに携帯用のイスをおいた。桜色の柔らかなかたまりが、中空のあちらこちらに残っている。ときおり風がやってきて、石垣の上にのびた古木の枝から、淡い色の花びらを舞い散らす。


 筆は順調に進んだ。白いスケッチブックに、思い通りの色をおいていく作業は心地よかった。無心の時間だった。散策中の老夫婦や、おそい花見客が、スケッチブックに視線を向けて通り過ぎていく。そのたびに、とし子は程良い刺激と緊張を背に感じた。


 二枚目のスケッチを終えて腕時計を見ると、昼を少し過ぎていた。とし子は用意してきたサンドイッチとミルクコーヒーの軽食を開いた。まっすぐ帰るには、まだ少し早い時間だった。ミルクコーヒーの甘い香りが、のどをくすぐりながら落ちていく。



「長いな」

 ふっと、そんな言葉がもれた。夫が目井津港に寄港するのは、七月下旬になる。すでにこんな生活も三年目を迎えて、なれたつもりだが、ふと、独り言をもらす時があった。

「今度夫が帰宅したら、子づくりだ」

 とし子は二杯目のミルクコーヒーをカップに注ぎながら、一人で笑った。体が熱くなるのを感じる。


このまま帰宅するには早すぎる。

「西都原に行って見よう」

 一昨年の春、ここでスケッチを終えて、西都原にまわったことを思い出した。その時は、ソメイヨシノが満開だった。桜並木の東に広がる菜の花とのコントラストの見事さに息をのんだ。結婚前、夫と何度かデーとした場所でもある。

「行こう」と決めた。


 朝方、がら空きだった駐車場もどって見ると、少し遅れた花見客の車で満杯になっていた。とし子は不規則に駐車している車の脇をぬけて、通りへ出るのに一苦労した。


 車を走らせて間もなく、前方に高鍋湿原の看板が目に飛び込んできた。

「そうだ。湿原の前に桜並木があった」

 数年前、恋人同士だった夫と、西都原の古墳の向こうに落ちる夕日をながめたあと、この湿原に車を乗り入れた思い出がある。その時、日はすっかり暮れていた。甘い記憶が過(よ)ぎる。車の上におおいかぶさっていたのは桜並木にまちがいない。ヘッドライトに照らし出され濃い緑色の葉波と、まだら模様の木肌が目に浮かぶ。


まだ日は高い。さっと一枚スケッチしてから西都原に向かっても、時間は充分ある。

 とし子は湿原の駐車場には入らないで、横の農道に車を停めた。近くの田圃で農婦の運転する農機が、ゆっくりと田起こしをしている。掘り起こされた地中の虫を求めて、白鷺が一羽、機械の後ろを追っている。添景に申し分ない。


 とし子は車の後ろにまわって、スケッチブックを開いた。筆を走らせながら、いつの間にか南洋の青い海原を思い浮かべていた。海原すれすれのところで無数のカモメが舞っている。遠くにカツオ漁船が漁をしている。夫の笑顔が、波間に見えかくれする。


