幻日(ゲンジツ)
北條カズマレ
都市に暮らした悲しみ
ある日、夫がいなくなった。
価値観の不一致。
病院の診断書のような置き手紙にはそう書かれていた。
わかっている。
それは嘘だ。
息子の世話が嫌になったのだ。
そうに決まっている。
息子は重い自閉症だった。
人間に興味を持つことはあり得なかった。
日の父親である夫にも、もちろん、私にも。
度を越した偏食、固定された日課をこなせないと泣き喚く、対人コミュニケーションの不在。
私だってこの子の世話はキツかった。
夫がいなくなって、吹っ切れた。
車も家具も全て処分して、アパートの部屋も解約し、私と息子は旅に出ることにした。
遠い国への旅だ。
もちろん、楽な旅ではなかった。
息子が騒いだらと思うと、飛行機には乗れなかった。
だから、船での長い旅になった。
そうして、私たち親子は世界を転々と旅して、お金がほとんどなくなるころ、とある国の少数民族の居留地にたどり着いた。
大量生産の洋服をきているけれど、今でも伝統的な儀式を受け継いでいる人たちだった。
私たちはここに長く留まることにした。
息子を受け入れてくれたからだ。
最初が良かったんだと思う。
居留地で最初に迎えた朝日の美しさを、私は忘れないだろう。
みんなが朝日に向けて祈っていた。
昔、何かのテレビで見たように、五体を大地に投げ出して、倒れるように祈っていた。
1000年以上続く、彼らの儀式だということだった。
驚くべきことが起きた。
息子が祈りの仕草を真似たのだ。
息子が誰かの真似をするなど、これまでにないことだった。
彼らと同じように、体を大地に投げ出して、むしろ彼らよりも敬虔に、そう、そう見えたんだ。
私は涙した。
両手を祈るみたいに合わせて、鼻と口を覆わずにはいられなかった。
朝日に照らされる息子と彼ら部族のみんなの姿は、神々しく、私はむしろ太陽にではなく、彼らに向けて祈りたかった。
滞在日数が重なる。
居留地の司祭は、息子を可愛がってくれた。
後継者がいないということだった。
若者たちはみんな都市へ出て行って、帰ってこないか、帰ってくると、部族のみんなを見下した目で見るそうだ。
あるいは、哀れみの目か、最良でも、善意で居留地の近代化を申し出るのだという。
司祭は全てを拒否してきた。
儀式は太陽への祈りのほかにもいろいろあった。
その全てに息子は適合し、今までにないその姿に、私はいちいち涙を流してしまった。
司祭はすっかり息子を気に入ってしまって、私さえよければここでずっと暮らしてほしい、といってくれた。
夜、草でできたベッドで、私はいつまでも寝ないで考えた。
それもいいが、あるいは、と。
故郷の国への出立の日の朝、私は司祭に別れの挨拶をしに行った。
どうしても行くのかね? との問いに、私はええ、と言った。
我ながらスッキリした物言いで言えたと思う。
「この子が必要なのは、むしろ私の国になんです」
司祭は納得したような顔で頷いた。
「なあ、異国の人よ。私は毎朝太陽に祈ることで誇りを得ている。私が祈らなければ、太陽は次の日には決して昇ってこないだろうから。これは尊い、そして大事な仕事なのだ。私は不安だ。いつも思うのだ。私が太陽に感謝し祈りを捧げる、世界で最後の一人なのではないかと。そうしたら、私が死んだらこの世は暗闇になってしまう。異国の人よ、遠い異国の地でも、祈りを続けてくれると約束してくれるかね?」
私はうなづいた。
息子は相変わらずどこを見ているのかわからなかったけど、司祭との別れの際には大きな声で泣いた。
結局、故郷で新しい暮らしを始めると、約束を破る羽目になった。
息子は前のアパートにいた時のルーティーンを崩さず、祈りのことなど忘れてしまったようだ。
すっかり元の生活に戻ってしまって、私は思うのだ。
あの居留地でずっと昔からの伝統を守って太陽への祈りに誇りを見出して生きることと、都市へ出て新しい価値観を得て生きることとを。
私は、その境界にいながら、きっと人間の中に眠る大昔の記憶の中に生きているだろう息子を眺めて生きている。
ある夜、息子が突発的に大騒ぎを始めてしまい、安アパートの壁の薄さのせいで隣の部屋からクレームが来た。
私は未明の時間帯にパジャマ姿でぷりぷり怒って見せる隣人に謝りつつ、行き場をなくしてアパートの屋上に出た。
結局、一睡もできずに息子を宥める羽目になった。
しかし、そのおかげで、睡眠欲求を押し退けて活性化してしまった脳が演出する感動の中、昇ってくる朝日を眺めることができたんだ。
そして、息子は、居留地のあの時と同じように屋上の冷たい床面に五体を投げ出して祈ったんだ。
それ以来、私は毎朝息子を連れて屋上へ出る。
いや、むしろ息子の方が早く行きたい、行きたいと、私を未明に起こすようになった。
あい変わらず自閉症児としての偏りは続いている。
一日のルーティーンに祈りが加わっただけだ。
私は勘違いをしていた。
もし、息子が祈りを日課にしたら、お世話をするのも苦にならなくなるものだと思っていた。
なぜなら、息子は単なる自閉症児から、尊い太陽の司祭になるのだから。
しかし、そうはならなかった。
私は愕然とした。
私は都市で薄っぺらい発展思想を学んだ愚かな若者ではなく、聡明な太古の知識を受け継ぐ司祭の側にいると信じて疑わなかったから。
そう、この子のように。
しかしそうではなかった。
息子は太陽への祈りを始めた後も、相変わらず手のかかる子にすぎない。
私は期待していたのだ。
太陽に祈ることで誇りを得ると言ったあの司祭の言葉に。
息子が得るはずの誇りを、横取りできると思ったのだ!
しかし、本当はわかっていたのかもしれない。
一度でも都市に住んでしまったら、もう絶対に、太陽が昇ることに祈りなんぞが必要だなんてことを、信じることはできないと。
息子はどう思っているのだろう。
いや、きっと何も思っていない。
私の感じる葛藤なんか、一切理解してはくれない。
悲しかった。
その現実を完全に理解してしまったことが、何よりも。
以来、私は絶望の中を生きている。
息子は生きている。
それは確かだ。
確かに嬉しい。
だが、自尊心を得る方法を永遠に失ってしまった事は事実なのだ。
祈り。
祈りだって?
そんなものがなんになるというの?
私はどうしようもなく、都市の人間なのだ。
ごまかしようもない。
……祈りは、続いている。
なんの意味もなく。
幻日(ゲンジツ) 北條カズマレ @Tangsten_animal
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