アーリア人の国 イラン / 光洪康

追手門学院大学文芸同好会

第1話

 多くの人はイランという国についてどれくらい知っているだろうか。中東にある国だとか、隣国のイラクと紛らわしいとか、いつも何かしら揉めているとか、あるいはペルシアの影響で絨毯の国というイメージもあるかもしれない。しかしその認知度に対し、イランは歴史上もっとも重要な国であることは意外に知られていない。


 そもそもイランという国名はどのような意味があるのだろうか。結論から言うと「アーリア人の国」という意味であるが、そもそもアーリア人とは何なのかという話である。アーリア人は中央アジア、現在のカザフスタン地域からやってきた遊牧民でインド人やゲルマン人などの祖となった民族でもある。中央アジアからヨーロッパないしはインド方面に行ったことからインド・ヨーロッパ語族と分類されるが、当然その通り道たるイラン周辺にも定住したアーリア人たちがいることを忘れてはならない。彼らが信仰していた宗教やシンボルは周辺民族に多大な影響を与えており、例えばゾロアスター教における最後の審判はイスラエルのユダヤ、キリスト教にも見られるし、鉤十字のシンボルはドイツのナチスにおいてプロパガンダに利用された。


 イランに定住したアーリア人の中でも、特に高名なのがペルシア人である。彼らはイラン南東アンシャン地方へ定住した民族で、アンシャンの国王キュロス二世が大帝国であるアケメネス朝ペルシア帝国を建国するという華々しい形で歴史の表舞台へ登場している。なおキュロス二世はエジプトを除くオリエント全土を征服することには成功したが、突然中央アジアへ先祖帰り侵略をした際、遊牧系アーリア人のマッサゲタイ人との戦いで戦死するというなんとも悲しい死に方をしている。帝国はその後も規模を巨大化させ、ついにはバルカン半島のギリシャまで侵攻しペルシア戦争が勃発するが、ギリシャの巧みな戦術の前に敗北している。皮肉なことにペルシア戦争のおかげでギリシャ人らがペルシアの歴史をよく残し、我々はペルシアについて詳しく知れているのである。


 意外と知られていないがペルシア戦争で敗北して以後、帝国は内部工作などでギリシャを内乱状態にさせる方面に路線を変えており、見事ペロポネソス戦争を勃発させることに成功している。ただ残念ながら帝国内でも王位争奪戦や官僚との闘いといった内乱が発生してしまい、ペルシアからの圧力が弱まった間隙を突いた形でギリシャにおいてマケドニア王国の台頭を許してしまった。そして激しい内乱を制し、実権を握ったダレイオス三世がなんとか即位した直後、マケドニア国王アレクサンドロス三世の遠征軍でもってアケメネス朝ペルシア帝国は滅亡した。


 ペルシア人にとって幸か不幸かアレクサンドロスは疫病によってすぐに亡くなった。大王死後に起こった後継者戦争もそのほとんどがメソポタミア以西で行われ、戦争中だというのにイラン高原には久々に静けさが戻っている。後継者戦争が終わると勝利者と称えられるセレウコス一世により、シリアからインド北西にまたがるセレウコス朝シリアが成立した。がこれは一瞬のことでギリシャ人の関心は常に本土ギリシャ、エジプト、シリアにありイラン高原は大きいだけの田舎領地として見られていたようである。またアレクサンドロスの遠征軍はしばしばペルシア軍ギリシャ人傭兵とも戦っており、彼ら裏切り者の流刑の地としてもイラン高原は扱われた。こんな具合だからセレウコス朝の東方領土は続々と独立していき、イラン高原東北部から来たアーリア系遊牧民であるパルニ族のアルサケス朝パルティア、ギリシャ人傭兵のグレコ・バクトリア王国が成立した。バクトリア王国は百余年ほど続きインド方面と貿易があったようだが今回はイラン系アーリア人にのみ焦点を当てているので説明しない。なお最後は北方より襲来したさらなる遊牧民によって滅ぼされたようである。


