横断歩道

雨後の筍

第1話

「お姉ちゃん……お姉ちゃん! お姉ちゃんてば!」


 私の視界に入ろうと小さな腕をぐっと伸ばして、両の手を左右にパタパタと振り回し、私の気をひこうと必死になっている小さな影が一つ。


「もう! 何してるの! ダメでしょ!」


「あぁ、ごめんね、悠汰」


 少しぼーっとしてしまっていたみたいだ。


 どのくらいそうしていたのかは分からないが、かなり長い時間その場にいた様な気もするし、弟に呼ばれてすぐ気がついた様な気もする、だいぶ記憶が曖昧だ。


 目の前の横断歩道は赤信号で、辺りの人を見回しても、スマホをいじっていたり、会話に夢中になっていたり、みんな赤色の人に倣ってその場に直立して留まっており、今すぐ動き出さなければいけないという雰囲気では無さそうだった。



 それでも、悠汰は私がぼーっとしていたことに対し、ひどくご立腹の様で、私の腰ほどの位置の両眼は私の目を真っ直ぐ捉えて離さず、その後も細々とお説教をされてしまった。


 私は弟の何か大事な話を無視してしまったのだろうか。

 それならばと、私は六歳児の弟のお説教を甘んじて受ける。


 目の前の横断歩道の信号が赤から青に変わり、大勢の人が波の様に、地面に描かれた長く白いボーダーラインを通り抜けていく。


「あっ、悠汰信号青になったよ! ほら、渡ろう! それと危ないから手繋ごうか」


「ううん、僕もう一人で大丈夫!」


 まるで、どこかの姑の様なマシンガンお小言を言い終えた隙を見計らい悠汰の気を逸らす。


 大丈夫と言った悠汰は、私の半歩程前を位置取り、人の波の中を私の手を握らずにきちんと一人で歩いている。


 それでも不安なのか、私の存在をチラチラと見て確認しながら歩いている。


 相変わらず可愛いなぁ、なんて姉バカな思考で満たされる。


 そして私は、恐らく最大限に姉バカであろう思考に辿り着いた。

 これはもしや不安などで振り向いているのではなく、私をエスコートして、見守りながら歩いてくれているのではだろうか?


「私を守ってくれてるの?」


「そうだよ! 横断歩道は危ないからね!」


 甘えん坊の悠汰が手を握ってこないどころかエスコートなんて。

 私は感動のあまり言葉を失いかけた。


 東京の街は基本的に人でごった返しており、地下鉄やスクランブル交差点なんかは特に人が多く、一緒に外を歩く時や、電車に乗る時は、必ず私の隣に来て不安げに顔を歪ませながら手を伸ばしてきたのに。


 そして手を握った後は、いつも安心して嬉しそうに道路の白線をピアノだと言いながら、踏み締める度に音のズレた音階を好きなように奏でて笑っていたというのに。


 こうしていつの間にか大人になっていくんだなぁと、自分は高校生ながら、まるで親の様に、年の離れた弟の成長をしみじみと感じると同時に、この微笑ましい光景をこれから悠汰が成長していく度に見れるのかと思うと胸が高鳴った。


