赤い雨月、舞い散る桜
神﨑らい
赤い爪痕
この男性も赤爪の犠牲者――警察の制服に身を包んだ晩年の男が、眉間を険しくして怪訝そうにそう唸った。
男の足元には男性の遺体が転がっている。仰向けで、両手を後ろ手に拘束され一糸纏っていない。両の眼球は抉り取られて喉を深々と裂かれ、頭から足先まで線を引く無数の切り傷があった。獣の爪痕のような、三本一セットの引っ掻き傷だ。裸体の皮膚を掻き回った傷は、幾何学的な赤い柄の服を着ているようにも見える。
「山本警部、生存者を保護しました。二十代前半くらいの女性です。目立った外傷はなく、意識もはっきりしていますが、なにぶん虚ろ状態で応答がありません」
若い警官から報告を受け、無駄かと思いつつもその女性と話してみることにした。肥えた腹のせいでずり下がるズボンを引っ張り上げ、女性が待つと言うパトカーへと向かう。
連続猟奇殺人鬼、赤爪の犠牲者と思われる遺体は、今回の男性で八人目だ。いずれも若い男女で、後ろ手に拘束、全裸、両目が欠損し首が深く抉られている。そして、赤爪と名付けるに至った、三本の鉤爪状のおびただしい引っ掻き傷。血濡れた肌と開いた傷口のコントラストが吐き気を誘う。傷が深すぎて内臓が溢れ出た遺体もあった。
しかし、今回の遺体の傷は少し雑な気がした。不器用、とも思える。いずれにせよ八人目なんだ――山本はそう胸中で呟いてから眼光を力強く引き締め、パトカーの後部座席に平然と座る件の女性を見下ろした。
どの現場からも、同じ男のDNAが検出されている。だから赤爪は男のはずだ。なのに、この女はなんだ――頭から血を被り、桜色のワンピースが真っ赤に染まっている。そして最も気掛かりなのが、指先だ。膝の上に礼善く置かれた華奢な指先は、素手で地面を掘り返したように、爪の中まで血がこびりつき赤黒く染まっていた。
「お話を伺いたいのだが、話せますか?」
山本は尋ねた。ゆっくりと女が振り向き、結構です――と、生気なく答えた。山本は驚愕と歓喜にほうと声を上げそうになり、慌てて口をつぐむ。この異様ささえも取り込む美しい女だった。
男は運転席に座る見張りの警官に席を外させ、女の隣、運転席側の後部座席に乗り込む。
「警部の山本と申します。あなたのお名前を伺ってもよろしいですか?」
山本は可能な限り女の方へ身体を向け、刺激しないよう柔らかく問い掛けた。女は真っ直ぐ前方を向いたまま、笠間マイと虚ろに名乗り、彼――と消え入るように言葉を続けた。
「彼は、狂い咲く桜が好きなんだそうです――」
彼女の脈絡ない話しに、はあと山本は声を漏らす。
「紅蓮の月夜に見た、満開の桜が舞い狂うその姿が忘れられない、と」
なんの話だ――山本の挟んだ言葉など聞こえていないように、マイは淡々と語り続け、徐々に興奮し、その声音は狂気に満ち始めた。
「満月の真っ赤な月下、血の雨を降らすような紅蓮の月光。――その赤い光をまとい荒び舞い狂う桜吹雪。世にも不可思議な絶景であった、と」
語る彼女は、溜め息を吐くかのように物憂げで、すすり泣くかのように儚げな声音をしていた。山本はその声音に取り込まれそうな奇妙な感覚を抱きながらも、固唾を飲んで静かに聞き入る。
「何年もその情景を待ってましたけど、結局二度は出会えなかった。だから、再現しようと試みたのです」マイは一息置いて、赤い月光と美しく狂い舞う桜を――と言葉を続けた。
「彼は持ち得る全てを注ぎ込み、必死に頭を捻った。そして、どうすれば再現できるかを導きだし、実行したのです。けれど、とてもよくない結果を生み出してしまった。今度は――、その姿に惚れ込み、囚われてしまったのです。彼には止められやしなかった。昔から美しいものに目がないから――」
そこまで言って、マイは顔を山本へ向けて恍惚に微笑んだ。血みどろで生臭いのに、あまりにも美しいマイの微笑が酷く不気味だった。不気味で奇妙で、山本は全身が粟立つ戦慄を覚えた。
止めよう――山本は思った。彼女の話しは確実に聞き届けなければならない。だが、一人で聞くものではないし、聞いてはいけない気がした。本能が耳を塞ごうとし、彼女の前から逃げ出そうとする。