「お上手ですね」

 急に背後に声がして、とし子は立ちすくんだ。振り向くと、画帳をのぞき込むようにして、若い男性がたっていた。

「僕、別に悪い者ではありません」



 とし子のこわばった顔色を察した若者は、照れ笑いをつくった。

「いきなりそばで声をかけるもんだから」

 とし子の声は怒気を含んでいた。創作に没頭していて、周囲にまったく無警戒だったので、息がとまるほどだった。海原の情景が消えたばかりの時だった。

「すみません」

 二十歳前後の若者は目を細めて、やや太い首を窮屈そうに折り曲げて、ぴょこんと頭を下げた。

「僕、南九大の学生です。トンボ学会を主宰しています」

「トンボ学会。なに、それ?」

とし子の警戒心はまだ解けない。


「ここはトンボの楽園です。ご存じですか」

「興味ないわ。トンボなんか」

 とし子は若者を突きはなすように素っ気なくつぶやいた。田圃の中をゆっくり動いている農機の方に目を向けた。農婦がいてくれてよかったと思った。


「今頃、どこにトンボがいるの。あれって、夏の昆虫でしょう」

 とし子は運転席のドアーの前に立っていた。腹立たしさが残っている。

「はい。夏に成虫になるのです。いまはヤゴの状態で水中にいます」

 若者は金網の張り巡らされた湿原の方に目を向けた。首に一眼レフカメラを下げている。


「ヤゴ?」

 とし子は画帳を助手席に放り込みながら、若者に向かって声をなげかけた。

「あっちにいます。見てください」

 若者は湿原を囲っている金網のところに走っていった。

「ここです」


 若者は金網の中を指さしながら、とし子に振り向いた。

 とし子は若者のそばに行くべきかどうか迷った。無視してこのまま車に乗り込んでもいい。動悸がなかなか消えない。その時、一瞬なりとも夫の姿が過(よ)ぎっていたのも、とし子には不愉快だった。



 若者にはまだどこか少年のあどけなさと善良さが見える。少しぐらいの話なら、聞いてやらなければ大人気がない。何か起きればすぐに車に乗り込んで発車すればいい。大声を出して、農婦に助けを求めることもできる。とし子は若者の方にゆっくりと向かった。



「先ほどはごめんなさい。びっくりさせて」

 若者は近づいてくるとし子に、明るい声をあげた。

「ヤゴって、どこにいるの」

 とし子は金網越しに、中の水たまりをのぞき込んだ。


「あすこの水草に宿っているのですが、金網越しでは見えません」

 貴重な湿地性植物や昆虫が生息している高鍋湿原は、金網の柵で保護されていて、普段は入れないようになっている。

初夏から八月いっぱい、保護観察員が常駐する日中だけが、湿地内の観察道を散策できる。近くの小屋の軒先で多数の雀が騒ぎ立てている。


「そう言って、私をだますつもりでしょう」

「だましたりはしませんよ。もう一人の仲間に聞いてもらえば、僕が本当のことを言っているのがわかってもらえますから」

「仲間?」


 とし子の声が再び固くなった。ようやくさめ始めていた警戒心が動き出した。

「新田原基地のトンボ好きな、ジェット戦闘機のパイロットさんです。今日は訓練で来ておりませんが」

「変な趣味のパイロットさんね」

「嘘じゃありません。彼と僕は去年、この湿原で友達になりました。昨年の夏は二人で、新種のトンボを発見したんですよ。ここの湿原で」

 若者は空を見上げたり、両手を大きく広げて見せた。



「そう」

 若者はとし子の反応の薄さに不満を覚えた。

「僕たち二人が発見したトンボは、イマムカシヤンマという大型のトンボです」

「知っているわよ、ヤンマって」

 とし子は子供の頃、実家の庭先を流れていた小川の上を、さっそうと飛び回っているギンヤンマの姿を思い浮かべた。

毎年、梅雨時期から真夏にかけて、小川と田圃の上を低く尾っぽでつながったまま気持ち良さそうに飛んでいた。


「この高鍋湿原には、国内最小とされるハッチョウトンボが生息しています」

 若者の言うようにハッチョウトンボを始め、希少な昆虫や植物が、この湿原で次々に見つかっている。

 イマムカシヤンマという大型のトンボが見つかったというニュースは、昨年の夏、何度か聞いたように思う。最小と最大のトンボが生息する湿地として、一躍注目されるようになっていた。


「詳しいのね。大学でもトンボを勉強しているの」

「いいえ。専攻は経済学です」

「畑違いの趣味」

 とし子はくすっと笑った。


「趣味の方が、僕には勉強になります。こちらの大学に来なければ、新種のトンボを発見することもできなかったのですから。それに、この夏は僕と彼と二人だけで、トンボ学会報告書を作成するんです」

