7 風呂場の覗き穴
皿洗いを終え、再びネージュの家に戻るマサキとネージュ。
今日の残りのやる事といえば風呂と睡眠だろう。そこに明日の不動産へ行くための作戦や準備なども加わるかもしれない。
しかしまずは風呂だ。一日の疲れを洗い流し明日に備えるためにも風呂に入らなくてはならない。
「ではお風呂にしましょうか」
「だな。ってお湯はもちろん出るよな? 冷たい水だったら俺無理だぞ。それにもしかしてだが時間制限とかあったりする? そもそもその風呂場って使えるの?」
マサキは風呂に対して一抹の不安を感じている。
夕食はニンジン一本分のニンジングラッセ。洗い物はシンクではなく外の井戸。そしてすっからかんな部屋に最低限の荷物。
ネージュが貧乏兎だということは事理明白。だからこそマサキは風呂に対しても不安を抱いているのである。
「失礼ですね。そこまで貧乏ではありませんよ。お風呂はちゃんと使えます。それにお湯も出ますし時間制限は……五分。いや、やっぱり、一分もありますよ」
「なぜさらに短くした!? 一分だけって何も洗えない……でもまあ、仕方ないか。だったら俺は
マサキは歯を光らせサムズアップしてみせた。短くなった時間設定をさらに短くしたのはマサキなりの感謝の意なのだろう。
そんなマサキの姿に微笑むネージュ。
「ふふふっ。優しいんですね。それでは私が先に入ってもいいですかね?」
「もちろんネージュが先だろ。そんじゃ、俺はそこら辺で寝転がりながら待ってるわ」
マサキはネージュの部屋で唯一、敷かれている絨毯を指差し、その場に寝転がり始めた。漫画やスマホなどない。ただ本当に転がりボーッとするだけ。
ネージュはそのまま風呂場の扉を開け、中に入っていく。扉の先には脱衣所のようなスペースがある。そこで服を脱ぐのだ。
脱衣所からはガタゴトと服を脱いでいるあろう音が寝転がっているマサキの耳に届く。それほど扉は薄い。そして建て付けも悪い。
「ネージュのおかげで飯も食えたし寝床もある。なんとか生きていけそうだけど、それも時間の問題だよな。一刻も早く無人販売所を経営してスローライフを送りたい……」
寝転がっているマサキは大樹の内側の茶色い天井を見ながら呟いた。
そしてマサキの視線はネージュが入って行った風呂場の扉の方へ向いていく。
「五十秒しかないけど風呂も入れる」
風呂場の建て付けの悪い扉をじーっと見ていたマサキは扉のすぐ横にある壁の違和感に気が付いた。
「あれ? なんか、穴開いてね?」
壁にある違和感。それは小さな穴が開いていることだ。その穴に気付いた直後、もっと別の根本的な問題に気付く。
「ちょっと待て。なんで俺はこんなに平常心を保ってるんだ。そしてなんでこんなとんでもねーことに気が付かなかったんだ。あの扉の先に獣耳嫌ウサ耳の美少女がは、は、は、は、裸でふ、ふ、ふ、ふ、風呂に入ってるんだよな。あ、あの穴の先は、楽園……いや、天国……」
ウサ耳の美少女ネージュの裸姿を想像して興奮するマサキ。今まで何事もなかったのが不思議なくらいだ。
寝転がっているマサキは四つん這いになり素早く進み風呂場の扉へと向かって行った。
「ネージュは家族かって思うくらいに安心する相手だ。だから脳が麻痺って男としての正常な反応ができてなかった」
マサキにとってネージュは命の恩人でもあり気が合う家族のような存在だ。
だからこそ男としての正常な反応ができていなかった。
「ネージュって可愛くねーか? 最初に出会った時も可愛いなって思ってたけどさ、可愛すぎるだろ。今までの俺の人生の中でダントツに可愛いんじゃねーか? 美少女。いや、ウサ耳天使。冷静に考えたら
白銀色の滑らかな髪と垂れたウサ耳。そして雪のように白い肌と細長くスラッとした手足。ネージュはマサキの人生史上ダントツの絶大の美少女だ。
マサキは今頃になってネージュの可愛さに気付き感情のコントロールができなくなってしまった。
「種族は違えど男と女。それが一つ屋根の下。しかも今は裸で風呂に入ってる。男として覗くしかない。それが本能。逆に覗かないのほうが失礼だろ。まさか男の夢を叶えるための穴がここにあったなんてな……」
マサキは壁に開いている穴からネージュの風呂を覗くために顔を近付ける。
