至極の鞠

きょうじゅ

一の鞠

「あれは、蹴鞠の芸ですか」

 庭で数人の仲間と共に鞠を蹴る年長の少年を見て、竹千代たけちよが言った。柔和な顔立ちをしたその少年は、竹千代の方を見てにこやかな微笑みを向けた。

「左様。貴君が、竹千代どのか。わたくしは今川家嫡子、龍王丸りゅうおうまるながの旅路、ご苦労でありました」

 松平竹千代、のちの徳川家康が今川家の本拠である駿府すんぷに移されたのは彼が数えで八歳の時のことである。駿府のあるじ、今川家当主・義元には長子があり、その幼名を龍王丸と言った。これが今川氏真うじざねである。こちらも元服前であるが竹千代よりは五年年長であるから、このとき十三歳であったことになる。

「御歓迎のほど、痛み入りまする」

 硬い表情で竹千代は龍王丸に挨拶をした。

「これから、父とあいさつの儀もあろうかと思うが。如何かな。貴君も、鞠を一足いっそく

 一足というのは、鞠を蹴る回数の数え方である。一足、二足、三足と続く。

「有り難き幸せ。では、また後程に」

 本当に有難いと思っているのかどうかはともかく、事実上松平家はこのとき今川家の支配下にある。断れるはずもなかった。竹千代は庭を通り過ぎて城に入って行った。

 それからしばらくの時を経て、上機嫌な表情の義元が竹千代を連れて龍王丸のもとにやってきた。

「父上も参られたのですか」

「当然よ。竹千代殿の初蹴鞠はつけまり、わしが手ほどきせずして何とする」

「左様に御座いますか」

 後世に蹴鞠名人として名高いのはどちらかといえば今川氏真の方であるが、実は父の義元も蹴鞠の巧者であった。今川義元は立派な武人であり優れた戦国大名であったが、それはそれとして和歌も良くするし蹴鞠も好んだのである。それらのことは別に矛盾するものでも対立するものでもなかった。

 竹千代が鞠を蹴るのに使うくつは既に用意されていた。蹴鞠は通常の履物ではなく、鴨沓かもくつと呼ばれる専用の靴を履いて蹴る。これは竹千代が来ることが決まったときから、事前に用意されていたものである。竹千代の存在は今川家にとって決して軽いものではなかった。竹千代の祖父、松平清康は三河を統一した英傑である。だが既に彼は亡く、またその子であった広忠も二年前に死んだ。松平氏による三河支配は既に崩壊し、今川氏に代わられているが、しかし松平の血筋を押さえれば今川氏は三河支配の正当性を得ることになる。

 戦国時代というのは弱肉強食の時代であったが、だからといってこうした形式が軽んじられたわけではない。今川義元の胸中にあるのは、竹千代を今川氏の一族に取り込み、三河支配の要とすると共に、また能力次第では今川家の重臣としてさえも用いようという意だ。当然、下へ置くようなことはない扱いとなる。鴨沓の一つくらいは安いものである。

 正式の蹴鞠を初心の者がいきなり行うのは無理であるから、まずは簡単に鞠を蹴る練習をさせる。鞠高まりだか数鞠かずまり、と呼ばれる稽古法である。竹千代は、鞠を身の丈を超える高さに、とりあえずはまっすぐ上に蹴り上げてみよと言われた。挑戦する。だが、当然ながらそうそううまくは行かない。

 見当違いの方向に飛んで行った鞠を、しかし両側に控えた龍王丸と義元はそれぞれじょうずに中空で拾って蹴り上げ、竹千代の方に返した。

「申し訳ございませぬ」

 恐縮する竹千代であるが、こうしたことは蹴鞠の道においては当然のことである。上手の人間が、下手の人間をうまく補う。そうしてこそ蹴鞠は美しい、とされていた。決して、上手の人間が下手の人間の上に立つのが蹴鞠の道ではないのである。

「では、少しだけ四人で蹴ってみましょうか」

 さっき龍王丸と蹴鞠をしていた家臣のひとりが加わり、簡単な蹴鞠が試み程度に行われた。竹千代の両側に、龍王丸と義元が立ち、四人で順繰りに鞠を蹴っていく。竹千代が拾い損ねる鞠は、龍王丸か義元が補ってこれを拾った。

 終えて、竹千代は龍王丸に問う。

「これが蹴鞠の道というものですか」

「左様。蹴鞠は、まあるい鞠を、まあるく蹴るものです。その輪は、人の和にも通ずる。今川家の和は、松平家との和でもある。少なくともわたくしは、そのつもりでおります。それをゆめ、お忘れめされるな」

「は」

 竹千代は分かったような分からないような顔をしていた。

 しかし確かなことには、その後竹千代はあまり蹴鞠を好むようにはならなかった。誘われれば断るということまではないが、その道を追求しようとしたりはしないし、上達を望んでいる様子もなかった。それよりも、彼は身の調練や武芸の稽古や、更には兵法の講義を好んだ。もちろん、それはそれで歓迎するべきことではあった。竹千代は筋が良かった。良き武者に育ちそうな塩梅であった。

「竹千代どのはわたくしより良い武将になろうな。我が片腕たるは、汝を置いて他にはあるまい」

「はい、龍王丸さま」

 そして数年の歳月が流れる。

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