失敗譚

裃 白沙

探偵小説って、基本失敗譚ですよね?

「そういえば、先生」

 応接室、紗綾専用の椅子の上、彼女はアイスコーヒーを飲み干してしばらくしてから口を開いた。丁度、ある事件についての記録を終えたところであった。

「先生。ねえ、先生はいつも私の話を書いてくださるとき、探偵譚だなんて、まるで英雄伝か何かのように書きたてているじゃないですか」

 紗綾はそう言うと、くすぐったそうに笑って、コップを差し出した。私はそのコップにもう一杯アイスコーヒーを注いであげた。

「ああ、そうだけど、なにか不満かい?」

「不満というか、なんと表現していいのか……。確かに、おかげさまで探偵事務所は繁盛していますよ。失せモノ、盗聴疑惑、浮気調査からはじまって、ペットの捜索、屋根裏のネズミ退治と、そういう案件を持ち込んでくる依頼人が増えました。でもそんなつまらない依頼なんて先生にお伝えしても仕方がないですよね。先生は殺人事件や奇怪な事件の記録に飢えていらっしゃる。もちろん、増えたお客さんの中には、先生もご存じのとおり、面白い殺人事件を持ち込んでくる人もいます」

 なるほど、確かに探偵と聴いて一番初めに思い浮かべるのはいわゆる探偵社であろう。そういった町中にある探偵社を期待してやってくる人は紗綾のニーズにはとてもじゃないが合わないのだ。依頼者本人は切迫しているのだろうけど、彼女の意気が消え沈むのも無理はない。私は納得したような、それでいて、ひょっとしたらここからまだ私の知らない話を聞きだせまいかと言う下心をもちながら相槌を打った。

「でも、先生の思うような面白い事件だって、お伝えしているものは少ないんですよ。私が自分の事件のうち、お話になりそうなものだけを選んでいるってことです。とにかく、小説にはできそうもない話っていうのが沢山あるんです」

 私は紗綾のその言葉に好奇の目をもって返した。それだけで紗綾には十分な返事になったとみえる。

「そういう事件についても聴きたいんですね? でも、ところがどっこい、日の目を見ない事件談にはそれなりの理由があるんです。まず、私が成功した話は書けないなってことです」

「どういうことだい、君はいつも事件をしっかり解決しているじゃないか。それを成功と言わずして、何を成功っていうんだい」

 私が身を乗り出すと、紗綾はアイスコーヒーをチュッと吸い上げて、ぶんぶんと首を振った。所々あらぬ方向にはねている髪の毛が、より一層不可思議な方向を向いた。それでも紗綾は髪形を直そうとしなかった。

「私の目の前で被害者が出たら、それはもう失敗ですよ。でも、被害者の出ない殺人事件なんて、私が探偵として悩み、苦しまない事件なんて書いたって面白くないでしょう? 結局、依頼者とその近辺に何らかの不利益とか、危険が伴う冒険とかが生じない限り、小説として面白い話にはならないと思うんです。もし、私が介入したばかりに一切被害者が出なかった事件、そんなものを書いてもらったら、先生、それは私の自慢話にしかならないじゃないですか」

 なるほど、それは一理ある。どんな優れた探偵が登場しても殺人が起きない話はつまらない。それでも面白いといえる話なら、わざわざ推理小説としてではなく一般的な小説として出せばいい。結局のところ被害があってなんぼのもの。被害があろうがなかろうが、謎さえあればなんでもかんでも推理だ、ミステリーだと冠すればいいのではない。だから殺人が起きてしまう話だけに目を向けたくなるのだが……。

 そういうバイアスがゆえに、世間的によく知られた探偵であっても、その多くは事件を未然に防げない。そんなイメージがついているのかもしれない。

 否、偉い探偵であるほどそのイメージがあるべきなのではないか。なぜって、自分の成功譚を持ち出さないと話の数を増やせない探偵というのは、その程度の数しか事件に触れていないということだ。探偵だって人間だ。完全無欠のコンピュータではない。未然に防げた事件の多い探偵は、そのぶん失敗も多いのではないか。失敗譚の多い探偵ほど実は偉いのかもしれない。

 それならば、私はもっと彼女の失敗譚を書かねばならない。

「その通りかもしれないね。でもそれじゃあ瓦木君、あとどんな話を隠しているんだい?」

「隠しているとは人聞き悪いですね」

 紗綾はそういうと少し眉をよせて抗議した。

「他はと言えば……、私自身言うのも恥ずかしい話ですね。私だって万能じゃない。組織的な捜査能力なら警察にはどうしても負けてしまいます。それに、警視庁には藤原警部っていう優秀な先輩もいますし、出し抜かれてしまうこともしばしばですよ。どうしようもなく失敗することだってあります」

 ぐぅ。

 紗綾はおなかをならせると、机の上のクッキーを一つ手に取った。

「今のだって、先生書いちゃうんでしょう? 別にカッコよくしてほしいとか、可愛くしてほしいとか、そういうつもりじゃないですよ。でもこれじゃあ探偵譚なんてカッコいい呼び名は似合いませんや」

 私は少し、自分の軽率な行動を反省した。紗綾だって女の子である。おなかのなる瞬間を書かれて喜ぶわけがない。口ではそういうつもりはないと言っているが、可愛く書いて欲しい、そう思っているのだろう。しきりに私の視線を気にしている。紗綾にしてはちょっと落ち着きがない。彼女を観察する私の目が彼女の目と合うと、少し後悔したように顔を赤らめた。

「まあ、いいんですよ。そのくらいの方が相手に警戒されません。依頼者だっていい人ばかりとは限りませんから。そういう意味では先生に感謝してますよ。こうして探偵業でお小遣いも稼げているわけですし」

 もう一つ、クッキーを口に運んだ。そのクッキーの砕ける音が収まると、紗綾は再び言葉を継いだ。

「なんてことを話しちゃうと、先生、私の失敗話をもっと聞きたくなっちゃうんでしょう? ええ、分かりましたよ、それじゃあ、一番失敗だったなぁと思う話をしましょう」

 その瞬間、私の目が輝いたのだろう。紗綾は幼い子供を見守るように微笑むと、次のような事件を聞かせてくれた。

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