泥の中で輝く

泥の中で輝く

 ぼたりぼたりと鈍い音をたてて、泥が床を汚していく。けれど少女はそんなこと気にも留めずに、部屋中を歩き回っていた。泥の塊に足を突っ込んでしまい足が泥だらけになったが、彼女は気にしない。何しろその泥は彼女自身の体から出ているのだ。何を隠そう、少女は今世界中で発見されている奇病の患者だったので。泥との付き合いは長い。


「あれー?」


 故に彼女は部屋中に泥をまき散らしながら、ある探し物をしていた。部屋にある引き出しを片っ端から開け、箱をひっくり返すが、目的の物は見当たらない。中にしまわれてあった物たちが床の上に落ち泥に埋もれていくが、少女はそれを気にしなかった。むしろ上から踏んづけていた。だって、探し物よりも大事なものなんてこの病室の中にはなかったものだから。


 さて、彼女が何を探しているのかというと、薬である。ただの薬ではない。彼女自身も発病しているとある奇病への特効薬である。


 最近流行している病気がある。発病した人間は全身から泥が吹き出し泥まみれになってしまう、原因不明の奇病だ。体調に変化は起きないが、患者はいくら拭っても取れない泥を理由に学校や会社を辞めざるをえなくなり、病院に隔離されることになる。治療法はなく、医者や科学者がそろって匙を投げたその奇病に、ある日特効薬が開発された。


 その薬を飲むと、患者は一日だけ、体の泥を完璧に落とすことができる。


 その薬を担当医に渡されたとき、少女はそんなことがあり得るものかと鼻で笑った。けれど捨てられなかったのは、この忌まわしい泥が落とせたらどれほど良いだろうかという希望を捨てきれなかったからだ。


 少女はこの泥のせいですべてを失ったから。




 シャアアアアアア……と浴室にシャワーの音が反響する。浴室の中には、タイル張りの床に力なく座り込む少女が一人。白魚のごとく美しい彼女の肢体にはしかし濁った泥がまとわりついており、シャワーの勢いで流されてはまた新しい泥が肌から吹き出し泥が取れることはない。その事実を認めたくないのか、少女は泥が吹き出す肌を何度も強くこすった。何時間も続けられるその行為を止める人間はいない。今朝、少女から無限に生み出される泥を疎み、少女を一人残して家を出て行ってしまったからだ。


「おかあさん……」


 まるで汚らしいものを見る目で自身を見てきた母の顔を思い出す。優しい母だった。少女が発病する前までは、ことあるごとに少女のことを可愛いと褒めそやし優しく頬を撫でてくれた。この泥をすべて落としたら、きっと帰ってきてくれるはずなのだ。


 けれど体中から吹き出る泥はいつまでたっても取れなかったし、母は帰ってこなかった。代わりに母が連絡したらしい病院の人間がやってきて、泥まみれのバスルームにうずくまるふやけた肌の少女を病院へと連れて行った。あれよあれよという間に少女は診察を受け、奇病の名前を告げられ、病院の端っこにある病室に隔離された。病院側も清潔な空間に泥をばらまき続ける患者のことを良く思っておらず、患者たちは半軟禁状態だった。少女は自分が世界中の誰からも疎まれているのだと思い、毎日泣きながら日々を過ごしていた。


 その日々に変化が訪れたのは、病院側からスマートフォンを与えられたときだった。SNSやゲームで恐る恐る他人に話しかけてみれば、彼らは友好的に返してくれた。画面越しでは少女が泥まみれなことなんて分からないし、言う気はないが万が一知ったとしても関係がないのだ。だって画面の向こうに泥は届かないから、相手に迷惑がかかることはない。それに気づいた少女は一日中スマートフォンで他人とおしゃべりをするようになった。指先から出た泥でスマートフォンを何台か壊してしまったが。


