素っ頓狂な娘、久しぶりに怒る
◆4-1
「マルク、その顔どうしたんだ?」
「ああ、うん、別に」
僅かに腫れた頬を見て驚いた同室の級友を軽く流し、マルクは熱を持つ頬を軽く撫でる。見た目ほど痛みは無いし、痕になったりはしないだろう。その辺は弁えている筈だ、彼も。
今日のルイは酷く荒れていた。どうも剣術指南の授業で何かあったらしく、言い訳する間もなく殴られた。こういう時は、ミシェルも止めてくれない。彼を本気で怒らせると自分も危うく怪我をすることを知っているからだ。
子供の頃からの付き合いであり、こういうことも日常茶飯事だ。父親の代から彼らの「子分」である自分は、彼らにとっては気兼ねなく好きにしても良い相手。解っているし、慣れてしまった。父に訴えても堪えてくれとしか言われないので、もう言わなくなった。
凪のような感情のまま、家から届いた手紙を開く。相変わらず父は、自分が上の令息達に粗相をしていないかだけ心配していたが、もう一つその驚くべき知らせを告げてきた。マルクが幼い頃に母を、即ちステンシル家の奥方を失った父が、再婚を考えているというのだ。どうやらその縁談もヴァロワ侯爵家からの推薦らしいが、相手の家名が――
『――うわああああ!!!』
上階から上擦った悲鳴が聞こえ、驚いてマルクは顔を上げた。寮の部屋割りは、子爵以下の子息は2人部屋、伯爵以上は個室となり上階を与えられる。そしてルイ辺境伯子息は、丁度マルク達の部屋のすぐ上だった。
級友と顔を見合わせ、恐る恐る部屋から出る。どうやら悲鳴は寮中に響いたらしく、他の部屋からも生徒が顔を出している。おっかなびっくり上の様子を見に行く生徒もいるようで、マルク達も後に続いた。
「どうしたギレム! 何があった!」
寮長がルイの部屋のドアを鋭く叩いている。鍵は一応付けられているが、マスターキーは寮長に渡されていた。返事はなく、緊急事態だと判断したのだろう、乱暴に鍵を開けると同時。
「ひっ、ぐ、来るなあああ!!!」
大声で叫びながら、ルイが部屋から転がり出て来た。普段の堂々とした姿は見る影もなく、恐怖に顔を引きつらせて。しかしそれ以上に目を引いたのは、彼の自慢のたっぷりとした金髪が、見るも無残に引き千切られたかのようにぐしゃぐしゃに乱され、短くなってしまっていた。一体何があったのかと、野次馬たちが次々と部屋の前に集まり、中を見て――
マルクだけでなく、皆が見た。ルイの部屋の中、寝台の上に、銀色の体毛に覆われた、人を抱えられる程足が太く長い巨大な蜘蛛が、鎮座して――まるで餌をしゃぶるように、金色の髪を顎できちきちと噛みしめている。
「「「「ぎゃあああああああああああ!!!!」」」」
あまりにも悍ましい光景に全員が恐慌し、講師達が駆け付けた時には、いつの間にか蜘蛛はいなくなっていた。
×××
「聞いたか、辺境伯子息の話」
「俺も見たぞ、自慢の金髪がすっかり短くなっていた」
「剣術指南で男爵令嬢の髪を、誤って切った責任を取られたらしいぞ」
「そんな馬鹿な、婦女子が剣術指南に参加するなど――」
無責任な噂に興じる生徒達を尻目に、三人娘とヤズローは悠々と廊下を歩いていく。昨日まで確かに長かったラヴィリエの髪が、肩口で綺麗に切り揃えられているのを、全員があんぐり口を開けて見送っていた。
「ケッケッケ、何があったのかしらないけド、向こうもなんかやらかしたのかイ? いい気味だネ」
「例え腹の立つ相手でも、その不幸を喜ぶのは品が無くてよ。……まあ、溜飲は下がりますが」
「昨日も言ったけれど、私はそこまで気にしていないのよ? こんな機会が無ければ、髪を短くするなんて思い至らなかったんだもの」