 妄想の中でどんどん成長を遂げた悠汰が反抗期に差し掛かった頃、ちょうど六歳の悠汰が私をきちんとエスコートしきって横断歩道を渡り終えた。


「一人で渡れたね! すごいじゃん! お姉ちゃんも悠汰のおかげで安心して渡れたよ! けどお姉ちゃん悪口とかはダメだと思うなぁ」


「これくらいよゆーだよ! 後、僕悪口なんて言ってないよ?」


 間違えた、悪口を言ってたのは妄想の中の反抗期悠汰の方だった。


 横断歩道を渡り終えると、ニコニコしてこちらをチラチラと振り返りながら、歩道に沿って前を歩く。


 まだ私の事をエスコートしようとしているのだろうか、もしかしてこれが今、悠汰の中で流行っている事なのだろうか。


 子供というのは、ブームが来ると、狂った様にそれをやりまくる傾向にある。

 周りの人の反応が良いと意外と長続きするが、熱しやすく冷めやすい為、基本的にすぐ飽きてやらなくなるのが小さい子供の常である。


 しかし、すぐ飽きようが紳士の嗜みを身につけようという事なら喜んで協力しよう。

 将来素敵なお嫁さんを迎え入れるときに、レディーファーストの一つもできなければ姉として恥ずかしい。


 目に入れても痛くない程可愛い小学生の紳士にエスコートされながら、ふと一つの疑問が浮かび上がってきた。


「あれ、悠汰今日そういえば何しにきたんだっけ?」


 少し立ち止まりあれこれ思い返すが、何故二人で出かけているのか、さっきの信号待ちの時から前が思い出せない。


「お姉ちゃん忘れちゃったの!? 今日は僕に付き合ってくれるって言ってたのに!」


「あぁ! そうだった! そうだった! お姉ちゃん思い出したよ! 買い物しようって言ってたよね!」


「うん! お姉ちゃんとデートするの!」


 何だこの可愛い生物は、今すぐ人目も憚らず抱きしめたい。


 狂おしいほどの愛おしさと同時に、悠汰に言われて何をしに来たか思い出した。

 そうだった、今日は悠汰と一緒に買い物に出かけると約束をしていた日だったんだ。


 楽しみだ、楽しみだと首を長くして待っていた日がようやく来たと言う事で、張り切っているのだろう。

 少し悪い質問をしてしまった。


 かく言う私も、久しぶりの弟との買い物は、眠れなくなる程ではないが、たまの息抜きにはと、かなり楽しみにしていたはずだった。


 私自身、今年は受験が控えており、普段から毎日塾に通い、勉強漬けの毎日で、辟易としていたので、ちょうど良かった。


 今日も夜から塾に行く予定だが、それまでは私自身も存分にリフレッシュさせてもらうとしよう。


「悠汰、今日はどこいきたいんだっけ?」


「お店いっぱいでゲームセンターあるとこ!」


「あぁ、あそこのショッピングモールね! 好きだねぇあそこ」


「うん! あそこお姉ちゃんも好きでしょ?」


「うん、私も好きだよー! ここからだともうちょっと歩くけど、悠汰我慢できる?」


「うん! 僕もう何でもできるよ!」


 元気の良い返事と共に、きびきびと歩を進める悠汰につられるように、私も足取り軽やかに歩き出す。


 私達の家から、タイミング良く公共交通機関を利用すれば二十分程で辿り着く場所に、そのショッピングモールは大店を張っていた。


 その場所は日々お祭りの様に賑わっており、主に主婦の人などが行く食料品店や、部活動に精を出す学生などが行くスポーツ用品店、華の女子高生達が集う最新のスイーツ店や、可愛い小物雑貨屋などバリエーション豊富な店構えで、流行の最先端にも敏感な、利便性の高いこの大型ショッピングモールは、一際人が多く集まる場所だった。


