巡る恋に愛を乞い
花散ここ
1.恋はしない
「フィーネさん、俺と付き合ってほしい。ずっと君の事が好きだった。忘れられなかった」
わたしの前で照れたように頭をかくのは、学生時代に同級生だった人だ。
その頬はうっすらと赤く染まっている。王都の見回りに励む
彼は卒業したら騎士団に入りたいと言っていたから、いまは騎士団の下部組織である警邏隊で経験を積んでいるのかもしれない。
「ごめんなさい」
彼の気持ちに応えられず、わたしはそっと頭を下げた。
「そ、っか……。付き合っている人がいる、とか」
「いいえ」
「じゃあお試しでもいいから、俺と……!」
「いまは仕事に励みたいの。恋は……したくない」
その後も彼は何かを口にしていたけれど、わたしはそれを全て断った。
わたし以外誰もいなくなった公園で、思い浮かぶのは血溜まりの中に沈む──ずっと昔に好きだった恋人の姿。
わたしが
だからわたしは恋をしない。
もう、あんな悲劇を
ミシンの音が響く、穏やかな午後。
薄布のレースが涼やかな風に揺れていて、窓の傍で刺繍をするわたしの手元で光と影が遊んでいる。
鋏で糸を切るとパチンと高い音がした。手首に着けたピンクッションに針を刺し、両腕を大きく伸ばしたわたしはゆっくりと深呼吸をした。
「あはは、だいぶ疲れたみたいだねぇ」
「集中していたんだろ、背中が丸まっていたよ」
一緒に働くおばさま方が笑いながら声を掛けてくる。それでもその手が止まる事はないのだから、さすがは熟練のお針子さん達だ。
「背中も肩もがちがちに凝っちゃったわ。姿勢に気をつけなきゃいけないとは、分かっているんだけど……」
わたしも笑みを零しながら、また大きく伸びをした。
壁に掛かった時計に視線を向けるともうすぐ夕方になるところだった。急ぎの案件もないし、今日は予定通りに帰る事が出来そうだ。
ここは服飾メゾン【アムネシア】──お店のシンボルである金色がかった紫色の薔薇は看板にも大きく描かれている。
過去には王女殿下の輿入れドレスを作った事もある、今も王家と付き合いのある老舗メゾンだ。今代はわたしの父が跡を継いでいて、デザイナーである母と共にお店を盛り立てている。このメゾンが王都の流行を作っていると言っても過言ではないと思う……のは娘であるわたしの贔屓目だろうか。
わたし、フィーネ・レングナーはこの服飾メゾン【アムネシア】でお針子として働いている。
レース編みは苦手だけれど刺繍の腕なら中々のものだと自負していて、今は立体的なモチーフを刺繍で作り、装飾品を作る事を担っていた。
今作っているのは白い薔薇だ。
刺繍の終わった布を枠から外し、輪郭にそって切り取っていく。輪郭には極細の針金を縫ってあるから、形を好きに曲げる事が出来るのだ。
これは祖母が得意としていた刺繍で、【アムネシア】の代表的な技法でもある。わたしがこの刺繡を任せて貰えるようになって二年程経つし、自信だってあるけれど……祖母が引退前の最後に作ったアムネシアを超えられる事は出来ていないと思う。
祖母のアムネシアを超えるのが、わたしの夢だ。
「ただいま~」
柔らかな声にそちらへと目を向ける。
学院の制服のまま工房に入ってきたのは、わたしの妹、リーチェ・レングナーだ。
彼女は学院の服飾科に通って普段は寮生活を送っているが、週末には自宅に帰宅する。明日明後日の休息日を家で過ごし、仕事を手伝い、そしてまた寮へと戻っていく。
わたしも通った学院だけど、寮生活も含めてとても楽しいものだった。リーチェにもそうであって欲しいが、妹には友人も多く心配することもなさそうだ。
リーチェは赤みを帯びた金髪を高い場所で二つに結い、白いリボンを飾っている。桃色の瞳が可愛らしい妹なのだけれど……相変わらず目に光がないというか、無気力そうに見える。しかしこれが彼女の普通なので、いつも通りという事だろう。
「お帰り、リーチェ」
「ただいま、お姉ちゃん。あー疲れた~」
わたしの隣に座ったリーチェのリボンが解けそうになっている。手を伸ばしてそれを綺麗な形に直してあげた。このリボンはリーチェのお手製のもので、美しいレースが幾重にも重ねられたものになっている。
彼女はレース編みが非常に得意なのだ。
「課題はあるの?」