 そして恋に落ちた。


 相手はイツキと名乗る少年だった。どうやら少女と同い年らしく、とても話が合って、彼と話すのが一番楽しかった。一日中病室に引きこもっている少女にとって、イツキとの会話が救いだった。けれど、きっと相手にとって自分はそうではないだろう。だって彼は奇病になんかかかっていない普通の人間なのだから。きっと家族がいて、友人がいて、学校に通って、毎日たくさんの人と喋って笑っているに違いないのだ。ただのSNS上の知り合いに特別な感情なんて抱くはずもない。


 少女はそう思っていた。けれど、ある日。


【一度、会わない?】


 そんなメッセージが届いた。


 嬉しかった、会いたいと思ってもらえたことが。SNS上の、いつ途切れてもおかしくない繋がりだけで終わらせようとしなかったことが。彼の日常に少しでも入れてもらえることが。


少女だって会いたかった。けれどネット上と現実は違う。こんな泥だらけの体では会いに行ったって引かれて終わりだ。少女は三日三晩泣き倒し、断腸の思いで断りの連絡を入れようとして、特効薬の存在を思い出した。


 今しかない。


 今使わないでいつ使うんだ。


 彼に一目会えるなら、明日死んだってかまわない!


 少女は恋をしていた。燃えるような恋だった。


 そうと決まれば行動は早かった。


 【会いたい】


 そう返信した少女と彼は二人とも東京に住んでいたので、話し合いの結果ディズニーランドに行くことになった。


「あの、デートに着ていくならこれとこれどっちが良いと思いますか?」


 通りすがりの看護師を捕まえてはスマホの通販画面を見せて、そんなことを尋ねた。少女は誰とも話さずにずっと病室に閉じこもっていたので、いきなり話しかけられた看護師は目を白黒させていた。彼女は少女につけられた担当の看護師であり、親に見捨てられた少女を哀れに思ってよく話しかけてはいたものの、返事がもらえないのでもはや交流は無理かと諦めていたのだった。彼女の名は斉藤といった。少女も普段なら斉藤に話しかけることなどなかったのだが、恋に心が浮き上がっていたのでそんなことは関係なかった。恋は無敵なのだった。


 三日三晩悩んで、可愛らしいワンピースを買った。病室に届けられた箱が泥で汚れることがないよう、少女はデート当日まで厳重に保管しておくよう斉藤に頼んだ。その頃には少女はすっかり斉藤に心を開いており、斉藤もまた少女のことをまるで娘のように可愛がっていたので、快く引き受けてくれた。


「ねえ斉藤、デート当日、私にメイクしてくれない?」


 少女は普段顔も泥まみれなので、メイクなどしたことがなかった。けれどデート当日は素顔を見せるのだ。少しでも可愛く思われたいというのは当然の乙女心だった。


 その乙女心をよく理解していたからこそ、斉藤も一つ返事でその頼みを引き受けた。


 そうしてあっという間にデート当日。窓の外は雲ひとつない青空で、まさにデート日和だった。少女はこれから始まる人生で一番素敵な日になるであろう一日の始まりに胸を高鳴らせ、ゆっくりと薬を飲み込んだ。


 変化はすぐに現れた。


 常にぼたりぼたりと体から吹き出していた泥が止まったのがわかった。試しに手のひらで腕についた泥を拭ってみると、泥の下から現れたのは長い間日の光を浴びていない白い皮膚。


 ああ!


 嬉しくて嬉しくて、少女は何度も確かめるように腕を撫でた。


 あれほど憧れた、普通の体だ。


 心を埋め尽くす幸福に飛び跳ねる彼女を落ち着かせて、斉藤はその顔にメイクを施した。斉藤自身彼女の素顔を見るのは初めてだったのだが、頬を染め瞳をうるませる彼女はまさしく恋する乙女そのもので、思わず見惚れて手を止めてしまうほどの美しさを放っていた。


 メイクが終わり、大切にしまっていたワンピースに袖を通す。何度も何度も鏡の前でおかしいところはないか確認する少女に「電車の時間は大丈夫なんですか」と斉藤が聞くと、少女は壁にかけられた時計に目をやった。


