至極の鞠
きょうじゅ
一の鞠
「あれは、蹴鞠の芸ですか」
庭で数人の仲間と共に鞠を蹴る年長の少年を見て、
「左様。貴君が、竹千代どのか。わたくしは今川家嫡子、
松平竹千代、のちの徳川家康が今川家の本拠である
「御歓迎のほど、痛み入りまする」
硬い表情で竹千代は龍王丸に挨拶をした。
「これから、父とあいさつの儀もあろうかと思うが。如何かな。貴君も、鞠を
一足というのは、鞠を蹴る回数の数え方である。一足、二足、三足と続く。
「有り難き幸せ。では、また後程に」
本当に有難いと思っているのかどうかはともかく、事実上松平家はこのとき今川家の支配下にある。断れるはずもなかった。竹千代は庭を通り過ぎて城に入って行った。
それからしばらくの時を経て、上機嫌な表情の義元が竹千代を連れて龍王丸のもとにやってきた。
「父上も参られたのですか」
「当然よ。竹千代殿の
「左様に御座いますか」
後世に蹴鞠名人として名高いのはどちらかといえば今川氏真の方であるが、実は父の義元も蹴鞠の巧者であった。今川義元は立派な武人であり優れた戦国大名であったが、それはそれとして和歌も良くするし蹴鞠も好んだのである。それらのことは別に矛盾するものでも対立するものでもなかった。
竹千代が鞠を蹴るのに使う
戦国時代というのは弱肉強食の時代であったが、だからといってこうした形式が軽んじられたわけではない。今川義元の胸中にあるのは、竹千代を今川氏の一族に取り込み、三河支配の要とすると共に、また能力次第では今川家の重臣としてさえも用いようという意だ。当然、下へ置くようなことはない扱いとなる。鴨沓の一つくらいは安いものである。
正式の蹴鞠を初心の者がいきなり行うのは無理であるから、まずは簡単に鞠を蹴る練習をさせる。
見当違いの方向に飛んで行った鞠を、しかし両側に控えた龍王丸と義元はそれぞれじょうずに中空で拾って蹴り上げ、竹千代の方に返した。
「申し訳ございませぬ」
恐縮する竹千代であるが、こうしたことは蹴鞠の道においては当然のことである。上手の人間が、下手の人間をうまく補う。そうしてこそ蹴鞠は美しい、とされていた。決して、上手の人間が下手の人間の上に立つのが蹴鞠の道ではないのである。
「では、少しだけ四人で蹴ってみましょうか」
さっき龍王丸と蹴鞠をしていた家臣のひとりが加わり、簡単な蹴鞠が試み程度に行われた。竹千代の両側に、龍王丸と義元が立ち、四人で順繰りに鞠を蹴っていく。竹千代が拾い損ねる鞠は、龍王丸か義元が補ってこれを拾った。
終えて、竹千代は龍王丸に問う。
「これが蹴鞠の道というものですか」
「左様。蹴鞠は、まあるい鞠を、まあるく蹴るものです。その輪は、人の和にも通ずる。今川家の和は、松平家との和でもある。少なくともわたくしは、そのつもりでおります。それをゆめ、お忘れめされるな」
「は」
竹千代は分かったような分からないような顔をしていた。
しかし確かなことには、その後竹千代はあまり蹴鞠を好むようにはならなかった。誘われれば断るということまではないが、その道を追求しようとしたりはしないし、上達を望んでいる様子もなかった。それよりも、彼は身の調練や武芸の稽古や、更には兵法の講義を好んだ。もちろん、それはそれで歓迎するべきことではあった。竹千代は筋が良かった。良き武者に育ちそうな塩梅であった。
「竹千代どのはわたくしより良い武将になろうな。我が片腕たるは、汝を置いて他にはあるまい」
「はい、龍王丸さま」
そして数年の歳月が流れる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます