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 ──北尾正則といえば、今でこそGM職としてバスケットボールの現場からは一歩引いた場所にいるが、現役の頃は日本代表の選手として活躍し、引退後は大学と実業団チームの指揮官として名を馳せた、この国の男子バスケットボール界の重鎮だ。

 その、『鬼』と呼ばれた昔気質の指導方針が時代と合わなくなったこともあり一線を退きはしたものの、親子ほど年齢が離れ、大学までしかバスケットボールをしていない詩織ですら、その名前を知っているほどの人物なのである。

 そんな彼が、目の前にいる女子を、これほどまでに買っている。詩織は、その事実に驚かされていた。

 すると、タマナと呼ばれた女性が、すっと立ち上がった。

 そのまま彼女は、北尾の方を真っすぐに見る。その眼光は意外にも鋭く、北尾も負けじと見返した。

 なぜか、周囲の空気が少し緊張感に包まれる。詩織も、ごくりと息を呑んだ。

「ほんと、いつも強引な人ですね。現役の頃から変わっていない」

「わりいな。俺は、これしかやり方をしらんのでな」

「そんなだから、今の時代に合わせられず、学生の指導者にもなれないんですよ……って、それはどうでもいいか……うーん」

「何を悩む必要がある。お前なら飛びつく話だと思ったが」

「わかりますよ。はい。ただ、ねえ。これ、貧乏くじでしょ」

「……なに?」

「私が気づいていないと思いますか。北尾さん、ブレイブスは今、オファーを出したヘッドコーチ、全員に断れてるんでしょ」

「え?」

 声を上げたのは、詩織だった。

 他の人にもオファーを出していたが断られた、というのは、詩織には初耳だった。詩織は雇われる側なのでチーム編成に口を出すことは出来ないし知ることもできないが、それでも北尾の方を見る。

 すると。どうやら図星だったらしく、北尾はぎょっとした顔になっていた。

「北尾さん、そうなんですか」

「た、タマナ。お前、どこから、その話を」

「聞かれたんですよ、海外の知り合いから。日本のブレイブスとは、どんなチームなんだと。面白いチームだとは私も言ったんですけど、その知り合いは、報酬も少し安いし、健康面を考えても難しいと言われました。いや、確かにリーグ・Aに降格してスポンサーがそこそこ離れたのは知っていますよ。でも、一番の大口スポンサーは今年も応援してくれると言ってくれたんですから、ケチっちゃだめですって。それこそスペインのルイス・パウロを日本に連れてきたいなら、もっとお金を出さないとダメですよ」

 そのタマナのセリフに、えっ! とまたもや詩織が声を上げる。

「ル、ルイス・パウロって言ったら、ユーロリーグの最優秀ヘッドコーチ受賞したこともある人じゃないですか。北尾さん、本当にそんな方を連れてくるつもりだったんですか」

 北尾は答えない。ただ、この場合の黙秘は、肯定と同じだ。

 気まずい沈黙が、この場に流れた。まさかオファーを出した相手と目の前にいる人物が知り合いだったとは、北尾も夢にも思わなかっただろう。

 しかし、だ。ここで詩織は、少し冷静になる。

 この、八束水珠奈という女性。ヨーロッパでも指折りのヘッドコーチから、相談を受けるような間柄なのか……その事実から、詩織は、彼女がただ者で無いことを理解した。

 北尾と詩織、それぞれが衝撃を受けて呆けてしまっていた。その様子を見たタマナは、やれやれ、といった様子でタマナは首を振ったあと、傍にある咲き誇る青いアジサイを眺める。北尾も詩織も、そんなのんびりと構える彼女に声をかけられない。

 しかし、いつまでも黙っていても仕方がないと感じたのか、北尾が一歩踏み出る。

「……タマナ。正直に話そう。俺たちがこうしてお前のところまでたどり着けたのは、そのルイスさんからお前を推されたからだ」

「はい、知ってますよ。私もルイスから。『お前のところに行くかもしれない』って聞いていたので」

「失礼なことを言っているのは、わかる。だが、私たちも厳しい状況なんだ。それは理解できないわけじゃないだろう」

 タマナはアジサイから視線を外し、北尾の方を見る。その大きな丸い瞳は実に特徴的だが、彼女が今、何を考えているのかは、そばで見ているだけの詩織には窺い知れない。

「そりゃもちろん。私の故郷、神江のプロチームの一大事、ですからね」

「だから、頼む。お前が満足できる年俸は払えないかもしれない。お前にすべての責任を押し付けるような形になってしまうかもしれない。だが、それでも」

「いいですよ、やっても」

「そう。お前がやると言ってくれるなら、きっと今年の神江は……って、え?」

 北尾が声を上げた。隣にいる詩織も、目を丸くする。ただ、タマナの方は、相も変わらず平然としていた。

「ルイスから言われたときは悩みましたけど、まあ、やってみましょうか」

「なに! 本当か! って、待て待て。タマナ、ホントにいいのか。俺はさっきお前に、とんでもない失礼を働いたんだぞ」

「そうですよ。確かに北尾さんは私に失礼をしました。けど、それでも、この国のトップレベルのバスケチームの指揮官が出来るんですよ。本当は女子チームが良かったんですけど、断るには惜しいオファーです。こんなチャンス、真面目にバスケットボールをしてたって、空から降ってきませんよ」

 実に軽い口調で、タマナは言ってのける。ただ、それを聞いた北尾は、感慨深そうな表情になっていた。

「タマナ……お前……」

「でも、北尾さん。ひとつ、考えを改めた方がいいですよ」

「え?」

「さっき、バスケットボールの神様は、私を放っておかないって言いましたよね。けど、そんな運命的な言い方はしない方がいいです」

「……どういうことだ?」

 キョトンとする北尾だが、タマナは表情を崩さない。

「いいですか、このバスケットボールという世界において、神様なんていません。神様と呼ばれた選手は、過去に世界で一人だけいましたが、それだけです。この世界で運命を変えられるのは、プレイヤーと、彼らに関わる人たちだけです。神頼みをしているようでは、この世界で生き残るなんて、到底不可能です」

 タマナは、真顔で言い切る。冗談を言っているようには見えなかった。

 バスケットボールという世界に、神様なんていない。

 運命を変えられるのは、プレイヤーと、関わる人たちだけ……自分の言葉として言い切れる八束水珠奈に、詩織は何か、とても大きな才能の片鱗を感じた。

「ま、そんなことはどうでもいいですね。では、これからよろしくお願いします、北尾さん。今よりも下位のカテゴリーに降格しないよう、頑張りますから」

 タマナは北尾に近づき、右手を差し出した。北尾がそれを握り返すと、タマナは今度は、詩織の方にも手を出した。

「よろしくね、紙子谷詩織さん」

「え、名乗りましたっけ、私」

「アナタ、去年からベンチに入っているじゃない。その美人な顔は忘れないよ」

 ニコリとタマナは笑うので、詩織は驚きながらも自分のことを知っていてもらえた嬉しさから、自然な笑みを浮かべてタマナが差し出した手を握り返した。

 その瞬間、詩織は、ぞくりとした。

 意外にも大きな手は、少し冷たい。一七〇センチ近くある詩織と、同じくらいありそうだ。

 そんな彼女の手に振れた瞬間、詩織は鳥肌が立った。

 なんだ、これ。悪寒のようなものが、全身に走る。

 だが。これと似たようなものを、以前にも経験したことがある。詩織はバスケットボール経験者であり、大学生まではプレイヤーだったが、当時、日本代表に呼ばれるような選手と、大学の公式試合でマッチアップしたことがある。