三本爪――呟かれたマイの言葉に、山本は肩を弾かせた。
「フィレ・ナイフと申しますナイフを三本、指の間に挟めたもの。総ステンレスの短く細いナイフです。器用に、美しく挟むの」こう――と、マイは右手を軽く握り左手の人差し指で、ここと、ここと、ここに――と、親指との指間以外の三ケ所を指した。
「これが構えでございます。挟んだナイフの爪を持つ腕を上から下へ、スッと軽やかに振るんです。斬るところによりますけれど、火花が散るように血飛沫が上がる。何度も斬り付けて、断末魔の砲口を聴きながら舞い散る赤の向こう側に、うっとり見惚れるんです」
向こう側、と言いますと――そう発した山本の声は、情けなく震え上がっていた。死臭を放つ彼女の雰囲気に、きっと当てられたに違いない。山本が深呼吸しようと息を吸いかけたとき、怯えて立ち竦む桜をよ――マイは嘲るように言って、痛々しささえ感じる程に冷たく含み笑った。
「まず、前儀を楽しむように眼球を抉り取るんです。ナイフの先をちょいと引っ掻けて、たこ焼きでも作るように――くるりん、って。最初に苦痛と恐怖に染まった、耳をつんざく悲鳴が必要なのだそうよ。わざとらしく悲鳴を聞かせて、青ざめた桜を嫌らしい目でみるの。蛇のように気味悪く恍惚な瞳で見据えながら、彼らの肌に刃を滑らせる」
目で殺すようなマイの睨みに、山本は怯む。
「血飛沫を隔てた先にいる桜の気持ちが、血の海に佇む桜の葛藤が、あなたにわかりますか? 本来の淡い色を脱ぎ棄て、あの血濡れの悪魔が、愛でるに相応しい色に染められる」あなたにわかります?――そう言った、鋭利なマイの眼光に射貫かれ、山本は平静を見失いそうになる。二十歳そこそこの娘が見せる表情だとは、到底想像できるものではなかった。
山本は彼女の凍てついた視線から逃れたく、彼女の後方にある窓から外の景色に目を向けた。鑑識官らが忙しなく捜査を続けている。遺体の周囲やそこから離れた場所でも、手掛かりの一つも逃さぬよう隈なく調べ上げていた。
ただ――、どんなに目を凝らし辺りを見回しても、一向に桜は見つからない。
「慟哭に狂う断末魔の絶叫を浴びせられ、生臭くて真っ赤な雨が降り注ぐの。桜色は血を吸って、月光を浴びているように赤く染まる――。血を浴びて震えているだけなんて、本当に無様ですわ」
マイは苦く言って、血に濡れた両手をきつく握り込んだ。憤りに嘆くように眉間を険しくさせ、苦悶の表情を浮かべていた。毒々しい話を語る割りに、初めて見せた苦し気な顔色だ。
「あなたのおっしゃる桜とは」もしかして――そう開いた山本の口を、嘆くだけでは済まさない――と、マイは鋭く遮り閉じさせた。
「タダでは終わらせない、目に物見せてやる――!」
鋭い勢いをそのままに、興奮が頂点へ上り詰めたのか、憎悪を剥き出しにして言い放った。覚め止まぬ熱は彼女の唇を閉じさせず、まくし立てるように辛辣な言葉を紡がせる。
「咄嗟に彼を押し倒し、犠牲となるはずだった女性を逃がした。胸ぐらを掴んで彼を揺さぶり、後頭部を床に叩き付けた。彼からナイフを奪い取り、見様見真似で斬り付けた。今度こそ、これ以上はいけない、彼を止めなきゃ! とめなきゃ、やめさせなきゃ、殺さなきゃ! 私が――っ!」
マイは噛み切るように吐き捨て、深い郷愁に墜ちていくような微笑で唇を震わせた。
「苦しみもがく人たちを大勢見てきた――。私も散々苦しめられ、恐怖に支配されて来たんです。だから、最期だけでも同じ恐怖を、苦痛を、絶望を、与えてやろうと思ったのに」
思ったのですよ――と、自身の言葉を噛み締め、マイは自虐的にせせら笑う。
「彼は最期、私にこう告げました。至極最高の風情だった、と――」
眼球を抉り忘れていましたの――そう、無機質に言葉を結んだ。
赤い雨月、舞い散る桜 神﨑らい @rye4444
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