「難しそう」

「昨年見つけたイマムカシヤンマの生息が、今年も確認できれば、正式に日本昆虫学会トンボ部会に認められるんです」

「それでさっきから、ヤゴを探していたの」

「はい。春先のこんな暖かな日には、水中の茎に宿っているヤゴ達が、水面近くまであがって来て、日向ぼっこをするんですよ」

 とし子は笑顔を見せたが、あまり興味はなかった。



「どちらのご出身?」

「東京です」

「まあ……」

「僕、勉強、苦手なものですから」

 とし子は単純に出した言葉だったが、若者は敏感に反応したようだった。しばらく沈黙がつづいた。

「じゃ、これからもトンボ、がんばって」

 若者は黙ってお辞儀をした。

 とし子は若者の目が、トンボを話していた時の輝きを、急に失っているのが気になった。


(傷つけるようなこと、なにも言っていない。いやな思いをしたのは、むしろ私の方なんだから)彼女は何度かハンドルを握る手に力をこめた。



 とし子が次に高鍋湿原を訪れたのは、五月の連休だった。若者が来ていそうな気がした。最初の出会いにびっくりさせられてしゃくだったのと、別れ際のわだかまりみたいなものが彼女に残っていた。


 この頃、朝、掃除機をかけている時、モーターの振動音の中に、若者の暗い表情が浮かび上がってきたり、スーパーで夕食の食材を買ってる最中に、若者らしからぬ落ち込んだ顔があらわれる。それがいつの間にか、とし子の一番気に入っている夫の微笑みに入れ変わり、すうっと脳裏から消えていく。

「いやだわ」

 とし子は気分を重くして、つぶやいた。



 今年になって、桜の花をやっとほかの花並みに、普通に見られるようになったと内心よろこんでいたのに、ただ一度しか会っていない若者が、前触れもなくイメージされることに戸惑った。

 一ヶ月前、満開の花につつまれていた高鍋湿原の桜並木は、すっかり若葉に衣替えをしていた。



「湿原の開放は、五月の連休から、八月いっぱいです。奥さん」

 桟道の入り口をくぐる時、保護観察員の老人が、くわえ煙草の煙を泳がせながら、話しかけてきた。

「大勢来ます?」

「まだ朝が早いからそうでもないけど、連休中は結構ね」

「ハッチョウトンボを見に?」

「今年はイマムカシヤンマだろうね。去年見つかったんだけど、大型の奴で、悠然と飛んでる姿を見ると、それはもう」

 保護観察員の老人は自分の言葉に酔っているようだった。




「昨年、学生さん達が見つけたそうですね」

「知っているの?。奥さん」

「連休中はどうかしら…見られるの?」

「成虫は七月にはいってからだ」

 九時を少し過ぎたところだった。



 遠くの方に二、三人の姿が動いている。

高鍋湿原は手前が農業用の灌漑池になっており、その上に歩道専用の幅一メートルほどの吊り橋式の桟道がのびていた。

湿原は東西二カ所に分布している。金網の入場門を少し進んだところから、桟道は左右にそれぞれのびていた。


 湿原を守るために、ここでは散策者が湿原に直接足を踏み入れることはできない。桟道の両サイドにも金網のフェンスが張られている。このためイマムカシヤンマも、盗採取から保護されていた。


 とし子は西の湿原と書かれている案内板に向かって進んだ。こちらの方が広がりがある。尾鈴連山が遠くにかすんでいる。しばらく行くと桟道にかがみ込んで、雑草の中をのぞき込んでいる人影が見えてきた。