 そういう私も、家族で一日中遊んだり買い物をしたりして過ごしていた事は記憶に新しい。


 弟の中にも、楽しい記憶としてしっかりと刻まれているのだろう。


 もしかしたらこの子にとっては思い出の場所の一つ、とまで言ってしまえるかも知れない。


「悠汰、私の前ずっと歩くのは良いけど道分かるの?」


「うん! 分かるよ! ちゃんと覚えてる! ちゃんとはぐれない様についてきてね!」


 悠汰は、ニコニコと手招く様に私を目的地へと誘っていく。


 今度は道まできちんと覚えられる様になったなんて。


 子供の成長速度というのは尋常じゃ無いみたいだ。

 是非今の私にも、学力の面でその計り知れない天才的な成長力を分けて欲しいものだ。


 通る道も、きちんと最短で着くような道幅の大きい道を選べている。


 またしても、悠汰の光り輝く宝石の様な将来が楽しみになっていく。


 そして、悠汰の反抗期が終わり、成人式を迎えた頃、気が付けばもうショッピングモールへと到着していた。


「着いたよ! お姉ちゃん!」


「悠汰すごいじゃない! 悠汰もついに大人の階段を登ったのね! お姉ちゃんは袴よりスーツの方がいいと思ったけど袴も似合っ――」


「えっへん、もう僕は大人みたいに何でも一人でできるんだよ!」


 人の会話を遮りながらドヤ顔を向けてくる。


 なんだか今日の悠汰は、やけに大人になる事に拘っている気がする。


 正確には、大人に見られたがっている、と言った方が正しいのかもしれない。


 それが何故かは分からないが、悠汰が楽しいのならそれで良いと、理由は敢えて聞かない。


「悠汰、まずどこから行こっか? ゲームセンター? 文房具屋?」


「お姉ちゃんはどこに行きたい?」


「私?」


 これまた意外だった。


 いつもなら真っ先に行きたいところを提示して全力で願望を通す所存なのだが、今日は私の行きたい場所を聞いてきた。


 なんだか、男の人とデートしている様な、そんな感覚に陥りそうになる。


「んー、私は、まず本屋さんを見たいかな」


 六歳児の気遣いに甘えて、素で行きたい場所を提案する。


「じゃあ、まず本屋さんに行こう!」


 そういうと、悠汰は我先にと、自動ドアと人の間を器用に抜けて、店の中へと走っていった。


「こらこら! 走らないの!」


 私も慌てて後を追いかける。


 何でもない通路にポツンと立っている悠汰を見つける。


「もう、急に走り出さないでよ、迷子になるよ!」


「お姉ちゃん本屋ってどこ?」


 さすがに迷路のようなショッピングモールの中まではエスコートできなかったらしい。


「さすがの悠汰さんでもここはエスコートできなかったかぁ〜!」


「むぅー!」


 不貞腐れて頬を河豚のように膨らませている。


「あはは、ごめんごめん! 機嫌直して! ほら、手繋ご?」


「良いもん! 一人で歩けるもん!」


 そう言い放つと、キュートな河豚はピタリと私の後ろにつけるように旋回した。


「煽り運転? はたまた、ロールプレイングゲームのキャラクターかな?」


「意味わかんない! 早く行って!」


 どうやら煽り運転の方らしい。


 私達は特に会話も無いまま、そのままの隊列で本屋に行き、各々数十分程滞在し、結局何も買わずにそのまま店を出た。


 そして、また次も私の行きたいお店で、という事で雑貨屋に行く事になった。


「本当に悠汰の行きたいところいかなくて良いの? ゲームセンターとか、お姉ちゃん今日お小遣いあるからある程度なら遊べるよ?」


「いいよ! だって大人はそんな遊びしないもん!」


 大人でもする時はするし、なんならどハマりする大人だっているがその辺は黙っておこう。


 けれど、悠汰がこう言っている以上、わざわざゲームセンターに行くのもおかしな話なので、私の行きたい店に行く事にする。


「なら今日はお姉ちゃんの買い物に付き合ってもらおうかな!」


「うん! お姉ちゃんの買い物にお付き合いする!」


 もう河豚は何処かへ行ってしまったらしく、愛らしい笑顔で私を包み込んでくれた。


 それから本屋を出て数十メートル歩いた所に目的の雑貨屋はあった。


 可愛らしい小物や、何に使うかよく分からない物まで、店の隅から隅まで所狭しと並べられている。


 ここでも、店内は別行動で、私は思うがままに可愛らしい小物達を堪能し、癒しを享受し続けた。


 見ているうちに一つ気に入った物があり、それを購入した。


 店から出ると、もう既に悠汰は外に出ており、私の事をじっと待っていた。


「ごめん、悠汰待たせたね!」


「ううん! 僕もちょうど今お店出た所だったから!」


 デートの集合時のお決まりの台詞が、まさか弟の口から出てくるとは思わなかったが、相変わらずの可愛いさでまた癒されてしまった。


「悠汰、ちょっと休憩しようか! フードコートに行こう! 甘い物食べよっか!」


「うん! 分かった!」


 ここでは悠汰の大好きな甘い物を買ってあげよう。


 二人はフードコートへと向かって歩きだす。


「お姉ちゃん、僕お腹空いてないから、席取っておくね!」


 悠汰は唐突にそう言った。


 これは流石におかしい。


 大の甘い物好きで、おやつで夕飯が食べられなくなってもお構いなしの悠汰がフードコートにも興味を示さないなんて。


「悠汰、今日どうしたの? 体調悪いの?」


 流石に甘い物を断る悠汰に不心感を抱き、理由を尋ねる?