「もうこんな時間!」


 デートに遅刻なんてありえない。少女はこれまたこの日のために買った可愛らしいバッグを肩にかけ、「じゃあ行ってきます!」と慌ただしく病室を後にした。


「行ってらっしゃい」


 その背中に、斉藤は優しく声をかけた。


 明日からはまた泥に塗れてこの病室で暮らすことになる少女。そんな彼女の今日が素晴らしいものになるよう、願いを込めて。


 待ち合わせ場所に指定されたのは、病院から電車で七駅ほど行った駅だった。近くに遊園地があるらしく、今日のデートの目的地はそこだった。


 車窓の向こう側を流れる景色を眺めながら、少女は何度も深呼吸をした。病院から出ること自体が久々である少女にとって、他人が近くにたくさんいる車内はなかなかに落ち着かない。早く待ち合わせの駅に着かないかとソワソワしながら、窓にうつる自分を見て前髪を整えた。


 目的地の駅に到着すると、少女は電車から飛び降りるようにしてホームに足を下ろした。急く心を落ち着かせようとするものの、階段を降りる足はどうしても早足になってしまう。


 改札を出て、昨日イツキからきたメッセージを頼りに目当ての人影を探す。すると、駅の柱にもたれかかる少年の姿が目に入った。イツキのメッセージと同じ服装をしている。どくりと、心臓が高鳴ったのがわかった。


「あの、あなたが、イツキ?」


 少女がそう声をかけると、少年はくるりとこちらを向いた。丸い瞳と癖毛なのか緩くカーブした髪がかわいい、男の子だった。


「そうだよ。初めまして」


「は、初めまして……!」


「会えて嬉しいよ。やっぱり、可愛い」


「やっぱりって?」


「電話で聞いた声がとても柔らかいものだったから、それが似合う子なんだろうなって思ってた」


 イツキはそう言って柔らかく微笑んだ。その微笑みを向けられて、少女は胸が高鳴るのがわかった。


 ああ、やっぱり、好きだなあ。


 デートはとても楽しかった。泥に覆われていないというだけで、世界はこんなにも輝いて見えるのだろうか。アトラクションにたくさん乗って、二人が映った写真を記念にと買った。可愛らしいポップコーンバケツを首から下げて、二人でポップコーンを分け合いながら歩いた。時々通りかかるキャラクターの着ぐるみが可愛くて、見かけるたびに写真を撮ってもらった。お揃いにと言って買ったクマのキャラクターのキーホルダーは、きっとこれからの人生の宝物になるだろう。


「ねえ、次はあれに乗ろうよ」


 そう言ってイツキが指を指した先には、大きくうねるジェットコースター。少女はあまり高いところが得意ではなかったのだけれど、あまりの幸福にうわついた心で夢見ごごちに頷いた。


「いいよ!」


 そう言って、一歩踏み出そうとして。


 ぼたり、と聞き慣れた鈍い音がした。嫌な予感がして視線を下げると、足元に泥が一掴み落ちている。さあっと血の気が引いていくのが分かった。


「ごめん、ちょっとトイレ!」


 相手の返事も待たずに駆け出し、近くにあったトイレに駆け込む。個室の扉を勢いよく占めると、少女はずるずると壁にもたれた。泣き出してしまいそうだった。やばい。そんな。どうして? そんな言葉がぐるぐると頭の中をめぐる。効果は一日ではなかったのか。まだ半日しか経ってないのに、嘘をついたなあのヤブ医者め!


 ひとしきり悪態をついた少女は、どこから泥が吹き出しているのか確認しようと立ち上がって、足元に一つも泥が落ちていないことに気が付いた。そんなのあり得ないことだ。泥は一度吹き出してしまうと止まることはないと、少女は身をもって知っていた。


 勢いよくワンピースを脱ぎ、自身の体を隅から隅まで確認する。念のためワンピースも見たが、泥どころかシミ一つない綺麗なものだった。


「え……?」


 泥は、出てない。


 薬はまだ効いているのだろう。


 ——では、あの泥は、いったい誰の?


