80 ウサギ泥棒

 ウサギ泥棒だと判明した瞬間、ダールは慌てふためいていた。


「兄さん! ウサギ泥棒ッスよ! やばいッスよ! ど、どうするんッスか!」

「ガガガッガガガガッガガガガッガガガガッガガガガッガ……」


 マサキは震えてしまいダールの問いに何も答えることができなかった。


(ウ、ウサギ泥棒って……ど、どうしたら……どうしたらいいんだ。こ、このままウサギが盗まれるのを何もせずに見るのか……そ、そんなことはダメだ……絶対にダメだ……ダメだ……ダメだ……ってわかってる……で、でも体が動いてくれない……こんなに震えてるのに……全然動いてくれない……)


 マサキはウサギを助けるべきだと頭の中では理解している。しかし体が動かない。


 無人販売所イースターパーティーに盗賊団がやってきた時、マサキはその盗賊団を許さなかった。悪人を決して許してはいけないと心が叫んでいたからだ。

 そしてネージュが一生懸命に作った無人販売所の商品を盗んだことに対して腹が立っていた。はらわたが煮えくり返る ほどに。だから盗賊団を許せずに体の震えが止まり体を動かすことができた。

 勝手に動いたと言っていいほど心が、魂が、体が、前へ前へと進んでいったのだ。


 しかし今のマサキはどうだ?

 恐怖に心が蝕まれてしまい、体が怯えて小刻みに震えてしまっている。恐怖で動くことができていないのだ。


(目の前のウサギ泥棒だって……うちに来た盗賊団と何も変わらねぇじゃねーか。なのになんで……体が……動いてくれない……勇気が……出ない……怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い……)


 マサキの心と体はどんどんと恐怖に蝕まれていく。


(俺が……何かしたって……何も変わらない……変えることができない……ウサギ泥棒をどうにかするなんて……無理だ……ウサギたちを救えない……俺じゃ無理だ……)


 負の感情。負の連鎖。考えれば考えるほどネガティブ思考が回る。考えないようにしても、考えてしまう。もうネガティブ思考を止めることができないのだ。


 恐怖の種に負の栄養を与えてしまっているのである。このままでは恐怖の種が芽を生やしぐんぐんと育ってしまう。あとは花や果実を咲かせるだけだ。

 負の感情には恐怖の種を瞬時に毒の花や毒の果実を咲かせてしまうほどの栄養がある。

 毒の花、毒の果実が咲いてしまえば最後、永遠とマサキの心に残って咲き続けてしまう。


 マサキが居酒屋で働いていた時代に咲いた毒の花は枯れることはない。今でも心を埋め尽くすほどの毒の花畑が咲いている。

 そよ風ひとつで毒の花粉は舞う。花粉が舞っている間、マサキは恐怖に怯えて震える事しかできない。


(ダ、ダメだ……俺じゃ何もできない……見て見ぬ振りするしかない……怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い……)


 マサキは目の前のウサギ泥棒に声をかける勇気すらも出てこなかった。


「ガガッガガガガガッガガガガガッガガガガガッガガガガガッガガガガガッガガガ……」

「ガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタ……」


 マサキの恐怖を繋いだ手から伝染するネージュ。恐怖の原因が判明した途端、さらに震え出してしまった。

 そんな小刻みに震えるネージュは恐怖に立ち向かおうとしていた。しかし一人では立ち向かえない。だからこそ左手に力を込めたのである。


(マサキさん……マサキさん……ウサギさんが……ウサギさんが……)