「ん? 悪く無いよ?」


 確かに、けろっとした態度で、特に異常がある様には見られない上、何か無理をしている様にも見えない。


「じゃあお姉ちゃんもお腹空いてないから、少しだけお話ししよっか」


 弟は何も食べずに席だけ取らせて、姉だけ何かを食べているのもバツが悪い。


「お姉ちゃんあったあった!」


 フードコートに着くなり、悠汰は空席を見つけ、私を案内する。


 私は、セルフサービスのお水を二杯注いで、案内された席へと向かう。


 机に紙コップを置き、悠汰の座る椅子を下げながら、隣へと座る。

 椅子を下げたらちょこんとお人形さんの様に悠汰が座る。


 まだ背が低いので、少し座面が高いここの椅子は座りにくい様で、ここに来る度に私が隣に座り、面倒を見ていた。


「どう? 僕もう、大人でしょ?」


 座ると同時に悠汰の自慢気な声が飛び込んでくる。


「そうだねぇ 今日の悠汰はおとなだねぇ」


 椅子引いてもらって大人って、と思いつつ茶化した様にしたり顔で言ってみる。


「今日のじゃないの! これからずっとなの!」


「あぁ、そっかそっか、ごめんごめん」


 想像していた斜め上から怒られてしまった。

 子供の話は相変わらず本人にとって重要なところが思いもよらない所に隠れていたりするから分からない。


「でも、今日は偉いねぇ、私の事すごい気遣ってくれて」


「僕は、女の子には優しいんだよ!」


「女の子みんなに優しいの? 私だけじゃなくて?」


 女の子は、特別扱いというのをされて嫌な人はいない。


 そういう難しい女心も学んで行かなければならない時が来るだろうし、今まさにそれが試される時だ、弟よ。


「お姉ちゃんには、特に優しくするよ!」


 そう言って悠汰は、優しくはにかんだ。

 返しは完璧だった。

 姉である私が、キュートなフェイスにくらくらしてしまいそうな程に。

 私の弟は天性のモテ男なのかもしれない。


 沢山の女の子を侍らせて、みんなに対してお前だけは特別だと甘く囁いて歩いている姿を想像し、涙がちょちょ切れそうになるのをなんとか堪える。


「本当に、お姉ちゃんだけに優しくしてね?」


 弟の言う事に何を私は真面目に嫉妬しているのだろうか。


 それくらい、許してやらなければお嫁さんなど出来やしないと言うのに。


「もちろん! 神様に誓う!」


 そんな思いとは裏腹に、神様に誓ってくれる純粋無垢な悠汰に心を奪われた。


 こんなに可愛い生き物からの優しさを独占してごめんなさい、そしてありがとうございます神様。


 来たるべき時には、必ずや弟離れします。


「ありがとう、悠汰! それじゃあ、そろそろ休憩終わり! 行こっか!」


「うん! 分かった!」


 さすがに、水一杯でいつまでも席を占有するわけにはいかない。


 私はその場でくいっと水を飲み干したが、悠汰のコップには並々と注がれたままの水が入っており、飲まないと言うので、そのまま紙コップと共に捨てて、席を立った。


 後半戦も、私達は適当に何軒か店をまわったが、何かを買う事はなく、二人で和気藹々と店を巡り、時は過ぎた。


「じゃあ、そろそろ帰ろうか」


 私が帰宅を進言すると、悠汰はにこやかに頷いた。


 今日はどこまでも素直でやりやすい。


 私達は、ショッピングモールを出て、朝来た道を引き返す。


 今日は、良い息抜きになった。


 悠汰の可愛らしいとこや、男らしい一面も見れた。


 ちらりと張本人を見ると、一日中歩き回って疲れたのか、下を向き、まるで人形の様に一言も話さなくなっている。


 それでも、私の前を歩いてくれるのだから偉いもんだ。