 一つの答えが導き出された瞬間、少女はワンピースを着てトイレから飛び出した。トイレにいた他の女性たちが目を丸くしてけたたましく個室から飛び出してきた少女に目を向けるが、そんなことを気にしている暇はない。少女は駆け出した。彼がまだそこにいることを祈って。


 少し行くと、人だかりが見えた。なんだろうと思い通り過ぎようとして、耳に飛び込んできた言葉に足を止める。人並をかき分けるようにして人だかりの中心に進んでいくと、そこは泥だらけだった。少年が一人、自分の体を抱え込むようにしてうずくまっている。その体の至る所から泥が噴き出ていて、ぼたりぼたりと地面に落ちていた。


「イツキ」


 震える声で、名前を呼ぶ。がばっと勢いよく顔を上げたイツキの顔が、瞬く間に絶望に染まった。分かる、わかるよ。君が何を考えたのか、何に絶望したのか、手に取るようにわかる。薬が切れたかもしれないと焦ってトイレに飛び込んだ、私も同じ気持ちだったから。


 手を伸ばすと、彼は息を呑んで後ずさった。けれどそんなことお構いなしに勢いよく彼に飛びつき、両腕を後ろに回す。ぎゅっと彼の心ごと体を抱きしめると、ぐちゃ、と鈍い音がした。けれどそんなこと気になんてならなかった。「うわ」とドン引いたような声が群衆から漏れる。何を恐れることがあるでしょう! だって、彼女の体からもこの泥は出てくるのに!


「イツキ」


 もう一度、その名前を呼ぶ。この、心に渦巻く激情のすべてが、この声に乗って伝わればいいのにと思った。背中に回した両手から伝わってくれないかと祈った。けれど少女も少年も病人ではあっても超能力者ではないので、言葉にすることにした。


「私もね、同じ病気なの」


「え……?」


 少女の告白に、イツキは目を丸くして少女を見る。彼と彼女の間には何もなかった。


 少女の言葉は、イツキにとってはまるで夢のようだった。絶望なんかどこかに吹き飛んじゃって、心は降ってわいた幸福に驚いていた。


「ほんと……?」


 その幸福を信じられなくて、イツキは震える声でそう尋ねた。そんな彼に少女は首が取れそうなほど何度も頷いた。その動きで、瞳に溜まった涙が飛び散った。


「君は可愛いねって言ってくれたけど、本当は毎日泥だらけなの。みんな気味悪がって近寄らない。だけど、どうしても君に会いたくって、薬を飲んだ」


 君も飲んだんでしょう?


 その事実が何よりも嬉しい。


 だって、彼は一生に一度を私のために使ってくれたのだ!


 同じ気持ちだと信じたかった。あの、会えると決まったときのときめき。燃えるような恋心。もう今日が終わったら死んでしまいたいだなんて、鼻歌交じりに言えてしまえるほどの。


「好きよ」


 初めてのキスは泥の味がした。それが何よりも嫌いだったはずなのに、今心の中は幸福でいっぱいだった。



 あの後、少女と少年は救急車を呼ばれて病院へと連れ戻された。そこで同じ病院にいたのだと知って、また笑ってしまった。


「斉藤、私と彼を同じ病室にしてほしいの」


 そんな少女の頼みに、斉藤は「もちろんです」と大きく頷いた。言われずともそうするつもりだった、だって斉藤は誰よりも少女の幸福を祈っていたのだから。


「私ね、もし世界が一枚の絵だとしたら、きっとこの病室はすぐに破れてなくなっちゃいそうな端っこだと思ってた」


 思い出す。泥だらけのベッドの上で一人泣いた夜。窓の外をぼんやりと眺めて日々を過ごす。この病室は優しい地獄だ。この人生は緩やかな自殺だ。


「けれど、ここが世界の端っこでも、君が一緒ならどうでもいいわ」


 もし破れて吹き飛んでしまって、世界から見放されても。他の誰から疎まれても。


 この泥だらけの世界で、君が隣にいるなら、それでいい。


 それだけで世界は輝くのだから。

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