銀河鉄道と僕ら / 澪
追手門学院大学文芸部
第1話
「駆け落ちなんて、今どき流行らないですよね」
消毒用アルコールの匂いと、先生の飲むインスタントコーヒーの匂いが混ざり合って香る。傷が沁みるのも先生の指先の繊細さも、夕暮れは分け隔てなく際立たせるのだ、僕の感情に関係なく、無遠慮に、不躾に。
「何、好きな子守ってこうなったの?やるじゃん」
にひひと笑って頭を撫でる肌の艶やかで笑顔が可愛らしい先生に、好きな人は貴女です、とも、ただのイジメです、とも答えられずに、黙ってされるがままにしていた。
と、がらがら、という音がして、無機質な鉄製の引き戸が開かれる。「失礼します」という声は澄んで、綺麗で、僕とは対照的に、自信に満ち溢れた少女の声だった。清楚清廉、誰にでも優しく何事にも正しい、おまけに家柄まで良い、我らが学級委員長、神崎美鈴だ。
「保健委員で……ああ、七星さん、ってどうしたのその顔!?」
デリケートな問題に無遠慮に踏み入ってくる彼女に、僕は少し嫌な顔をした。
「名前で呼ばないで。怪我は転んだだけ、大丈夫だから」
言って、僕は勢いよく椅子から立ち上がった。椅子の脚がガタンと大きな音を立てるのにも構わず、乱暴に鞄を手に取って、美鈴の横を通り過ぎ、保健室の外に出たところでターンする。
「先生、手当てして下さりありがとうございました、僕はこれで。」
先生の返事も聞かずに、僕はその場から駆け出した。先程まで綺麗な夕焼けだった空は、薄暗い雲に覆われつつあった。
程なくして雨が降り出した。夏の時期には多い、ゲリラ豪雨とか言うやつだろう、そう思いながらいそいそと洗濯物を取り入れていた。洗濯物が全て部屋の中に取り入れられたところで、インターホンが鳴った。
「はい、今出ます」
宅配業者の人だろうと思い、印鑑を片手にドアを開ける。そこに居たのは、ずぶ濡れの神崎美鈴だった。
「ごめん七星さん、お風呂と服、貸してもらえないかな?」
僕は改めて、心底コイツが嫌いだと思った。
「なんで自分の家じゃなくて僕のとこに来るんだ」
「家の鍵忘れて、締め出されちゃったの。お手伝いさんも今日は早く帰っちゃう日だし」
彼女の家は大金持ちだ。城みたいな豪邸に家族三人で住んでいて、家事全般をこなすお手伝いさんなんかも雇っている。噂では別荘も四つくらいあるらしい。別荘四つというのがお金持ちにとって多いのか少ないのか、一般人どころか貧乏人の僕にはわからないけれど。
「ばか。あと別に僕じゃなくたって他に友達いるだろ」
「あんな人たち、友達じゃないよ」
さっき取り入れたばかりのバスタオルで髪を拭きながら、彼女は平坦な表情でそう言った。不意に一歩、僕に歩み寄って頬に手を添える。痛くないように、優しく触れた手は冷え切っていた。
「その方が都合がいいから、そういうフリをしているだけ。お互い微塵も信用してないし、邪魔をされるのも嫌だから媚びへつらって取り入ろうとする」
無駄なのにね、と呟いて、彼女は僕のシャツのボタンを一つ外した。彼女には僕の白い首筋がどのように見えているのだろう。ぼんやりそんな事を考えた。
「信頼関係のない相手を、友達とは言わないでしょう。それにクラスのみんなは、貴女と違って、私には言えない秘密があるようだもの」
例えば、見えないところで誰かを傷つけている、とか。また一つ、ボタンが外された。僕の目をじっと見つめて、まだ新しい傷に触れる彼女は、どうやら怒っているらしかった。
「何をそんなに怒ってるの?」
「……貴女が助けを求めてくれないこと。誰にやられたのか言ってくれるだけでいいのに」
言いながら、三つ目のボタンを外した。鎖骨から、胸を覆うサラシまでが露わになって、僕は彼女の手を掴んだ。
「やめて、見られて嬉しいものじゃない」
「そうね、ごめんなさい」
僕はボタンを留め直して、彼女からバスタオルを受け取った。
「お湯沸かしたとこだから、先温まってくるといいよ」
促して、彼女の背を見送った後、僕は壁にもたれるようにして座り込んだ。
僕には父親が居ない。母親も酷い女だった、少なくとも父親に捨てられたことが納得できるくらいには。酒癖が悪くて、ギャンブルや借金なんかもあって、すぐにカッとなって手が出る。良いところといえば、顔くらいだろうか。そんなだから、僕もあいつと同じ女だってことに嫌悪感を覚えた。顔がそっくりだから、女の格好をしていると自分があいつに見えてくる。嫌で嫌でしょうがなくって、自分の顔をぐちゃぐちゃに傷付けようかとも思ったけれど、それは怖くてできなかった。せめて、僕が僕でいられるように、男の格好をするようになった。いじめられても、あの女と同じになるよりはよかった。