ゆっくり、ゆっくりと気付かれないように近付く。もはやシャワーを浴びている音が耳に入ってこず己の心臓の鼓動しか聞こえないほど緊迫した状況だ。
「心臓がバクバクとうるせぇ。落ち着け。落ち着くんだ。さっきまでの平常心を思い出せ」
その瞬間、扉の方からマサキの方へ向かって勢いよく近付いてきた。
「え?」
反射的に扉の方を見てしまったせいでマサキは顔面、特に鼻を思いっきり扉にぶつけてしまう。
「マサキさん。なにぶつぶつ言ってるんですか? って大丈夫ですか? は、鼻血出てますよ!」
「あははは、だ、大丈夫、大丈夫。一分って早ぇえ。心臓の音しか聞こえなかったのはもう風呂が終わったってことだったのか……」
扉を開けたのは風呂上りのネージュだった。濡れた白銀の髪にタオルを巻いている。そして可愛らしいニンジン柄の寝間着に着替えていた。
「ふんふんふーん」
鼻歌を歌うネージュ。どうやらマサキが覗き穴から風呂を覗こうとしたことに気付いていないようだ。
マサキが心臓の鼓動しか聞こえていなかった原因は、ネージュがすでに風呂を上がっていたからだった。時間制限の一分は、マサキが風呂を覗く隙も与えないほど短いのだ。
そして扉に鼻がぶつかってしまった衝撃で鼻血が出てしまった。もしかしたら扉にぶつかる前から興奮して鼻血を出していた説もマサキの頭の中で浮上していた。が、その説はすぐさま揉み消した。
「中にタオルと服を用意しておきましたよ。私と同じ服ですが使ってください」
「え、まじで? ありがとう。そういや着替えとかなかったから助かるわ。さすがに汚れたしな」
鼻を抑えながら己の黒いジャージを見るマサキ。異世界転移した際になぜか森で倒れていたのでマサキのジャージはかなり汚れていた。
「それでは
「お、おう。って時間短くなってね? 異議申し立てたいが仕方ない……我慢するわ」
五十秒からさらに短くなってしまったが覗こうとした戒めだとマサキは受け入れた。
そして気付いていなかったとしても覗こうとした変質者にこんなに丁寧にしてくれている心優しい兎人族の美少女にマサキの胸が締め付けられたのだった。
「ちなみに四十秒はその扉を開けてから出るまでの時間ですからね」
「えぇええ!?」
あざと可愛くウインクをするネージュ。
確かにネージュは風呂場に入ってから出るまでの時間が異常に速かった。ゆっくりしても良いはずの着替えまでもが速かったのだ。
しかしマサキは居候の身。そしてネージュは謂わば住まわせてくれている主人のような存在。風呂のルールがあるのならマサキはそのルールに従わなければならないのだ。たとえルールがバグっていたとしてもだ。
「電気代が理由だろうけどな。了解。扉を開けてから四十秒だな」
扉を開けてから出るまでの時間制限の理由は電気代だ。貧乏兎のネージュはガス代と水道代の他に電気代も節約するつもりなのである。
その証拠にネージュが風呂場を出た瞬間、風呂場の電気が消えていたのだ。
「それなら俺は電気をつけずに入ってやる!」
そう意気込んでマサキは風呂場に入った。
マサキは元の世界で風呂の時間をどれだけ節約できるのかを試したことがあった。
十五分から二十分程度の風呂の時間を五分にまで縮めたことがある。マサキの限界は五分だ。
マサキはその時のことを思い出しながら風呂場に入ったのだ。
真っ暗な脱衣所。用意された服やタオルの場所は部屋の明かりで
「これくらいの明かりでなら大丈夫だ! できる!」
そんな威勢を張りながら服を脱ぐ。ここまでの時間わずか四秒。
そして浴室に入る。浴室は脱衣所よりも真っ暗だが、扉の穴から部屋の明かりが入り込み必要最低限の明かりを確保できた。皮肉にもその穴はマサキがネージュの風呂を覗こうとしていた穴だ。
「そんな下心満載で覗こうとした穴が照らしてくれているだなんて。うぅ……なんか……申し訳ない気持ちでいっぱいだ……慰められてるみたい……」
そんな冗談を交えながらマサキはシャワーのコックをひねり温水を出した。その温水を浴びながら足元に置いてある石鹸を手に取る。
その石鹸はすぐに手に馴染んだ。なぜなら皿洗いの時に使っていた石鹸と全く同じサイズだったからだ。そしてすぐにその石鹸の正体に気付く。