「……まあネ、ラビーに似合ってるヨ」
「貴女は当事者なのだからもう少し怒りなさいな、家に抗議を入れても良い案件ですのよ?」
うきうきと歩くラヴィリエは、本当に今の髪型が気に入っているらしく、窓硝子に映る髪を嬉しそうに左右に振っている。そこまで言われると他の2人もこれ以上言及が出来ない。グラナートは溜息を吐き、紫花は肩を竦めて後に続いた。
階段を下りていくと途中の踊場で、先刻とは違う一団がまた噂雀になっている。
「辺境伯令息は、巨大な蜘蛛に頭を齧られる夢を見たらしい」
「いや、実際に蜘蛛がいたらしいぞ、見た奴もいる」
「そんな馬鹿な、流石に下らん噂だろう」
「……あらあら、まぁ?」
正しく暢気な放言としか思えない内容だったが、ラヴィリエはちょっと眉を下げて後ろに控える従者を仰ぎ見た。ヤズローはいつも通りの無表情で何の反応も返さない。
「どうしましたの、ラヴィリエ?」
「うん、ええ、いいえ。なんでもないわ。ヤズロー、後でちょっと話をしましょう」
「仰せの通りに」
蜘蛛型のカフスを付けた全く動じない従者にちょっと肩を竦め、寮へ帰ろうと玄関へ足を進めた時。
「失礼、フルゥスターリ侯爵令嬢」
三人の中で一番身分が高いグラナートに声がかけられた。相手は、以前も彼女に絡んできたミシェルだ。グラナートはきゅっと眉を顰め、素早く扇を広げて口元を覆い、同じく足を止めた紫花とラヴィリエを庇うように前に立った。
「これはヴァロワ侯爵令息、御機嫌よう。何かご用がございまして?」
「不躾で申し訳ない。私の友人が、是非君の友人へと詫びと慰めを捧げたいと言うのでね」
彼の後ろにいるのは、金髪をかなり短く刈り込んでしまった、どこか怯えつつも不満げな表情を隠さないギレム辺境伯令息。そして彼らにいつも追随している、茶の髪で平凡な容姿のマルク・ステンシル子爵令息が揃っていた。
「御心遣いは御立派ですけれど、当のご本人が随分と敵対的ではなくて? わたくしの友人をこれ以上傷つけようとするのなら、断固として抗議致しますわ」
「勿論、そのようなことは私が許さないとも。――ルイ」
ぴしゃりと名を呼ばれ、不満げだった辺境伯令息はそれでも進み出て、ラヴィリエの前に立った。素早くグラナートとヤズローが間を塞ぐように動くが、ラヴィリエ自身がさっと手を翳して止める。にこりと笑って軽く膝を折る礼をすると、相手の言葉を待つ。
「……、先日は、大変失礼した。シアン・ドゥ・シャッス男爵令嬢」
「ええ、謝罪を受け取りますわ。お気になさらず」
「くっ……!」
「止め給え、ルイ。此度、私の友人が淑女に向けて大変な無礼を働いてしまったことは、寄り親の子息である私にも責がある。そのせめてもの償いをさせて頂きたいのだ」
「アンタになんの権限があんのかネ」
「しっ」
勝手に出てきて随分と高慢な言い様にぼそりと紫花が呟くが、グラナートが止める。これ以上揉め事を他人に広げるのはお互い不本意なのは間違いないので、渋々とだが紫花は牙を治め、ラヴィリエはにこりと微笑んだ。
「まあ、ご丁寧に有難いことです。一体どのように?」
その声に応えるように、今まで黙っていたもう一人の生徒が進み出て来た。
「はじめまして。僕の名はマルク・ステンシルです。家は子爵を戴いています」
「こちらこそ。私はラヴィリエ・シアン・ドゥ・シャッスと申します」
「はい、存じております。そしてもうすぐ、貴女の家名は僕と同じになるそうです」
