2-1

 時間は過ぎ、約一年後。

 五月初旬。長野県、駒ケ根市。

 人口三万人ほどのこの街は、西に中央アルプスの木曽山脈、東に南アルプスの赤石山脈と三千メートル級の山が聳え立っており、コンクリートジャングルとは真逆の、自然にあふれた南信地方の街だ。

 さて。その駒ケ根の街はずれには、一件の立派な洋風建築の家があった。

 そして今、その建物の前に、一台の車が止まった。

「……やっと、着いた」

 その車の助手席から降りてきたスーツ姿の女性、紙子谷詩織かごたにしおりが、はあ、とため息をつく。

 ここへたどり着くために、まず大阪まで特急で二時間、そこから名古屋まで新幹線で一時間半、そこからさらに車で二時間と、実に五時間半もかかる。いや、乗り換えや休憩を考えると、朝の六時に自宅を出てから、すでに七時間以上も経っていた。ため息だって吐きたくもなるだろう。

「神江の山奥と似た風景だな。違うのは、この壁みたいなアルプスだけか」

 すると、助手席と反対、運転席側の扉が開き、ぬっ、と一人の男が姿を見せていった。北尾正則きたおまさのりという名で、こちらもスーツ姿。しかし身長は実に二メートルを越える大男だった。

「私も、長野市の方は何度も来てますが、南信は初めてです。でも北尾さん。私たち、なんで駒ケ根にいるんですか」

「さあな。アイツは、昔からわけのわからんことをするヤツだったからな」

 さらさらと流れる近くの小川のせせらぎを聞きながら、詩織は改めて目の前の建物を見る。立派な洋風建築のその建物は、屋根が日本家屋らしくない『とんがり帽子』であり、敷地の広さも考えると屋敷と呼んでも良い大きさだった。

 北尾と詩織は門の側にあるチャイムを押す。すると、そこから女性の声が聞こえ、北尾が自らを名乗った。

「ああ、はい。でしたら、中庭の方に行ってみてください。正面口から入って右に進むと、そこにいますので」

 その言葉と同時に、目の前の門からガチャリと音が鳴ると、そのまま自動で開いた。北尾と詩織は、互いの顔を見る。

「自動で開いたぞ。良い家だなあ」

「ですねえ。北尾さん、今から会おうとしているその人って、お嬢様、なんですか」

「そんな話は聞いたことが無いが……実は、そうだったのか?」

 北尾も反応に困っているようではあるが、北尾は門をくぐり、言われた通りに右手に進む。詩織も、ポケットから髪留め用の輪ゴムを取り出すと、つるりとした肩よりも長い綺麗な黒髪を後ろでひとつにまとめてから、北尾の後を追いかけた。

 歩きながら、詩織は周囲を見る。やはり都会では中々お目にかかれない大きめの屋敷で、古くはあるが、しっかりと手が入れてある。別荘、と表現した方が適切かもしれない。

 ただ、詩織はどうも信じられない。話に聞いていた人物は、とてもこのような静かな場所に住んでいるとは思えないが……そう思いながら歩いていると、開けた場所に出た。

 そこには、花壇があった。

 約七メートル平米くらいの大きさで、アジサイやナデシコが見事に咲き誇っているのが見えた。他にはまだ花がつけてないものもあり、おそらく夏に向けて植えているものと思われる。