 とし子は直感的にその人影が若者であることを見ぬいて、そっと背後に近づき、いきなり、

「わっ!」

 と、声をあげた。

「おばさんでしたか」

 若者はとし子が期待したほど、おどろかなかった。日焼けした顔に笑みがこぼれている。


「これでおあいこですね」

 若者はとっくに、とし子が近づいてくるのを察していたように思われた。

「おばさんて呼ぶの、やめてくれない」

 とし子は拍子抜けした。それで少しつっけんどんに言った。若者は戸惑いの表情を見せた。


「私の名前は一宮とし子。好きなように呼んでいいわよ。でも、おばさんはだめ!」

 彼女は既婚者の強味で、落ち着いて言った。

「は、はい。僕、山本和行です。すみませんでした」

 若者はとし子のパワーに、少し顔を赤らめながらお辞儀をした。桟道が少し揺れた。


「あすこにパイロットさんがいます。よろしければ紹介します」

 若者は話題をそらすように前方の黒い人影に向かって、腕をのばした。桟道がカーブし、雑草が生い茂っているあたりで、人影は止まったり動いたりしている。

「今日は戦争ごっこ、お休み?」

「はい。連休中は訓練はないそうです。明日から家族が来るので、トンボの観察は今日しかできないと話していました」

「単身赴任なの」

 とし子はつぶやいた。



 雑草の影に見え隠れしている人影が、これまで想像していた戦闘的でたくましいジェット戦闘機のパイロットのイメージではなく、ありふれたサラリーマンパパに思えた。

「吉岡さーん」

 前を歩いていた若者が、声をあげた。呼ばれた吉岡は、雑草の中から立ち上がり、顔をこちらに向けてきた。


「この前話した、おばさん、いや、一宮さんです」

「なによ、この前話したというのは」

 とし子は声をたてた。

「悪いことではありません。心配しないでください」

 若者は笑いながら答えた。

「迷惑よ。勝手なことをしゃべってもらっては」

 この若者の前では、最初に出会った時の警戒心を解いてはならぬと言う思いがしてきた。柔軟な表情と態度の裏側には、別の考えが隠されているような気がする。



「吉岡といいます。山本君から聞いたのですが、一宮さんは大変、絵がお上手だそうですね」

 礼儀正しい話し方だった。起立に近い姿勢で、両手をまっすぐ下にのばしている。濃いサングラスの中の表情は、ほとんどうかがうことはできない。赤銅色の頬がうごく。体型は筋肉質で上背がある。夫似だ。



 とし子は若者にはない体臭を感じた。男の大人の臭いだ。長い航海を終えて、初めて夫を玄関に向かい入れた時の、すがりたくなるような安心感のする臭いだった。夫と同じ三〇歳代前半だろう。それは女の直感でわかる。



「いやだわ、そんなことを吹聴するなんて」

 とし子は若者をにらんだ。目は笑っている。

「実は、これも山本君にお聞きになったと思いますが、今度二人で、トンボ学会報告書を出すのです。その表紙の挿し絵を、是非、一宮さんにお願いしたいと思いまして」

 吉岡の話す時の姿勢は、くずれない。とし子にはその姿が新鮮に見えた。メリハリを感じる吉岡の態度は、夫を思い起こさせる。



 普段、家にいる時の夫は、ジャージー姿でごろごろしているが、一度航海に出ると、規則正しい生活を送ると言う話を聞いたことがある。とし子は夫に似かよっている吉岡に親近感を覚えた。

「私の描く絵でよろしければ、お手伝いします。なにを描くのかしら」

「トンボです。イマムカシヤンマの雄姿を描いて欲しいのです」

「やったぁ!」

 と、いう表情で、若者がすぐに声をあげた。



「山本君、これで我々は観察に集中できるね」

「表紙の出来映えに負けないよう、成果を出さなくちゃ」

 目の前で男達が喜び合っている。

「イマムカシヤンマって、そんなに貴重なトンボ?」

 とし子は大学生やジェットパイロットが、トンボに熱中する様子が、今ひとつ理解できなかった。


二人の男達は休日のエネルギーをトンボの観察にそそいでいる。夫ならおそらく一瞥して、忘れ去る部類のものだ。

「イマムカシヤンマはこの湿原で発見された二例目の新種です。最初の奴はハッチョウトンボと言って、真っ赤で体長が二センチ前後の小型のトンボです。イマムカシヤンマは体長が一〇センチもあるのです」

