紫の百合 〜乙女ゲームの世界に転生して、前世で好きだった人と再び出会いました〜
冬野月子
第一章 赤い記憶
01
「あら…何かしら」
馬車の外から常とは違うざわめきを感じ、気品ある佇まいの婦人が呟いた。
「———火事のようでございますね」
向かいに座る中年女性がカーテンの隙間から外の様子を伺い、答える。
「火事…?」
婦人の隣で、彼女によく似た面差しの少女が顔を上げた。
プラチナブロンドの髪を揺らし、大きな翡翠色の瞳が怯えたように震える。
「大丈夫でございますよ、リリーお嬢様。ここからは離れておりますし、進行方向も違いますから」
「火事?見たい!」
少女と同じ年頃の少年が立ち上がると、思い切りカーテンを開いた。
神殿らしき高い塔が燃えていた。
慌てふためくような人々の声が響き、馬車の中にまで漂い込んできた、かすかに焦げる臭いを感じた瞬間。
頭の奥に響くような重い衝撃を感じ、リリーの目の前が暗く歪み———次の瞬間、真っ赤に染まった。
「リリー?」
少女の異変を感じ母親がその顔を覗き込む。
「……あ…」
声にならない息をもらした紅く小さな唇が震え、これ以上ないほど大きく見開かれた瞳は窓の外を凝視していた。
「リリー、どうしたの?」
「お嬢様!」
「リリー!」
外の喧騒も、周りの自分を呼ぶ声も急速に遠のいていく。
「リリー!!」
吸い込まれるように少女の意識は闇へと落ちていった。
「……リ…」
自分を呼ぶ声が聞こえる。
「……り……ゆり…」
苦しげで、切なげな。
「小百合…」
重い瞼を引き上げると目の前には自分を見つめる黒い瞳。
「ごめん…」
吐き出すように漏れる言葉。
整った顔のあちこちが煤で汚れている。
どうして謝るの?
こんな事をしたから?
止められなかったから?
でも…こうなったのはきっと、彼のせいだけではない。
「…いいよ」
弱々しく返した言葉に目の前の瞳が驚いたように見開かれる。
謝らなければならないのは自分もだから。
彼が抱く感情を知りながらも無視し、拒否し続けて。
取り返しがつかなくなるくらい、彼を追い詰めてしまったのだから。
「わたしも……」
本当に伝えたかった言葉は、けれどもう声にならなかった。
「———小百合…」
抱きすくめられる肩越しに見えるのは、真っ赤に染まった世界。
もはや熱さも感じられないほどに身体の感覚がない。
もう、逃げ場所も逃げる必要もない。
独りで死ななくて良かった。
最後に胸に宿ったのはそんな感情だった。
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