 そして、今日のデートのスタート地点である、横断歩道でまたしても赤色に直立する人に通せんぼされた。


「また、ここで止められちゃったね」


「うん」


 悠汰は素っ気無く吐き捨てる様に返事をする。


「悠汰疲れた? おんぶしてあげよっか?」


「いい! 大丈夫!」


 強い語感の割に悠汰は、相変わらず俯き加減だ。


「楽しかったね? 今日」


「うん」


「何か言いたい事があるなら、言ってみ?」


 私は意を決して、悠汰に核心をついた質問をした。

 おおよそ、私にとって何かやましいことでもしていて、今日はご機嫌取りがてらエスコートをしたという、そんな所だろう。


 だが作戦大成功だ弟よ、私は今、どんな悪戯のネタバラシでも許せるよ。


 悠汰は、驚いた様な顔でこちらを覗き込んだ後、少し迷った様子を見せてから、意を決したのか、一言一言噛み締めるように呟いた。


「お姉ちゃん、僕そろそろ行かないと行けないみたい」


 突然要領を得ない事を言い出し、困惑する。


「何言ってるの? 行くとこなんてないでしょ? お家に帰ろう」


「僕おうち帰らない」


 思っても見ない返答に戸惑いが隠せない。


「家に帰らないわけにはいかないでしょ、ほらおいで」


「帰らない」


 今日一日ずっと駄々の一つもこねずに、私への気遣いを沢山してくれたのに、最後の最後で意味の分からない我儘が炸裂した。


 なんだか、六歳児とは思えないくらい儚げで、まるでこの世の全てがもう後少しで無くなるかの様な、そんな物惜しそうな表情。

 あどけない顔つきから見せる何かを悟った様なその顔に、私の心の中はぐちゃぐちゃとかき乱され、焦りや、不安、言い得ない程の恐怖に襲われた。


「もう! そんな事言ってないで帰るよ! またいつでもお姉ちゃん一緒に遊んであげるから!」


 ついつい口調が荒くなる。


「お姉ちゃん……」


「もう! ほら! 行くよ!」


 半ば、やけになり、悠汰の腕を掴みちょうど青になった横断歩道を渡ろうとした時だった。


 確かに掴んだはずの悠汰の腕の感触が無い事に気が付いた。


「僕……帰れないんだ……」


 私の手は、掴んだはずの悠汰の腕をすり抜けていた。


「あぁ……!! あぁぁ……!!」


 心がざわざわと揺れ、周囲の動きが静止画の様に遅く感じる。


 普通に動いているのは、私と悠汰だけ。


 そして、止まっていた時が再び動き出すかの様に、私の心の奥深くの重たい扉が開いた。


 そうだった、今全てを思い出した。


 悠汰は二週間前に亡くなったんだ。


 交通事故でトラックに撥ねられて、そのまま亡くなってしまったんだ。


 ちょうどこの横断歩道で。


 今日一日の出来事はあの日と全く同じだ。


 さっき悠汰が呟いた言葉を理解する。


 そっか、悠汰は、もう家には帰れないんだ。

 反抗期も無ければ、成人式の袴を着ることもない。


 そして、私は今日、あの横断歩道で死のうとしていたんだった。


 ぼーっとしていた訳ではなく、全てを諦め、苦しみから逃れ、私の全てをやめてしまう為に。


 あの日は、今日と同じ事をしたが中身は打って変わって私が悠汰に振り回されていた。


 悠汰の行きたい所に行き、食べたいものを一緒に食べ、心ゆくまで遊び尽くしていた。


 私も受験の疲れから解放されたその一時は、可愛い弟に振り回されるのもちょうど良い気分転換になっていた。


 しかし、帰りしなになって悠汰はあの横断歩道で駄々をこね始めた。


 帰りたくない、もっと居たいと。