 パイロットはそう言うと、再び桟道の金網までのびた雑草をかき分けながら、湿地をのぞき込んだ。若者もつられるように、二、三歩先で、羽化の痕跡を探すために、桟道にしゃがみ込んだ。



 とし子はイマムカシヤンマというトンボを見たことがない。昨年二人の男達が発見した新種であれば、まだ数も少ないのだろう。

 幸い彼女には、子供の頃、家の前の田圃でよく見かけた、ギンヤンマの記憶が残っている。とりあえず、ギンヤンマの姿を思い起こしながら、スケッチして見ようと考えた。



 七月の梅雨明けの頃までに、とし子は何度かイマムカシヤンマの描きかけの画帳を開いた。鉛筆を手にし、白い画帳に向かっても、思うようにイメージが浮かんでこない。子供の頃、初夏から真夏にかけて、あれほど身近に見かけていた、ギンヤンマの飛翔の姿が、画帳に定着しないのだ。画帳を開くたびに、気分が重くなる。請け負ったことを悔やんだ。



 そんなある日の午後、山本と言う若者から、携帯に電話がかかってきた。高鍋湿原で出会った若者と気づくまでに、少し間があった。予想していなかったことなので、気分がいっそう滅入った。

「なによ、電話なんかして」

 若者のいやな部分が、一気にこみ上げて来て、とし子は生の感情を口にした。



「すみません。お願いしていた、表紙の挿し絵のことなのですが」

「ああ、あれね。お断りしようかと思っているの」

「待ってください。僕たちの原稿はもう出来上がっているのです」

 若者のあわてたような声が携帯から飛びだしてくる。

「見たことがないものは描けないわ」

「今なら湿原に飛び交っています。明日の日曜日に見に来てください」

 初めてあった時、湿原入り口の金網の前にたって、

「ここにヤゴがいます。見てください」

 と叫んでいた時の、必死に訴えていた表情が浮かんできた。

(その手にのるものか)

 とし子は内心そう思いながら、携帯を切った。普段、ひっそりと暮らしているとし子に、電話がかかってくることは滅多になかった。



 その夜、夫から三週間ぶりに船舶電話がかかってきた。夫の語る航海や漁の話は、聞いていて、あきることがなかった。とし子も庭に咲いている花や、描きためたスケッチの話をした。

夫はとし子が話す身近な話題をよろこんだ。国内で報道されるニュースや話題は、人工衛星の電波を受信する船内テレビで、リアルタイムに見ることができる。プロ野球に興味のないとし子は、遠洋の夫から試合の結果を知らされたりして、これまでに何度も苦笑した。



「八月はじめに目井津港に帰港する」

 と話し、それから二人にしかわからない、隠語を交わした。とし子は電話を切ったあとの気だるさの中で、今年こそ妊娠しようと決心しながら、スケッチブックを開いた。寝床に横たわると、いつとはなしに右手が股間に伸びていた。



 翌朝、とし子は車を運転して、高鍋湿原に向かった。助手席には昨夜、夫からの電話のあと描きあげた、イマムカシヤンマのスケッチブックがあった。子供の頃の記憶にあるギンヤンマをやや大型にして、一見すると、オニヤンマに似た迫力あるトンボが薄緑色に描かれている。二人の男との約束をうやむやにした為に残る、後々の呵責(かしゃく)がいやだったので深夜までかかって仕上げた。

「お気に召さなくて結構」

 とし子は走りながら、つぶやいた。日曜日の朝だというのに、やたら赤信号にぶつかる。



「いつも早いですね」

 フェンスの入り口のところで、麦わら帽子をかぶって立っている保護観察員は、とし子を覚えていた。

「涼しいうちがいいとおもって」

 とし子は軽く頭を下げた。

「さっき来ましたよ。二人は昨年、イマムカシヤンマを見つけてから、ここでは有名人ですからね」

 保護観察員の含み笑いを横目に見ながら、とし子は桟道を歩いていった。

「この前、一緒にいたところを見られたのだろう」

 別に後ろ暗いことはなにもないが、些細なことが気になる。


それにしても、あの二人が有名人とは知らなかった。この画帳を渡してしまえば、彼らとの関係は終了だ。だが、すでに二人の男性が来ているのがわかったことは、とし子にとって収穫だった。