 そのとき。詩織はバスケットボール人生で初めて、相手選手に対して恐れを感じた。

 絶対にかなわない。何をしたって、この相手にはねじ伏せられる。当時に抱いた感覚を、詩織は今、目の前の相手からも……。

「……うーん、そろそろいいかな」

「え? あ、すす、すみません」

 詩織は慌てて手を離すと、タマナはニタニタと笑っていた。

「いやあ、いくら私の手が綺麗でスベスベで柔らかくても、そんなに握りしめられたらこっちがテレちゃうよ」

「え、ええ。ホント、すみません」

「いえいえ。あとで好きにだけ触らせてあげるから。私も女だけど、詩織ちゃんみたいに綺麗な女の子ならいつでも歓迎するから」

 冗談っぽく言って笑うタマナに、詩織の方が恥ずかしくなった。そのせいで、いつの間にか「ちゃん」付けで呼ばれたことも気にならなかった。

「──さて、北尾さん。契約書、持ってきてますよね」

「ああ。契約書以外にも色々と書いてほしいものはあるが、とりあえず今日は、それだけだ」

「じゃあ、家に上がってください。すぐに目を通してサインしますから、その間に、私の両親にこれからのこと説明しといてくださいね。もう薄々勘付いてはいると思いますけど、こんなかわいいかわいい一人娘を外に出すんですから。その説明責任は、ちゃんと北尾さんが果たしてください」

 タマナはそう言うと、地面に置いていたバケツやショベル、如雨露などを片付け始める。もう、着ている白のワンピースの汚れは気にしていないようだった。そのまま家屋の方へ歩き出してしまい、詩織と北尾は苦笑する。

「了解したよ。で、タマナ。お前はいつ頃、神江に来られる」

「明日には移動できますよ。荷物なんてないですし、私もやると決めた以上は早く仕事をしたいので」

 それを聞いた北尾は、マジか、と声を上げた。明日には動けるとは、なんともレスポンスが速い。

「けどタマナ。明日にでも動いてくれるのは助かるが、神江でお前が住む家は、これからだ。それに、まだ正式に契約も結んでないのに、仕事って何を」

「家なんてどうでもいいですよ。ホテルでも詩織ちゃんの家でも北尾さんの家でもなんでも使わてください。いいですか、北尾さん。次のシーズンは始まってるんですから、もう休んでる暇なんてないですよ。特にチーム編成の話は、今日のうちに方向性だけ固めておきたいんです」

「は? 編成って、いきなりか」

「当たり前です。こうしている間にも、他のチームは有望な選手にオファー出しまくってるんですから。それでまず、昨シーズンにブレイブスに所属していた選手の中で、絶対に引き留めてほしい選手が四人います。特に、ポイントガードは最優先です。彼がいるのといないのでは、そもそもの戦術が変わってきますんで」

「待て待て。早い、早すぎる。落ち着け、落ち着け」

 タマナは足を止め、くるりと振り返る。目を細め、あきれた表情をしていた。

「だから、何を悠長な言ってるんですか。シーズン終わって一週間も経ってるって、わかってます? 選手の争奪戦はとっくに始まってるどころか、五周遅れくらいですよ。というわけで、その残してほしい四人についてはすぐに説明します。あと、これからリクルートしてほしい選手のリストも後で送りますので、それも見ておいてください。あ、そうそう。それと、忘れていた。飛行機のチケットを用意してください」

「だから、待て。待てと言って……ん? 飛行機? なんだそれは。どこに行くつもりなんだ」

「決まってます。そりゃもちろん、海の向こう、スペインですよ」

「……え?」

 北尾は、もう何度目かわからないような、呆けた声を出す。が、タマナは当然、彼の反応など相手にしない。

「神江ファイ・ブレイブスの未来を担う選手を、獲得するためにに行くんですよ。さあ、早くしてください。他のチームに気づかれる前に、あの子をスカウトするんですから」

 そんな当たり前のように言ってのける彼女に、あとに残された北尾と詩織は、もう何も言い返すことはできなかった。

 ……無茶苦茶だ。この人に任せて、本当に大丈夫なのだろうか。詩織は、歩いていくタマナの背中を見守りながら思った。

 詩織はまだ、この小さな女性のことを信用できていない。だが、それなら自分がチームを率いてやると北尾に面と向かって言える自信も、まだない。プロチームを指揮するだけの力を持っていないことは、誰よりも彼女自身が知っていた。

 だから、託すしかないのだ。この八束水珠奈という女性に。

 そして自分の仕事は、彼女が自由に動けるようにサポートすること。今はまず、それだけしかできない。

(……でも。さっき握手したときのアレは、なんだったのだろうか)

 詩織は、あの時の感覚が忘れられない。このタマナという女性から感じるには、少しおかしなもの。

 あれは、そう……恐れ、だ。

 詩織は、八束水珠奈という女性に、なぜか恐ろしさを覚えたのだった。


 

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