「大きさが同じなんじゃなくて同じ石鹸だぞこれ」
泡立ち方や匂い。そして手に馴染んだ感覚。皿洗いの時に使っていた石鹸で間違いない。
この石鹸が皿洗い用石鹸なのか。それとも体を洗う用の石鹸なのか。はたまた両方いける石鹸なのか。時間制限があるマサキはそんなことを考えている余裕はなかった。
ここまでで合計十二秒経過だ。
マサキは手のひらで石鹸を泡立てようとするが少ししか泡立たない。
そのまま泡立たない石鹸で直接髪を洗った。髪と石鹸が馴染み先ほどよりは泡立ち始める。そしてその泡を使い頭から足元へ向かって一気に石鹸を伸ばしていく。
頭を洗う際に石鹸が泡立ったけれどゆっくり体を洗っている時間はないのだ。石鹸を薄く伸ばしたのと同時に軽く擦る。そして大事なところだけはしっかりと洗う。
「うぉおおおおおおお」
叫ぶ。
「るぁあああああああ」
叫ぶ。
「おりゃぁあああああ」
叫び続ける。
そうすることでより一層素早く体を洗うことができるのだ。
そのままの勢いで体についた泡を全部流す。目に入った石鹸がしみるがそんなことを気にしている余裕もない。
残り時間はわずか十五秒。
体の泡が全て洗い流されたことを確認し浴室から飛び出し扉を開き脱衣所にあるタオルを掴む。このタオルはネージュが用意してくれたタオルだ。
体についた水を急いで拭き取るマサキ。
「まずい。着替えてる暇がねぇ」
そもそもマサキは電気をつけていない。水も使っていないこの状況ならゆっくりと着替えてもいいはずだ。
けれどマサキは妥協しない。四十秒と決めたのならしっかり四十秒で終わらせたいのだ。
「人間不信だからこそ、俺は全力でネージュに信じてもらいたい!」
そんな切なる願いを言いながらマサキは脱衣所からネージュが待つ部屋へ飛び出した。
人間不信だからこそ自分自身は信じてもらいたい。相手を信じることができなくなってしまったからこそ見えたものがあるのだ。
信じてもらうにはどうしたらいいのか。人間不信だからこそわかる。
それは、全力で相手と向き合い自分の気持ちを伝えることだ。だからマサキは全力で応えた。
「はぁ、はぁ、はぁ……ど、どうだ。間に合っただろ。はぁ、はぁ……ふー」
息を荒くしたマサキの右手にはタオル。左手には着替えを持っている。つまり全裸。まだ着替えていないのだ。
しかし約束の制限時間は守った。
「す、すごいですよマサキさん!」
跳び跳ねて喜ぶネージュ。右手にはオレンジ色の何かを持っていた。
「はぁはぁ、な、なにが?」
「三十秒ですよ。三十秒! マサキさん三十秒でお風呂を終わらせたんですよ」
「あー、時間計ってたのね」
ネージュの右手に持っていたのは輪切りされたニンジンの形をしたストップウォッチだった。
マサキのことを信用していないわけではないが、ネージュは面白半分で時間を計っていたのだ。
そして目をキラキラと輝かせながらネージュは口を開いた。
「明日から三十秒でいけますね!」
「無理無理無理無理。絶対無理。見ろ俺の姿を! 着替えが間に合ってねーぞ! 髪も濡れたまんま!」
毎日三十秒風呂は達成したマサキでもさすがに無理だ。
けれど一日置きに風呂に入るとして、入らなかった分の三十秒が次の日に加算されるのならいけるのではないだろうか。などとマサキの頭にはその案が浮かんだ。ズル賢い。
その瞬間、別の案をネージュが提示する。
「あ、でも電気消して入ってくれたので水を使う時間を三十秒にしましょう。だから、その、それを……」
雪のように白い肌が段々と赤らめていくネージュ。そして恥ずかしそうな表情で目を閉じながら指を差す。
ネージュの白くて細長い指が差した先はマサキの股間だ。
「そ、その、
「だ、誰が
マサキは赤らめるネージュとその指差す先を見て気が付いた。時間に囚われすぎて男の大事な部分をタオルで隠せていなかったことに。
羞恥心を誤魔化すため、とっさに軽口を叩きながら大事なものを隠した。
「早く着替えてくださいよー!」
ネージュの叫びが部屋全体に響き渡った。
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