 パルティアは遊牧民としての個性を維持したまま王朝を建国したという点で特異なアーリア人であり、また移動の激しい遊牧民だけあって資料が乏しい。だがアケメネス朝ペルシア帝国がギリシャ人に記録を残されたように、パルティアにもまた記録を残してくれる国がいた。その国家こそアレクサンドロスの後継国家をことごとく征服しパルティアとも国境を接したローマである。


 パルティアはしばしばローマと衝突し、一進一退の戦いを繰り広げた。ついには共和制を重んじ君主制を嫌っていたローマでさえ、とうとうパルティアを征服したものはローマの王になれるなどと言い出し、クラッススやアントニウスなど数多くの豪傑が挑んでは返り討ちにあった。かのユリウス・カエサルもまたパルティア遠征を考えていたようだが、遠征の前に暗殺されている。パルティアといえばパルティアンショットという言葉でその名を耳にした人もいるかもしれない、これは馬に乗った状態で上半身を後ろにひねり矢を射るという、幼少から馬に慣れ親しんだ遊牧民ならではの戦術である。戦闘の中でパルティアはまず騎兵で突っ込むとすぐさま反転して逃げ去り、追ってきたローマ兵にこの攻撃を行い大いにローマ軍を苦しめたという。


 パルティアの功績で特に重要なのがローマと中国(漢)の間で行われていたシルクロード貿易の中間役であろう。ローマからすれば中国との貿易の過程で必ずパルティアを経由しなければならないからその通行料は莫大なものにのぼった。一応の大国であったセレウコス朝の滅亡とこのような貿易黒字によって、パルティアは徐々に故郷であったイラン東北部からシリア近郊の西アジアにまで移動することになった。東北への関心と圧力を減らすということはすなわち、セレウコス朝と同じことをしてしまったわけである。その結果見事にかつての自分たちと同じような形で続々と遊牧民の襲来を招いてしまい、またこのような都市部への移動はパルティア人自身らの内部分裂を生み出す原因になった。つまり先祖代々の遊牧生活を営むものもいれば、西方のギリシャ・ローマ文化に触れたことで定住民化していくものも現れ始めたことで双方の間に対立が生じたわけである。パルティア後期はもっぱら遊牧民派と定住民派の皇帝が雨後の筍のように乱立し、もはや王朝としていささか怪しくなってくる。なおこの間に西方ではローマ、北方および東方では遊牧民の襲来などが起こっているはずなのだが、当の本人たちにはまるで見えていなかったようである。


 最後の最後までなんとか遊牧民王朝としての体裁は保っていたパルティアであったが、とうとうギリシャ・ローマ文化を廃しアーリア人の宗教たるゾロアスター教の復活を謳うペルシア系の定住民ササン朝ペルシアによりアルサケス王家が廃された。なお相変わらずこれらの国の明確な詳細は不明ではあるが、ササン朝ペルシアという第二のペルシア帝国のわりに支配階級はパルティア系大貴族に占拠されておりペルシア人はササン王家のみという、なんとも不思議な光景である。ササン朝はアケメネス朝にくらべればずいぶんと縮小した領土であるが、それでもパルティアから受け継いだイラン高原一帯を支配しており、ローマにとってパルティアに次ぐライバルとして十分苦しめられた相手である。


 ササン朝の歴史はそのほとんどがパルティア系大貴族とササン王家の抗争で構成されている。元々ササン王家はパルティア系貴族に承認される形で王位を得たわけであるから彼らは目の上のタンコブであったし、貴族たちも皇帝に反対できるだけの立場と権力を有していた。初期は周辺を侵略し勝利を重ね特に音沙汰なく過ごしていたが、中期に入ると時の皇帝ホスロー1世による皇帝権力の強化と貴族勢力の排除、またローマによる異教徒迫害によってやってきた学者たちを保護したことで、多くの資料や文献が作られるようになった。またローマ帝国へ少しばかり侵略しローマから一部領土を獲得した。この頃を一般にササン朝ペルシアの最盛期とみるが、最盛がくれば以降は当然没落である。ホスロー1世の改革は貴族勢力を排除しすぎたために、ホスロー1世の孫であるホスロー2世の暴走を生む原因となってしまった。


