◆4-3

 シャラトの山を下り、南の街道を道なりに進むと、ネージ国の新王都に辿り着く。十数年前の大地震で放棄された旧王宮と地下街を囲むように建てられた新興住宅街、その片隅にある、貴族の屋敷としては随分小さな家が、シアン・ドゥ・シャッス男爵家である。

 家よりも庭が広く、樹木や薬草畑まで設えられている、貴人の住まいと言うよりは魔女の隠れ家のような風体だ。

 しかしこの家に仕えるメイドのナーデルにとっては、気負わず過ごせる大切な職場であり家でもあった。元は名ばかりの貴族位を持つ祓魔の家系のひとつだったが既に家は潰え、苗字も無くした。温情によってシャッス家に拾われてからは、メイドとして家事の腕を磨きながら日々を過ごしている。

 今日も庭の掃除と雑草取りに勤しんでいたナーデルは、丁度訪れた郵便員から手紙の束を貰い、さっそく玄関前の石段に座って宛名を確認する。

「あ、またあの子爵家から手紙来てる。しかも侯爵家との連名? 面倒臭いなぁ」

 ぶつぶつ言いながら手紙を選り分け、片手間に懐から櫛を取り出す。リコリスの紋が入った銀の櫛だ。一介のメイドが持つには高価なものだが、これも仕事道具のひとつとして男爵家から下賜されたもの。嘗ての自分の家の家紋を入れることを許された、お気に入りだ。

 櫛で葡萄酒色の癖毛をすっと梳くと、一本髪が抜け落ちる。柔らかい筈のそれは、ナーデルが指先で抓むとぴんと伸び、針のように硬くなった。その針先で封筒の端をちょん、ちょん、と突いて、じわりと黒い染みが出来るものと出来ないものに分けていく。子爵家からの封筒にも黒い染みが付いていた。

「はい、こっちは駄目。このまま燃やしちゃおうかな」

 悪意の有無を確かめる、呪殺師の術式だ。物騒な名前だが、悪意を持って相手を苦しめる術を持つが故に、他者の悪意を事前に感じ取ることも容易い。鼻歌交じりに黒い染みの付いた封筒を纏めて立ち上がった時。

『処分の前に中身は確認しろ』

「っひょあ!?」

 不意に耳元で抑揚なく囁かれて、びょんと飛び上がった。慌てて耳元を擦ると、ぽろりと膝上まで落ち、しっかりとしがみついてきたのは――銀色の蜘蛛。耳を覆うほどに大きく足も長く、虫嫌いの淑女が見たら悲鳴を上げて気絶するような姿だったが、ナーデルは気にした風も無くひょいとそれを抓み上げた。

「吃驚した! 急に話しかけないで下さいよ、ヤズローさん!」

 そして蜘蛛に向かって話しかけると、虫である筈のそれは一番前の脚を軽く持ち上げ、きちきちと顎を動かして、人間の言葉を発してみせた。都から遠く離れたシャラトで主の娘に仕えている筈の、上司の声で。

『奥方様にステンシル子爵家の件でご確認をして頂きたい。お嬢様のお心を騒がせてしまっている故、至急だ』

「……どういうことです? ちょ、ちょっと待ってて下さい!」

 虫を通して伝わるヤズローの声に、ナーデルは我に返る。普段ならば礼儀を崩さない上司である彼が、使い魔を使っての連絡をし、無礼を承知で奥方様に話があるというのなら緊急の非常事態だ。手早く荷物を纏め、蜘蛛を肩に乗せると駆け足で屋敷の中に戻り、声を上げる。

「奥方様! 奥方様! ヤズローさんからご連絡です!」



 ×××



 日当たりの良い静かな寝室に、かりかりとペンを走らせる音だけが響く。

 大きな寝台の隣に据えられた文机で、沢山の乱雑なメモを新しい羊皮紙へ丁寧に清書していく、美しい銀髪を結い上げた妙齢の女性。背筋を伸ばし、白魚のような手で淀みなく字を書いていく様すら美しい彼女の瞳は、左右どちらも青と金で丁度半分、二色に分かれていた。