僕が男の格好をしても、あの女は何も言わなかった。というか、なんの興味も示さなかった。育児放棄や虐待と責められない程度に買ってきた弁当を与え、僕が自分で色々できるようになると、月に一度、お金だけ置いて家に帰ってこないようになった。あの女にとって、僕は近所の野良猫と変わらないのだと思う。ああいうふうにだけは、なりたくなかった。
神崎美鈴が風呂に入っている間に、僕は簡単な夕食を用意した。朝のうちに炊いてあった白米と、味噌汁、それから冷蔵庫のありもので作った野菜炒め。お嬢様にお出しするようなメニューではないけれど、ずぶ濡れで人の家に転がり込んでくるようなやつはきっとお嬢様なんかじゃないと思った。
「お風呂いただきました。これもいただいていいの?」
「どうぞ、どうせ夕飯も家の中でしょ」
「そうだね、お父さんかお母さん、帰ってくるの早朝だし。ああでも、それまで野宿は辛いかも」
どうやら今夜はこのまま居座るつもりらしかった。
「へぇ、銀河鉄道の夜」
僕の寝巻きで僕の布団に寝そべった神崎美鈴は、僕の本棚から勝手に本を取り出してパラパラとページをめくっていた。
「アニメのじゃないよ」
「ねえ、私のこと馬鹿だと思ってるでしょ」
不服そうな顔をする彼女は、そういえば全科目の成績学年トップ、完全無欠の委員長様だった。
「馬鹿じゃないなら、本当の幸いって何か、教えてくれよ」
「そんなの死ぬことに決まってるじゃない」
「やっぱり馬鹿」
「なんでよ」
だって、死ぬことが本当の幸いなら、一体どうして生きなきゃいけないのだろう。そんなことを思った僕の思考を読んだように、彼女は言葉を次いだ。
「死んだらみんな平等じゃない。死んだ後には何も無いもの、不安も、葛藤も、何も」
「でも、じゃあ、幸せも何もないじゃないか」
「生きていたってそんなもの無いでしょう?」
本に目を落としたままで、彼女はそう呟いた。一体何が彼女にそう思わせるのだろう、彼女は僕の持っていないものを沢山持っているのに。
「沢山のものを持っていたって、本当に欲しいものがなくちゃ空虚なだけよ」
結局は無いものねだりなんでしょうけれど。その言葉に、妙に納得した。幸せになりたいと思ってるうちは幸せに気づけない、なんて言うけれど、それが本当なら、幸せはきっと妥協だ。カンパネルラの言う、本当の幸いとは、きっと違う。
「銀河鉄道の旅路の果てなら、答えはあるのかしら」
「さあ、どうだろう。僕はジョバンニじゃないし、君はカンパネルラじゃないから、きっと銀河鉄道には乗れないね」
彼女は僕の助けにはなれないし、僕の家には、病気がちな優しい母親も、ラッコの上着を持って帰ってくる父親も居ない。
「七星さんは、もし銀河鉄道に乗ったら帰ってこなさそうね」
「それはそうかも」
僕には帰る理由が無いから。
短く「おやすみ」と言って、布団に潜り込んだ。背中に誰かの暖かさを感じて眠るのは、もしかしたら初めてかもしれなかった。
次の日、神崎美鈴が死んだ。
学校に向かう途中、不注意で車の前に飛び出してしまった僕を庇って。自分と相手の位置を入れ替えるように手を引っ張って、僕の代わりに跳ね飛ばされた。
やっぱり、僕はジョバンニにはなれないらしい。もし配役されるとしたら、カンパネルラを死なせてしまうような、愚か者のザネリだ。鮮血と昨日の雨で出来た水溜りが溶け合うのを見て、ぼんやりと、僕はそう思った。
それから後の記憶はあやふやだ。学校に行ったのか、警察に行ったのか、家に帰ったのか、覚えていない。闇雲に歩き回ったかもしれない。気がつくと、僕は学校の屋上に居た。
目の前には、神崎美鈴が立っている。
「かん……」
「カンパネルラ」
シッ、と、僕の唇に指を当てて名前を呼ぶのを遮る。指はひんやりと冷え切っていた。
「みんなは来ないよ、七星さんだって、私が列車の出発を遅らせてもらわなかったら追いつかなかった」
「私……」
何か言おうと、呟いて気づく。僕の、否「私」の格好は濃紺の生地に細かな白銀のビーズをあしらった夜空のようなワンピースだった。踵は高く、踏み出すとぎこちなく、危なっかしい。なんとなくだけれど、髪も丁寧に編み込まれて、化粧も施されているのが分かった。あの女とは似ても似つかない、こういう選択肢もあったのか、と少し嬉しくなった。
「似合ってるよ」
差し伸べられた手を取って、カンパネルラと列車のステップを踏んだ。
列車の中は、大正時代を題材にした物語によく出てくる汽車のような作りになっていた。橙の白熱灯がずらりと並び、木組みに深緑の布が張られた、座ると少し硬そうな向かい合わせの椅子が何十組も。踏むと小気味のいい音のする木板の床は漆か何かでコーティングされて艶やかで、橙の灯りを反射する。
「座ろう」
促されて座ると、がたん、と揺れが来て、それから窓の木枠の外の景色がゆっくりと横にずれはじめた。どうやら列車が出発したらしかった。
「何処まで行くの?」
私はカンパネルラの顔を見て訊いた。不安ではなく、期待の色の瞳で。