 二人はすぐにわかった。一人が双眼鏡をのぞき込み、別の一人がノートに記録を採っていた。



「おはようございます」

 とし子は、離れたところから声をかけた。二人は彼女を見て、少し戸惑っているようだった。こんな早い時間にくるとは予想していなかったのだろう。

「約束のスケッチを届けに来ました」

「昨日はすみませんでした」

 若者がペコリと頭を下げた。

「ご迷惑をかけてすみませんでした。昨日、山本君から報告をうけて、あきらめていたところです」

 ジェットパイロットは、今朝も濃いサングラスをかけていた。



「受け取ってください。あまりいい出来ではありませんが」

 とし子は画帳をパイロットの前に差し出した。若者がすぐによってきて、男二人は画帳に描かれたスケッチに見入った。とし子は男達から離れたところで、湿原に目をやった。


 草むら一面、朝露が光っていた。様々な色をした小さな花が咲いている。それらは、どれも雑草のようだが、絶滅が心配されている、野生のサギソウやモウセンゴケも交ざっているのだろう。


とし子は東の木立の途切れた方に目を向けた。湿原の一角が朝日によって、スポットライトのように照らし出されていた。


スウッと、一匹のトンボが草むらの中から舞い上がり、光にすい寄せられるようにして宙に浮かんだ。しばらくすると、また一匹、続けてもう一匹、と次々に草むらの中から、朝日のスポットライトに向かって、舞い上がっていく。羽を広げているだけで、ほとんど上下運動がない。光の中では、上昇気流が起きているようだった。



「来て!見て!」

 とし子はあわてて、男達に声をかけた。

「何ですか」

 パイロットが素早く走り寄ってきた。

「トンボよ。あんなに沢山」

「山本君。イマムカシヤンマが群舞している」

 パイロットは濃いサングラスをはずし、視線を乱舞するイマムカシヤンマに釘付けにしたまま、動きをとめた。

「あれっ」

 とし子はジェットパイロットの素顔を初めて見て、あまりにも夫に似ていることに、思わず声をあげた。

「似てる」

 何度もつぶやいた。二人はイマムカシヤンマに夢中だが、とし子はパイロットの顔にすい寄せられるように見入った。



「すごい、こんなの初めてだ」

 若者は驚喜し、首に下げた一眼レフのシャッターを、バシャッ、バシャッと切り続けた。

「ありがとう、一宮さん。僕たちはあなたのおかげで、千載一遇のチャンスにめぐり会うことができた」

 パイロットも興奮していた。とし子から見つめられていたことなど、眼中にないようだった。イマムカシヤンマの朝の乱舞は、十分間程度で終わっていた。二、三匹を残し、あとの大半は木陰の中に消えていた。