 マサキと手を繋ぐ左手に力を込めることによってマサキと二人で恐怖に打ち勝てると思ったからだ。


 ネージュがマサキの手を強く握ったタイミングでダールが叫んだ。


「兄さん!」


「……ぁ……」


 切羽詰まった様子のダールの表情を見たマサキ。ダールの黄色い双眸が涙で濡れている。

 その瞬間、マサキは一瞬だけ冷静さを取り戻した。ネージュの強く握る左手、ダールの声と瞳がマサキの心を動かし一瞬だけ冷静にさせたのだ。

 冷静になった刹那の時間。マサキの聴覚がウサギたちの鳴き声をイヤホンで聴くかのようにはっきりと耳に届いていた。


「ンッンッンッンッ!」

「ンッンッンー!」

「ングーンッギュー」


 それはウサギたちの悲鳴だ。その悲鳴を聞いたマサキは俯いていた視線を悲鳴が聞こえたウサギの方へと向けた。


「……ぇ……」


 そこにはウサギたちがウサギ泥棒から逃げている姿があった。

 マサキが恐怖に打ちのめされていた間にウサギ泥棒が行動を始めていたのである。


 ウサギ泥棒はマクーターで空中移動しながらウサギを追いかけている。そしてウサギのウサ耳を乱暴に掴み、大きな袋へとどんどんと詰めているのだ。

 追いかけ回されているウサギは全てイングリッシュロップイヤーだ。大きなウサ耳が特徴のウサギ。その大きなウサ耳を乱暴に掴まれている姿はとても酷く、とても残酷なもの。


「大量! 大量! 大量だァ!」

「ンギューンッ」


 草食動物のウサギは肉食動物から身を守るために逃げ足が速い。その証拠にほとんどのウサギたちは瞬時に逃げて隠れている。

 しかし逃げ回るウサギたちはイングリッシュロップイヤーだ。自分の大きなウサ耳が走るのを邪魔してしまっている。その大きなウサ耳のせいで足が引っかかってしまい転んでしまっているウサギもいた。

 ウサギ泥棒もそのことを知っていてイングリッシュロップイヤーを狙っているのかもしれない。走るのが遅く大きなウサ耳が掴みやすいイングリッシュロップイヤーを。


「掴みやすくて助かるぜェ!」

「ンッンッンッ!」


 ウサギが大きなウサ耳を掴まれて悲鳴を上げている。

 そのウサギはマサキのことを見ていた。まるで助けを求めているかのように。

 そのウサギと目が合ったマサキは一瞬だけ左腕にいたウサギと姿が重なって見えた。

 その瞬間、マサキは叫んだ。


「や、やめろー!」


 叫んだ瞬間、マサキの震えはピタリと止まった。マサキの心の中にある恐怖の花畑が燃えたのだ。怒りの感情が心を蝕む恐怖を燃やしたである。


「マサキさん! ウサギさんが!」


 不思議とネージュの震えも止まっていた。

 マサキとネージュは目の前でウサギが酷い目に遭っているのを見逃せなかったのである。


「俺のウサギちゃんが! 絶対に許せない! あのウサギ泥棒を止めるぞ! アイツだけは絶対に許しちゃいけない!」


「はい! 今すぐ止めましょう!」


 マサキとネージュが同時に一歩踏みしめた。その瞬間、オレンジ色の残像が二人の視界に映った。そして残り香が鼻をsそよ風とともに消えていった。

 マサキの気持ちを受けたダールが俊足スキルを発動させて先に走り出したのである。


 ダールの足の速さは世界一足の速いチーターをも凌ぐほどの速さ。その速さ時速にしておよそ百キロメートル。


 ダールは瞬間移動したかのように一瞬でウサギ泥棒の前へと移動した。


「くらえッス!」


 その勢いのままウサギ泥棒へ強烈な蹴りをくらわせる。


「マ、マジッスか……」


 ダールの強烈な蹴りはウサギ泥棒の片腕に防がれてしまった。マクーターは揺れたものの衝撃をうまく吸収されて大した一撃にはならなかった。


「おいおい。さっきは客なんていなかっただろがァ。めんどくせーなァ」


 ウサギ泥棒は黒い服に身を包んでいてフードで顔を隠している。表情は見えないもののその禍々しいオーラと口調からダールは死の恐怖を感じ取った。


(アタシの蹴りをこうも簡単に……やばい……やばいッス……こ、殺される……)


兎人族とじんぞくのその顔をオレは見たかったんだよォ!」


 ウサギ泥棒はダールの怯える顔をご馳走のように見ていた。そのままご馳走を頂こうと腕を振り上げた。

 振り上げた腕から鋭く輝くナイフのようなものが見える。そのナイフは五本。


(ツ、ツメ……)


 死の恐怖を感じながらダールの黄色い瞳はナイフの正体を見破っていた。それは爪だ。

 ウサギ泥棒は鋭い爪を伸ばしダールを切り裂こうとしているのだ。


「死ねェ!!」


 それはウサギ泥棒からの死の宣告。避けることのできない運命。確約された未来の言葉だった。


 振られた爪はダール目掛けて飛んでいく。


(に、逃げられない……し、死んだ……ごめん……パパ……)


 ダールは黄色の瞳を閉じた。

 ダールの瞳の裏には三年前に魔獣に殺されて亡くなってしまった父親の顔が浮かんだ。

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