81 抗う心
振りかざされた爪の斬撃。
ダールは死を覚悟した。亡くなった父が瞳の裏に浮かぶほど死を覚悟したのである。
しかしウサギ泥棒が振りかざした爪の斬撃はダールには届いていなかった。
瞳を閉じてしまったダールにはなぜ爪の斬撃が来ないのかはわからなかった。だからこそ確認のために瞳を開けた。
「……え」
ダールの黄色の瞳に映ったのは全身黒色ジャージの黒髪の青年マサキだ。マサキがダールの目の前にいる。
つまりマサキは身を挺して爪の斬撃からダールを守ったのである。
「兄さんッ!」
ダールは守られたことを理解した瞬間に守ってくれたマサキの名を叫んだ。
マサキの黒瞳はダールの黄色の瞳と交差している。つまりマサキは背中で爪の斬撃を受け止めたことになる。
ネージュと繋いでいたはずの左手はフリーだ。ネージュを巻き添えにしないために手を離したのであろう。
それならばネージュはどこに。そんなことを思考しているとダールのオレンジ色の小さなウサ耳にネージュの鈴の音色のような声が届く。
「ダール! こっちです!」
ネージュはダールの真横にいた。そしてダールの腕を引っ張っている。
「姉さん! で、でも兄さんが、兄さんが!」
ダールの黄色の瞳は涙で潤んでいた。死の恐怖に耐えられずに泣いたのではない。目の前にいるマサキが自分を庇い死んでしまかもしれないから涙が溢れているのだ。
「私も驚きましたがマサキさんは大丈夫ですよ」
ネージュの言葉はダールを励ますための気休めの言葉ではなかった。なぜならダールの黄色の瞳に映るマサキは血など一つも流してはいなかったからだ。
「あ、危ねー。し、死ぬかと思った。なんでか知らないけど生きてる!」
そんなことを言いながらマサキは振り返りウサギ泥棒の方を向いた。ウサギ泥棒と視線が合うはずだがフードで顔を隠しているせいで顔が見えない。
マサキはウサギ泥棒の顔を確認することをすぐに中止。そしてウサギ泥棒が右手でウサ耳を乱暴に掴んでいるウサギに飛びかかった。
「うりゃー!」
ウサギに飛びかかった勢いでマサキは地面を転がるがすぐに立ち上がった。このまま転がり続けて逃げればいいもののすぐに立ち上がったのだ。
そしてマサキが飛びかかったおかげでウサギをウサギ泥棒から救出することに成功した。
「あとは袋の中にいるウサギだな。さてどうするか……」
「ンッンッ!」
マサキのに抱き抱えられているウサギが鳴いている。その声に吸い込まれたかのようにマサキは左腕の中にいるウサギをチラッと見た。
「やっぱり俺のウサギちゃんだ! そうだと思ったんだよ!」
「ンッンッ! ンッンッ!」
見分けがつかなかったイングリッシュロップイヤーだがマサキに懐いているウサギだと見ただけでマサキは分かったのである。
絶対にあのウサギだと確信できる根拠は提示できない。ただ絶対にあのウサギだと言えるほどの自信はあるのだ。
そしてこの時だけ無表情だったウサギが喜んでいる表情にも見えた。それはウサギの顔に慣れて表情を読み取れるようになったからかもしれない。もしくはただの偶然か。その場の雰囲気がマサキにそう見せているのか。
どちらにせよマサキの黒瞳にはウサギが喜んでいるように見えたのである。
マサキがウサギを助けたことによってネージュも動き出す。
足がすくんでしまっているダールを無理やり引っ張りウサギ泥棒から距離を取った。
距離を取ったと言っても離れたわけではない。ウサギ泥棒の背後に回ったのだ。
「ダール。まだお腹は空いてませんか? 大丈夫ですか?」
「姉さん。だ、大丈夫ッス!」
「よかったです。ここで倒れられてしまったら大変でしたからね」
ダールは俊足スキルの効果を発動すると空腹状態になってしまう。空腹状態になったダールは倒れてしまいその場から動けなくなってしまうのだ。
そのことを心配するネージュだったがダールはまだ動けることを知りホッとしていた。
しかしまだ安心するのは早い。目の前には武闘派のウサギ泥棒がいるのだから。
「私たちで袋の中にいるウサギさんたちを助けましょう! 力を貸してください」
「姉さん! 了解ッス!」
ネージュの青く澄んだ瞳は真っ直ぐにウサギ泥棒を見ていた。ウサギ泥棒を許せないと言った眼差しだろう。
そんなネージュの眼差しを見たダールも目つきを変えた。
「……ところで姉さんは兄さんと手を繋いでなくても大丈夫なんッスか?」
ウサギを助ける心配よりも先にマサキとネージュが手を離してしまっていることに対して心配をするダール。これは当然の心配だ。
なぜならマサキとネージュは外出中に手を離して一定距離離れてしまうと死んでしまうのではないかと思うほどの精神ダメージを受けてしまうからだ。
それはダールが腹ぺこで倒れて行動不能になるよりも厄介なこと。なのでダールは真っ先にその心配をしたのである。
「大丈夫ですよ。二メートル以内なら!」
それは
マサキとネージュの距離を見てみると二メートルを意識しているのだろう。お互いの距離が近いことがわかる。
だからマサキは転がり続けずにすぐに立ち上がったのだ。だからネージュはその場から逃げずにウサギ泥棒の背後に回り込んだのだ。
「手を離して死ぬかと思うくらいの辛い思いをしましたが、ダールが死んでしまったらもっと辛いです」
ネージュは鈴の音色のように優しい声でダールに言った。