『……様! 奥方様!』

 自分を呼ぶ声が階下から聞こえて、手を止める。足首まで覆う伝統的なデザインのスカートの裾を払って椅子から立ち上がると、部屋から出る前に寝台の縁にそっと寄る。

「何かあったようですので、御前を失礼致します。ゆっくりお休みください、旦那様」

 そう言ってほほ笑むと、ベッドの上にずっと横たわっていた男に――げっそりと痩せ細り、まるで遺体のように動かず、しかし微かに息をしている乾いた唇にそっと口付け、慌てることなく部屋から出た。

「どうしたの、ナーデル?」

「奥方様! すみません、お仕事中。こちら、ヤズローさんの使い魔です」

 普段の礼儀を忘れて階段を駆け上がってきたメイドを諌めることなく、彼女が差し出して来た掌の上に銀色の蜘蛛が鎮座しているのを見て、僅かに目を見開いた。

「まあ。解ったわ、有難う。――ヤズロー?」

 そう言って手を差し伸べると、蜘蛛は礼をするように一度体を縮め、足を進めて女主人の掌に落ち着くと、再び顎を動かして語り出した。

『ご無礼致します、奥方様。――本日、お嬢様に対しステンシル子爵令息より、子爵と奥方様の成婚が整ったという世迷言が届けられました。無論、お嬢様はその全てを否定されましたが、現状を確認しご報告するようにと、急ぎご連絡した次第です』

 冷静だが、その声に信じられない程の憤りが籠っているのは女主人にもすぐに解った。それでも貴婦人として僅かに眉を寄せるだけに留めたのに対し、ナーデルはあからさまに驚愕して怒りに震えている。

「んなっ……あの子爵家、なんて失礼な事を! しつこい奴だとは思っていたけど!」

「ナーデル、落ち着いて。……ヤズロー、ラヴィリエに伝えて下さい。確かにステンシル子爵より求婚のお誘いは何度かありましたが、わたくしはシアン・ドゥ・シャッス男爵の妻であると正式にお断りをしています。貴方と娘の心を乱してしまって、申し訳ないわ。必ずや、これ以上の諍いにならないように働きかけましょう。ラヴィリエにも、心配はいらないと伝えて」

『――仰せの通りに。必ずや、お嬢様にお伝え致します。……何か手が必要ならば、すぐにそちらへ馳せ参じますので』

「ええ、いいえ、ヤズロー。手立ては考えているから、心配をしないで。貴方はラヴィリエについていてあげて。あの子が健やかに学院で過ごしてくれれば、それ以上の安心は無いわ。どうかあの子を、守ってあげて」

『仰せの通りに』

 蜘蛛が足を縮めて礼の代わりにしたので、女主人は微笑んで懐から小さな砂糖菓子を取り出して、その欠片を蜘蛛の顎へ差し出した。かりかりかり、と小さな音を立ててあっという間にそれを飲み込んだ蜘蛛は、ふわりと風に溶けるようにその身を細い糸に変えて広がり、廊下の隅から隙間へと消えていった。それを見送って、ナーデルが眉を顰めたまま問う。

「良いんですか、奥方様? 今日もとうの子爵から来てましたよ、お誘いの手紙が。籠ってる悪意は少量ですが、だからこそ性質が悪いです。向こうはほぼ全く、悪いと思って無いってことなんですから」

「ええ、そうね」

 十割とまではいかないが、紛れもなく善意があるのだ。社交界に姿を見せぬ男爵家当主と、それに従う妻。経済的な困窮などを鑑みての――或いはそこに付け込んでの――求婚であることは間違いない。問題は、侯爵家にまで出張って来られたら、突き返すのがほぼ不可能になるということだ。王政が終わり貴族院による合議制が採用されて早十年、公爵・侯爵家等の上位貴族達の権勢は更に強くなっている。貧乏男爵家ではとても太刀打ちできないのだ、多少の無理ならば通されてしまう可能性が高い。

 追い詰められている筈なのに、女主人は笑顔を崩さず、安心させるようにナーデルへ向けて語る。

「確かに、こちらの身分だけでは太刀打ちできないお相手ね。それならば別の方法を取りましょう」

「それは、どういう?」

 意味が解らず首を傾げるナーデルに、女主人は少女のように悪戯っぽく笑って告げる。淑やかさを隠したその表情は、実の娘ととても良く似ていた。

「旦那様の得意技に倣いましょう。知っているでしょう? 自分が出来ない事は、出来る人に全力で助けを求めれば良いのよ」

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