「さあ?ずっとずっと電車に揺られて行くんでしょうね、飽きるまで」
飽きたら何処か星の海辺で降りましょうか、と窓の外を眺めながら呟いた。
外の景色はどんどん流れていく、私の住んでいた場所は都会だから、まだ星はあまり見えないけれど、代わりに夜景がとても輝いて見える。それも段々と遠く、小さくなって、顔を上げるとすぐ目の前に月が見えるようになった。輝く星もぽつぽつと数を増やして、そのうち数え切れなくなった。
「ねえ、少し話をしましょうか」
「本当の幸いについて?」
「そんなの、わかんないわよ」
死んでも続くなら、不安も葛藤も何もかも一緒に続いちゃうんだから。彼女の答えは、結局ハズレだったわけだ。
「そもそも、死ぬことが本当の幸いだ、なんて結論なら、銀河鉄道は生まれないからね」
「死の淵に死の先を夢想する、あるいは生前の幸いを思い返す。どちらにせよ、人それぞれ違うのね、きっと」
人それぞれ。身も蓋もなく、拍子抜けだけれど、それが私たちに出せる精一杯の答えだった。
「それより、私が気になるのは貴女のこと」
「私?」
カンパネルラがパチンと指を鳴らすと、私たちの席の隣にサイドテーブルが現れる。ラムネの瓶が乗っていた。
「どうぞ」
「それじゃあ、遠慮なく」
言いながら窓を開けて、窓の外に瓶をやって硝子玉を勢いよく弾き落とした。泡が沸き上がって、手を濡らしながらいくらか宙へと溶けていった。
「乱雑ね」
少し呆れたように言いながら、カンパネルラは静かに硝子玉を落としてラムネに口をつけた。
「七星さんは、保健室の先生のことが好きだったのよね」
「まあ、そう」
「どこが好きだったの?」
「綺麗なところ、あと優しいところ」
暖かい手指で触れられるのが心地よかった。その為なら黙って殴られてやってもいいって思うくらいに。
「ふうん、それで頑なに誰に殴られているのか教えなかったわけね」
見透かしたように、カンパネルラはそう言った。死人に隠し事は通用しないのかもしれない。
「だって、教えたらやめさせるでしょう」
「まあ、そうね」
しばらく沈黙があった。それからカンパネルラは思い出したように口を開いた。
「ねえ、私のどこが嫌いだったの?」
「……そうだね、色々あるけど、一番は、私のことが好きなところ」
「僕」じゃなくて、見透かしたように「私」を見ていたのが、居心地が悪くて嫌だった。彼女の前でだけ、「僕」は「私」だったのだ。
「そう、ちゃんと嫌いだったのね」
言ってカンパネルラは微笑んだ。いつの間にかラムネの瓶は霧散して、彼女の手には黒い切符が二枚、握られていた
「切符、貴女の分も用意したけれど、どうする?」
今ならまだ引き返せるよ、と言われている気がした。彼女の手が震えているように見えたのは、きっと列車の揺れのせいだ。
それでも、私は切符を受け取った。今まで居た場所以外、何処へでも行けるその切符を。
「何処へ行こうか、美鈴」
「何処へでも、七星さん」
そう呼ばれたのは、もう夜空のようなワンピースの私ではなく、身軽で動きやすいジーンズとシャツ、足元はスニーカーの、僕。
帰る理由の無い僕はジョバンニとは違うし、誰をも愛するわけじゃない彼女はカンパネルラとは違う。だから僕らは一緒に行ける、そのことを確かめるように、僕らはお互いの名前を呼んだ。
今時流行らないと言われたって構わない。銀河鉄道で駆け落ちした、僕らの話。
あるいは、それすら、僕か彼女の、走馬灯のような夢だとしても。
あとがき
最後まで読んでいただきありがとうございます!
文芸部での初の制作は制作期間二日の短い文章となりましたが、私の出したい空気感は存分に書けたので満足しております。楽しかった……。
今回は題材として銀河鉄道を取り上げさせていただきました。特に理由はございません、強いていうなら好きだからです。銀河鉄道に乗るまでの空気感、詳細な情景描写、あのきらきらとしながら少し儚いような文章は、一つ私の目標とするところです。もちろんまだまだ遠いものですが。
書きたいものを書きたいように書いただけのものなので、エンディングや展開に納得がいかないと言われてしまうかもしれませんが、それはそれ。読み手も書き手も、受け取り方は「人それぞれ」という身も蓋もない言い訳を通させていただければと思います。
さて、二人の少女にこれから魔法のような旅路が続くのか、それとも、最後の描写のように束の間の夢であるのか。その余韻は読み手に委ねられるものでもあり、そして彼女たち登場人物それぞれの選択の自由でもあるのだと、そういったところであとがきの締めくくりとさせていただければ……。
銀河鉄道と僕ら / 澪 追手門学院大学文芸部 @Bungei0000
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