 ホスロー2世は明確に、ササン朝を破滅させた原因を作った。彼は先代ホスロー1世が行ったローマ帝国への侵略活動に憧れ、帝国の有するほぼ全ての財力でもって進撃した。これはローマ方面以外、すなわち東方、北方、南方への防衛をほとんど放棄したことを意味するし、普通これほどの勢いを長続きさせてはいけない。が対ローマ戦争はおよそ26年にもおよんでしまいササン朝は事実上内側から壊滅的なダメージを受けた。ローマとの戦争は最終的に双方がともに相手の首都を包囲している最中、ホスロー2世が貴族たちによって処刑されたことで講和となった。この戦争によって、荒れ果てた農地から疫病が流行したり、南方のアラビア半島が戦時中に交易地点としての地位を獲得したり、講和条件が実質敗北を認める内容だったため賠償金を払ったりとササン朝の命運は風前の灯となった。


 戦後の権力闘争でササン朝が例のごとく内乱に明け暮れていると、南方のアラビア半島からついにイスラム帝国がペルシア征服にやってきてしまった。唯一神アッラーフの名のもと団結したイスラム帝国に対して、仲の悪い貴族同士が軍閥を築いているササン勢力は滅亡のその時まで一切まとまることはなく敗戦を重ね、ついには首都までもが陥落していった。ササン朝はなんとか10万の兵かき集めるとニハーヴァンドの地にてイスラム帝国3万に対抗したが、見事なまでに大敗北を喫した。この戦いをもってササン朝は再起不能となり滅亡したとされる。一部皇族は当時の中国(唐)に亡命したが、特に何をするでもなく死去していった


 これ以降のイランは完全にイスラム化し、アーリア系民族はほとんどが支配階級の民族と同化していった。王朝もほとんどアラブ系ないしはトルコ系が建て、アーリア人の宗教たるゾロアスター教も今日においてわずか1万の信徒しかいない。一応近代においても自らをイスラム帝国ではなくペルシア帝国と名乗った国はあり、サファヴィー朝などは国家君主をイスラム寄りのスルタン、カリフではなく、ペルシアの君主を示すシャーとしたし国土もイラン周辺をなぞっている。公用語もペルシア語と久々にペルシアは日の目を見た。問題があるとすればサファヴィー王家がトルコ系であることぐらいであるがここまで来ると些細な問題であろう。サファヴィー朝の滅亡後はガージャール朝、パフレヴィー朝がイラン一帯を征服したものの、これらの国々は中東の石油に目を付けた欧米の傀儡政権同然でおよそアーリア人の復権国家とはいえない。パフレヴィー朝は一応、欧米による反イスラムの影響かずいぶんとペルシア帝国復権を謳っていた。自らをペルシア帝国の末裔と称し、イスラム暦からわざわざアケメネス朝ペルシアの建国者キュロス2世の即位時の暦に変えるなど必死に外堀を埋めていったが、尽力むなしくパフレヴィー朝はイラン革命で滅亡した。今でもアーリア人の血脈は脈々と受け継がれ、それぞれの地域で一つの民族としてアイデンティティを確立している。イラン高原で生まれ、1000年以上にわたって当時の世界に多大な影響を与えたアーリア人の帝国は数多くの制度や技術を作り上げた。それらは様々な形でインド、ヨーロッパ、アラブに受け継がれ、その後の歴史において多大な貢献をしたに違いない。



あとがき:初めまして、光洪康です。あまりにも小説のネタが思いつかず、とりあえず最近勉強していたイランの歴史について通しで解説する作品になってしまいました。寄稿するのは初めてのことなので、おそらく不自然な点も多々あるとは思いますがご容赦ください。

稚拙な文章だと思いますが、どうか皆さんがイランおよび中東地域の歴史へますますの関心を持ってくれることを願って寄稿させていただきます。ご愛読のほどありがとうございました。

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