「あるけど大丈夫。刺繍だからお姉ちゃんに手伝ってもらえるし」
「わたしは手伝うなんて、まだ一言も言っていないわよ」
作業机に頬杖をつくリーチェは、わたしが先程まで作っていた薔薇を指先でつついている。
「そんな事言っても、お姉ちゃんは手伝ってくれるって知ってるもの」
「出来るところは自分でやりなさい」
にこにこと笑う妹の額をぺちりと軽く叩いてから、わたしは肩を竦めて見せた。
額をさすりながら「はぁい」と笑う妹は、わたしの言葉を聞いているのかいないのか。それでもそんな妹が可愛くて、わたしの唇は弧を描くばかりだ。
さて、もう少しだけ……この白薔薇だけ仕上げてしまおうと思った時だった。
来客を告げるベルが高い音を立てて鳴っている。鳴っているのは裏口だから、きっと業者さんが来たのだろう。
そう思ったわたしは薔薇を机に置き、立ち上がった。後ろをリーチェがついてくる。
工房を出た廊下の先、焦茶色の両開きの扉。それを開けた先にいたのは、大きな箱を抱えた男性だった。
顔馴染の生地問屋の従業員だ。
「こんにちは、ドミニクさん」
「フィーネさん、いつもお世話になっております。ご注文の品をお持ちしましたので確認をお願いします」
扉のすぐ近くにあるカウンターテーブルに、箱を置いてもらう。
箱の中に入っていたのは、麻布や刺繍糸──わたしが注文したものばかりだった。ひとつひとつを確認して、伝票に印をつけていく。
「先日注文して頂いたシルクなんですが、来週には搬入出来る予定です」
「分かりました。では倉庫の方と確認をしておきますね」
ドレスに使う布地は大量に取り寄せるから、搬入される時には人数を使った大掛かりなものになる。事務方に伝えて倉庫と人手を確認してもらった方がいいだろう。
そんな事を考えながら確認を進めていくけれど、問題は全くなかった。ドミニクさんに頼んだ品が間違っていた事なんてないから、安心してお願い出来る。
「……はい、全部間違いなく。ありがとうございます」
確認を終えて、布や糸をまた箱にしまっていく。
わたしの言葉を受けたドミニクさんもほっとしたように、その人の好さそうな顔を更に和らげる。
「ではまたご注文をお待ちしています」
「はい、ご苦労さまでした」
ドミニクさんが扉を開くと、短く整えられたオレンジ色の髪が陽光で更に鮮やかになる。
扉が閉まるまでを見送ってから、わたしは箱を両腕に抱えて踵を返した。
「……恋の予感がするわ」
「ひ、っ……!」
不意に掛けられた声に悲鳴が漏れた。バクバクと騒がしくなる胸を両腕の箱で押さえながら振り向くと、リーチェがすぐ後ろに立っている。工房からついてきていたのは知っていたはずなのに……気配を消していたのか、すっかりと存在を忘れていた。
いつもは光のない瞳が面白そうに輝いているものだから、わたしはリーチェの額を軽く叩いた。
「そんな予感はまったくないわね」
「私知ってるんだ~。お姉ちゃんが警邏隊の人に告白された事」
「何で知ってるの」
「その人の弟と私、同級生だから」
「あー……」
どんな会話でそれを知る事になったのかは、知りたくないなと思った。
「いい人そうだから付き合ってみたら良かったのに」
「嫌よ、お試しなんて」
「やっぱりお姉ちゃんの本命は別にいるの?」
「そういうんじゃなくて」
──わたしは恋をしない。
わたしが口を開く前に、鐘が鳴った。
王都の中央にある教会で鳴る、
「ほら、片付けしちゃいましょ」
「なんだか誤魔化してない?」
「明日なら課題を手伝ってあげるから、今日は少しでも自分でやっておきなさいよ」
「はぁい」
妹の言葉に被せるように声をかけながら、工房へと足を進める。既に片付けを終えたお針子さん達とすれ違って、挨拶をしながら見送った
わたしも机を片付けてしまわないと。今日はこの後予定があるのに遅れてしまう。
手伝ってくれるリーチェに箱を任せながら、作りかけの刺繍をまとめる事にした。
わたしは恋をしない
恋をして、恋に溺れて、恋を叶えたら──不幸になる。
死んでしまうと、知っているから。
だからわたしは、恋をしない。
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