「複眼が、緑色に輝いていましたね」

 と、若者が声をあげた。

「このまま気温が上昇すれば、今日は交尾の最盛期になるよ」

「僕もそう思います」

「交尾?」

 とし子が小さな声をあげると、

「申し訳ありません。つい、夢中になりまして」

 と、パイロットはあわてて言葉をうち消すような仕草で、頭を下げた。


「一度見て見ませんか、トンボの交尾。面白いですよ」

「失礼なことを言ってはいかんよ」

「面白そうね」

 とし子は笑った。午前中ぐらいなら、つき合ってもいいと思った。

「奴らはかわいいヒコーキ野郎です」

 パイロットは先ほどから、イマムカシヤンマが描かれたとし子の画帳を、大事そうに腰の位置で持っている。



「気に入ってもらえたかしら」

「遠慮なく使わせていただきます」

 若者には二人の会話は聞こえていないようだった。何度も首をのばすようにして、木立の方を見ている。

「トンボのオスは、射精する前にあらかじめメスの性器の中をきれいに掃除するってこと、知ってました?」

 若者が振り向き、唐突に声をあげた。



「知らないわ。そんなこと」

 若者によって、いやな気分にさせられるのはこれで何回目だろう、と考えた。

「次の世代に自分の子孫を残すために、トンボは涙ぐましい努力をしているのです」

 パイロットの声に、とし子の心は少しは落ち着いた。微風が彼女に向かってふき始めている。薄い男の臭いが感じられる。


 昆虫には「精子間競争」があり、複数のオスの精子がメスの体内に入った場合、それぞれの精子間で、生存をかけた、し烈な競争が起きる。先に交尾をしたオスと、後に交尾をしたオスとでは、後の精子の方が子孫を残しやすい。


それでも用心深いトンボのオスは、後に交尾をする時も、ペニスの先に発達させた耳かき状の器官を使って、前のオスの精子をかき出してしまう。その行為を若者は、掃除と表現した。



「小さな飛行機野郎を、ジェット戦闘機の操縦席の窓越しに見たことがあります」

「本当!」

「日向灘沖の訓練を終えて、新田原基地への着陸態勢に入ってしばらくすると、気象条件によって、この高鍋湿原がトンボの複眼のように光って見える。そんな時に一瞬、操縦席の前をトンボが飛ぶ」

 パイロットは再びサングラスをかけ、空を見上げている。夫のイメージは消え、精悍なジェットパイロットの表情に戻っていた。真夏の強い日差しが湿原全体に広がり、所々に積乱雲が発達している。



「怖い」

 とし子はパイロットが自分の気を引くために、出鱈目を言っているのだと思ったが、聞くうちに真実に思えてきた。先ほど見たイマムカシヤンマの乱舞を、大空で見ることのできるのは彼しかいない。

「かわいい飛行機野郎達です」

 パイロットは画帳を大事そうに別の手に持ち替えながら、しっとりとした声でつぶやいた。



「もう、時間がないのでしょう?」

 とし子は二人の男を見比べながら、声をかけた。

「描き直したいの。スケッチ」

「こんないい出来なのに、勿体ないですよ」

 と、若者が言った。パイロットも軽くうなずく。



「さっきの乱舞を見て、気が変わったの」

「山本君、僕らの原稿だけ先に印刷屋に渡して、表紙の分、一週間待ってもらおうよ」

「はい。明日、印刷屋さんに電話入れておきます」

「これ以上の表紙が出来るんなら、僕らのトンボ学会報告書も、一段と見栄えがよくなる」


パイロットは口元に笑みを浮かべて、画帳をとし子に手渡した。

「勝手を言ってごめんなさいね」

 とし子は自分が描いたトンボを、みすぼらしく感じた。一匹ではなく、大空を乱舞するイマムカシヤンマの雄姿が描きたくなっていた。



 その日の午後、湿原から帰宅したとし子は、早朝に目にした大空に舞うイマムカシヤンマのスケッチに没頭した。ジェットパイロットが目撃したという、操縦席から見た俯瞰の構図で、乱舞するイマムカシヤンマを様々に形を変えて描いた。下部に光る湿原を添えた。



とし子は描きあげたスケッチをソファーの上に立てかけ、窓際からながめた。順光の夕日が、ソファーに向かって差し込んでいる。十数匹のイマムカシヤンマが、画帳全体を飛び交っている。

「出来た」

 とし子はつぶやいたが、何かもの足りない。

「何かしら…」

 陽はすっかりかげっていた。部屋は急激に灰色の夕闇につつまれていた。窓の外に見える空が、ほんのりと焼け残っている。とし子は暗い部屋の壁にもたれたまま、しばらくぼんやりとしていた。