手を離したことによって死ぬほど辛い思いを体験したマサキとネージュだが、家族のような存在のダールが死んでしまった方がもっと辛く悲しい思いをするということを二人は知っているのだ。
人間不信のマサキと恥ずかしがり屋のネージュはいつも一人。そして独りを好んだ。しかし二人は変わった。二人は出会って家族のような存在になって変わったのだ。
では家族のような存在が増えてしまった二人はどう変わったのだろうか。
それは自分よりも先に相手のことを考えて相手を守ろうとする感情が芽生えたのである。だからこそ優先順位は自分よりも家族のような大切な存在。そんな存在を一番に考えてしまうのである。
だからマサキとネージュは手を離すことができた。だからマサキはダールを庇った。ただそれだけのこと。大切に思う相手がいる人なら当然のことだ。
「クソがァ! 聞いてねーぞォ。なんでここに人間族がいるんだァ?」
マサキを前にして爪の斬撃を止めてしまったウサギ泥棒は人間族のマサキを睨みつけていた。
睨みつけるほどの怒りをぶつけているのならば爪の斬撃をマサキに当ててしまえばよかったものの勝手に体が止まっていたのである。
まるで人間族に襲うことができないかのように。
(なんでウサギを盗もうとしてんだ。それに黒服とマクーターに見覚えあると思っけどコイツ盗賊団か? だからウサギを盗もうとしてるのか……だとしたらあの盗賊団たちと同じ人間族? だから俺を攻撃できなかった? いや、うちの店に来た盗賊団は俺に風の魔法を……違う……俺にじゃない……ネージュにだ。もしかして人間族って同じ人間族には攻撃ができないのか? よくわかんないけど……慎重に行動しないと今度こそ死ぬぞ俺……)
マサキは冷静にこの場の状況を思考する。そして思考の末にたどり着いた結果は対話だ。言葉が通じる相手ならまずは言葉から交わそうと考えたのである。
人間不信のマサキでは到底たどり着けないような思考の結果。皮肉にもマサキ自身がその結果にたどり着いてしまったのである。
「お、お前は……何者だ? 人間族の盗賊団か?」
「おいおいおいおい。教えるわけねーだろォ! 本当に人間族は話が好きだなァ!」
対話は失敗。ウサギ泥棒はマサキから目を逸らしマクーターを器用に操縦してネージュとダールがいる方へと振り向いた。
「次は逃さねーぞォ!
フードからチラリと見える牙。その牙を光らせるウサギ泥棒。
ネージュとダールは一瞬だけ見えた牙に驚いてしまい足がすくんでしまった。思うように体が動かなくなる。
その姿は肉食動物に食べられるのを待つ草食動物のウサギそのもの。
そんな今すぐにでも襲いかかりそうな肉食動物は獲物を捕らえるのを再び邪魔される。
「な、なんだァ!?」
ウサギ泥棒の動きを止めたのはマサキの腕の中にいたウサギだ。
マサキの腕から飛び跳ねてウサギ泥棒のフードにしがみついたのである。
ウサギが飛び跳ねる姿にマサキは目を疑った。
なぜなら大きなウサ耳を器用に使い
「ウサギちゃんが飛んだ!」
ウサギちゃんの勇姿を見たマサキの驚きの声だ。
そのままマサキはウサギちゃんのあとに続くようにウサギ泥棒の方へと向かっていく。
「うおぉぉぉッ!」
マサキはマクーターの上に置かれているイングリッシュロップイヤーたちが入っている大きな袋を奪い取るために飛び込んだ。
ウサギちゃんがウサギ男のフードにしがみついているおかげでイングリッシュロップイヤーたちが入った大きな袋を奪い取ることに成功。
マサキはネージュとダールの目の前まで転がった。
「マサキさん! やりましたね!」
「なんとか奪い返せた!」
マサキとネージュはそのままウサギたちを袋の外へ出してあげた。
「ンッンッ!」
「ンッンッ!」
「ンッンッ!」
急いで逃げるウサギたち。自分の大きなウサ耳に引っかかり転びながらも必死に逃げている。
「クソガァ!」
ウサギ泥棒が怒号を飛ばした。
その怒号の直後、ウサギ泥棒はダメージを受けた。
「ガハァッ!」
ダールが俊足スキルを使いウサギ泥棒の腹に強烈な一撃を喰らわせたからだ。今度は腕で防がれていない。モロにヒットしている。これもフードにしがみついてウサギ泥棒の視界を奪ってくれているウサギちゃんのおかげだ。
痺れを切らしたのかウサギ泥棒はウサギちゃんに向かって爪を向けた。
「ウサギちゃん!」
一部始終を見ていたマサキが叫んだ。その声を聞いたウサギは爪の斬撃を回避。飛びながらマサキの腕の中へと戻っていった。
「ンッンッ!」
「よかった……」
安心するのはまだ早い。強烈な一撃を喰らわせるために俊足スキルを使ったダールが倒れている。
「ダール!」
一撃で倒せると過信していたのだろう。ダールは全ての力を使い果たし腹ぺこ状態になり倒れてしまった。
「クソがァ! そのウサギは後で殺してやるからなァ! その前にこの兎人族から殺す!」
絶体絶命。今度こそダールが殺されてしまう。そんな恐怖マサキたちにひしひしと伝わってくる。
「に……ぃ……さん……」
ダールの弱々しい声がマサキたちの耳に届いた。
どうすることもできない。もう間に合わない。今度こそダールが死んでしまう。
「死ねェェ!」
ウサギ泥棒は狂気に満ち溢れた声で叫んだ。
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