 そんな色鮮やかな世界の中に、一人の少女がいた。

 麦わら帽子から覗く肌は白く、着ている服も白のワンピース。が、手には軍手とショベルを持っており、絶対に服が汚れるだろうな、と詩織は思った。

 見た目としては、まさにお金持ちのお嬢様。小柄な背丈と相まって、まさに大富豪の箱入り娘、と言った感じだ。

「あの女の子、ですか」

「……ぜんぜん似合わん格好しやがって。だまされるなよ、詩織。アイツは女の子なんて年齢じゃない」

 北尾は失礼なことを言いながら、その少女? の傍へ近づく。

「久しぶりだな、タマナ」

「あら、北尾さん」

 声をかけられると、しゃがんでいたワンピース女子は、チラリと横目でみた後、顔を上げる。その顔立ちは幼く、聞いていた年齢とはかなり離れているように思えた。

「タマナ。神江出身のお前が、どうしてこんな場所にいるんだ。駒ケ根に縁なんて無いだろう」

「母親の実家なんですよ、ここ。それで、わざわざこんな場所まで御出でになるとは、一体何の御用ですか」

 丁寧な口調で尋ねられると、北尾は一度、ごほん、と咳ばらいをする。

 そして。はっきりとした口調で、言った。

「単刀直入に言う。神江ファイ・ブレイブスの、今シーズンの指揮官になってくれないか、八束水珠奈やつかみたまなよ」

 名前を呼ばれた女性は、ショベルを動かす手をピタリと止めた。

「……残念ですけど、私、S級ライセンスは持ってません。だからヘッドコーチにはなれません」

「だろうな。でも、A級はあるんだろう」

 S級、A級と言っているのは、日本バスケットボール協会が定めているコーチングライセンス制度の区分のことだ。S級がトップで、そこからA、B、C、D、Eという区分けになっている。育成年代への指導時はC級ライセンスの保有が求められており、国際試合やトップリーグになると、S級やA級ライセンスを取得していなければ、ベンチで指揮することはできない。バスケットボールの普及を目的としたE級ならば講習会への参加は不要のeラーニングで取得可能なので、興味があれば調べてみるとよいだろう。

 紙子谷詩織は、目の前でしゃがんでいるタマナと呼ばれた小柄女性を、改めて見る。詩織が今年ようやくA級ライセンスが取得できそうなのに、バスケットボールに縁のある生活を送っているようにはとても見えないこの女子が、S級やA級ライセンスを持っているとは思えなかった。

 しかし。タマナは北尾の問いに対して、はい、と軽く返事をした。

「毎年ちゃんと更新はしてますから、執行はしてません。でも、今のリーグの規定だと、ヘッドコーチはS級ライセンスを持っている者に限るって書いてありますよ。知っていますよね」

「当然だ。だから、俺もお前たちと一緒に、ベンチに入る」

「北尾さんも?」

 声を上げた彼女に対して、北尾は大きくうなずいた。

「書面上の役職的には俺がヘッドコーチで、タマナ、お前はアシスタントコーチになる。だが、実質的な指揮は、全部、お前に任せるつもりだ。選手交代もタイムアウトのタイミングも残り十秒でのラストセットのクリエイトも、いや、試合に挑む前の作戦立案や戦術プラン、今シーズンのブレイブスのバスケットボールは、お前の考えを一番にして動く」

「まあ、ヘッドコーチってそういう責任を負いますけど。でも、アシスタントコーチが指揮するなんてこと、許可されてましたっけ」

「リーグの規定上は、特別な事情や緊急の事態が無い限りS級ライセンスの者が一人以上ベンチに入る必要があればいいと、そういう書き方がされている。だから、その気になれば選手がヘッドコーチを兼任してもいいんだよ。それに多くは無いが前例だってる。どうだ、何も問題ないだろう」

 北尾の言葉に、小柄な女性は、はあ、とため息をつく。今度は北尾の方が怪訝な顔になった。

「なぜ、ため息なんだ?」

「本当に私でいいんですか、と思って。だって私、御覧の通りの、ただの小娘ですよ」

 それを聞いた詩織は、確かに、と心の中で思った。

 A級ライセンスを持っているようなので、まったくそんな風には見えないが、とりあえず二十二歳以上の成人女性であることは間違いない。が、それでも詩織は、彼女が本当にバスケットボールの指揮官を務めることができるのか疑問に思ってしまう。

 しかし。それでも北尾は、タマナから目を背けずに言う。

「違う。お前は、ただの小娘じゃない。俺は、お前がどれほどの努力でバスケットボールに挑んできたのか知っている。お前が、どれほどバスケットボールの神様に愛されていたのか、知っている。いいか、タマナ。お前には、お前の役割があるはずだ。これほど見事なガーデニングも良い趣味だが、それはあくまで趣味にしておけ。お前の、八束水珠奈という女に与えられた才能を活かす場所は、別にあるはずだ」

「…………」

「コートに戻ってこい、タマナ。バスケットボールが、お前という才能を逃がすわけがないだろう」

 北尾が、はっきりと言った。実に、真っすぐな言葉だった。

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