おずおずとだがはっきりと告げられた言葉に、一瞬、時間が停止する。ラヴィリエは金の星が煌めく青い瞳をぱちぱちぱち、と忙しなく瞬かせ、小首を傾げる。ヤズローがほんの少し膝を曲げ、いつでも動ける態勢になったことに誰もまだ気付かない。グラナートと紫花も意味が解らず、沈黙を保つ。
「ごめんあそばせ、どういう意味なのかしら?」
「ええ」
青年は何の気負いも無く、気弱そうだが親しみのこもった笑顔で続けた。
「先日、父が貴女のお母様に求婚を差し上げ、それが叶ったと、連絡を受けまして。僕達は義理の兄妹という形になる、そうです」
決定事項のように告げられたその言葉に、主従は完全に沈黙した。
「……あら、まぁ。それは本当の事なのかしら?」
ラヴィリエは笑顔のままだ。仕草も、口調も、普段と変わりない。それなのに、じわりと冷気が漂っているように錯覚し、グラナートと紫花は押し黙った。自分の髪を切られても平然としていた彼女が、随分と、不機嫌になっているらしい。そしてこの話を「良い話」だと信じて疑っていないのだろうミシェルが笑顔で促してきた。
「勿論ですとも。貴女もお母上も、長年苦労なされたでしょうが、これで――」
「おかしいわね。私、お母様から何も伺っていないの」
「王都は遠いですからね、まだ知らせが届いていないのかと。マルクの父君は商才にも長けた素晴らしい方です、貴女のお母上もきっと幸せになれますとも」
一度言葉を遮られ僅かに不機嫌そうになるも、めげずにミシェルは続けた。この唐突に降ってきた縁談を画策したのは、どうやらヴァロワ侯爵らしい。身分差を鑑みて子爵令息の家が選ばれたということだろう。生意気な低位の娘の家を、傘下に収める形で従わせようというのだろうか。三人の顔を見る限り、ミシェルとマルクは乗り気で、ルイも不満気だが従うらしい。――もっと近い当事者の感情に気づくことなく。
「あら、あら、まぁ。そうなの。おかしいわね。ええ、おかしいわ」
「ラヴィリエ嬢……?」
漸くマルクも、ラヴィリエの笑顔が固まったままであることに気付いたらしく訝しげに問うが、当の本人はあくまでゆっくりと問い返す。
「ステンシル子爵令息様。ステンシル子爵様は、私のお母様に不貞を働きかけた、ということでお間違いないのですね?」
かなり尖った、且つはしたなくない程度に大きな声で告げられた言葉に、自然と集まっていた野次馬がざわりとさざめく。
「そ、そんな馬鹿な!」
「ラヴィリエ嬢、その言い方には語弊があります。ステンシル家は正式な手続きを持って婚姻の届を――」
「あらあら、まぁ。ならば尚更、おかしなことですわ。お母様には最愛のお父様がいらっしゃるというのに」
「ですから、貴女の御父上は既に亡――」
更に言い募ろうとしたヴァロワ、その瞬間、ふっと空気が揺れ――
「ヤズロー!!」
ラヴィリエが大声を上げる。その時には既に、ヤズローが拳を握ってヴァロワの前に立っていた。繰り出された銀色の拳がひたりと鼻先で止まり、ヴァロワは目を瞬かせ――ぶわりと髪が拳風と煽られ、漸く状況を理解したのか尻餅を突いた。
「ヤズロー、下がりなさい」
「……」
「下がりなさい」
一言では従者は動かず、もう一度ぴしゃりと告げた言葉に漸く構えを解いた。深々とラヴィリエに礼をして、彼女の後ろに戻る。
「な、なんという野蛮な――」
「大変失礼致しました。従者に代わってお詫び申し上げます。ですが、先に私の愛する父と母を侮辱したのはそちらであると、ご理解の程を」
声を荒げそうになったミシェルへ慇懃無礼に言い切り、ラヴィリエは踵を返す。当然のようにヤズローはその後ろに従い、友人2人も顔を見合わせて後を追った。
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