 金曜日の昼前、玄関の郵便受けをのぞくと、一通の葉書が来ていた。差出人の山本和行が誰だか、文面を読むまで思い出せなかった。

―昨日、父が急逝したと連絡がありました。東京に帰ります。複雑な事情を抱えているために、もうこちらの大学には復帰できないかもしれません。トンボ学会報告書の完成に立ち会えなかったのが残念です。あとを源田さんと一宮さんにお願いします―


「どうして携帯してくれなかったの。携帯番号、知っていたでしょう」

差出人の連絡先は何処にも書かれていない。葉書を持つとし子の手がふるえていた。春先から先週までの、若者との関わり合いがいろいろと思い出される。



「イマムカシヤンマの挿し絵を描くきっかけを作ってくれたのは、君だったのに」

 とし子は空を見上げた。積乱雲が沸きたっている。若者が去ったのを知って、とし子はこれまで続けてきた彼らとの緊張感が、ゆるむのを覚えた。その時、とし子は目の前に、桜の花びらがひらひらと舞い落ちる幻覚を見た。



「桜!」

 とし子は弾かれたような声をあげた。挿し絵の物足りなさの原因は、桜が欠けていたからだと気がついた。

 乱舞するイマムカシヤンマの天空から、無数の桜花が舞い散る。歌舞伎一八番、千本桜の舞台絵のような桜花を描くことを、若者は別れによって暗示してくれた。若者が関わった、トンボ学会報告書に、これほど相応しい絵柄はない。とし子はその夜、制作に没頭した。


 日曜日は雨だった。高鍋湿原はどんよりとモヤにつつまれていた。広い駐車場に乗用車が一台駐車していた。とし子の車がやってきたのを見て、乗用車のドアが開いた。運転席から老人が降り立ち、金網の門の方に歩いていった。いつもの保護観察員の老人だった。

「おはようございます」

 とし子はレインコートの中に画帳を抱え込んでいる。

「無事を祈りたいね」

 老人は雨をよけるように、こうもり傘の中で背を丸め、煙草に火をつけた。

「……」

 老人が何を言いたいのかわからなかった。とし子は笑みを浮かべて、老人の口元を見つめた。

「昨夜、新田原基地を緊急発進したジェット戦闘機が、日向灘沖で行方不明になっているの、知らない?」

「本当に!」

 とし子は絶句した。レインコートの中の画帳を落としそうになった。



昨夜はトンボ学会報告書の新たなスケッチ制作に没頭していて、テレビも見なかった。今朝はまだ新聞も読んでいない。いつもなら自宅の車庫から一〇号線を北上し、高鍋湿原までの間、カーラジオのスイッチを入れるのだが、今朝は、挿し絵の完成に酔いしれて、入れ忘れていた。


「いつもの日曜日なら、二人のうちどちらかが来ている時間だ」

 老人は若者が帰郷したことを知らないらしい。とし子はこれから先どうしていいかわからなかった。

「遭難したパイロットが彼だとは断定できん。緊急事態なので、来られないだけかも知れないしね」

 老人は煙草を捨てた。吸い殻の残り火が、アスファルトの雨水の中で、赤く燃えてすぐに消えた。



「そうよ」

 とし子は語気を強め、笑おうとするが笑えない。すぐに老人の元から離れたかった。

「イマムカシヤンマ、見てくる」

「こんな天候じゃね」

「飛んでるわよ」

 とし子は足を早めて,桟道に向かった。

 モヤは濃くなる一方のようだった。一〇メートルほど先に、雨に濡れた湿地が広がっている。



 彼女はレインコートの中から、画帳をとりだした。何枚かページをめくるうちに、イマムカシヤンマの乱舞する絵があらわれた。無数の桜の花びらが、トンボに降りかかっている。

「この絵が、あなた達のトンボ学会報告書の表紙を飾るのよ」

 とし子は静かな声で、つぶやいた。

 雨だれが表紙の絵を濡らしはじめた。一粒、また一粒……、雨あしが強くなり、モヤはなお濃さを増していく。 終

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愛の飛行機雲 @nobuo77

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