 私も夜には塾に行かないといけないので、このままだと遅刻すると、かなり焦っていた。


 それでもこっちの事情もお構いなしに、もっと遊びたい遊びたいと言う事を聞かずに駄々をこねて、我儘を突き通そうと躍起になっている。


 信号が何回変わっても悠汰は折れてくれず、周囲の目が痛いくらいに私に刺さる。


 私は次第に苛々が募っていった。


 今思えば、私と居た時間が楽しいからこその我儘だったのに、それを許してあげられなかった。


 塾の一回くらい、サボって付き合ってあげれば良かった。


 そして、苛々が我慢の限界に達した時、握っていた悠汰の手を離し、言ってはいけない一言を口にしてしまった。


 次の瞬間、悠汰は泣きながら前も見ずに走り出してしまったのだ。

 赤色の信号が灯った横断歩道へと。


 そこから先は、全てがちょうど今みたいにスローモーションの様に見えた。


 危ない!


 そう声をあげた時にはもう遅く、横断歩道には白線を踏む時のいつもの可愛らしいズレた音階などではなく、鉄の塊の醜い金切声とゴムの摩擦音だけがこだました。


 運転席にいた人物の顔が青ざめていくのが見える。


 周囲の人がざわつきだす。


 赤い人物はこんな時でも直立を崩さない。


 私は目の前で起きた事実に耐えられず、ただ呆然と立ち尽くすのみだった。


 そこからの私は雪崩れるように塞ぎ込んだ。


 後悔で毎日泣き続けた。

 あの時、手を離さなければ、もっとしっかりお姉ちゃんとしての振る舞いをしていれば。


 もう悠汰なんか知らない、私の弟じゃない。


 あんな酷い最低な言葉が最後の言葉になるなんて。


 ごめんね悠汰、本当にごめんね。

 いくら謝っても悠汰は帰ってこないし、私の自責の念が晴れる訳もない。

 母と父はやつれた顔をしながら、誰のせいでもないよと、私を慰めてくれる。


 もういっそ、私のせいだと言って欲しい、お前のせいで、死んだんだと怒りをぶつけて欲しい、誰のせいでもないのにあんな良い子だった悠汰が、死ななければならないなんておかしい。


 悠汰の事を考えると、瞳の奥の方から涙がまた溢れ返ってくる。


 あの子の代わりに私が死ねば良かったなんて、意味の無い事ばかり繰り返し考え、また塞ぎ込む。


 そんな日々に耐えられなくなり、私は今日、気がついたら悠汰の亡くなった横断歩道までふらふらと足が向いていた。


 最後の一歩を踏み出す為に。


 しかし、そんな自暴自棄になった私を見兼ねて、悠汰はこの世界に戻ってきてくれた。


 最後の一歩を踏み出す前に、私を止めて、叱ってくれた。


「悠汰、また会いに来てくれてたんだね、気がつかなかった、ごめんね、ありがとう」


「ううん、全然いいよ! それよりあの時、間に合って良かったね、僕が止めなかったら、お姉ちゃん車に轢かれてたよ?」


「そうだね、悠汰のおかげで助かったよ、ほんとありがとね」


 無邪気な笑顔が眩しく、直視できなかった。


「お姉ちゃんが僕の名前を呼びながら泣いてるとね、僕は心配で心配でたまらなくて、泣かないでってずっと叫んでたら気持ちが届いたみたい! お姉ちゃんとお話できたんだ! すごいでしょ?」


 悠汰は、私の涙と悠汰の想いが重なって、私の元へ来れたという。


 そうだったんだ、悠汰は私の為に、私を元気付ける為に今ここに戻って来てくれたんだ。


 ならもう私は泣いてはダメだ、前を向くんだ。


 私が泣いてしまったら、悠汰は安心して天国に行けないから。


「そうだね、すごいすごい、悠汰は本当にすごいね……」


 ダメだ、泣いてはいけない。

 今だけは、いや、これからは笑うんだ、私。


 掠れる声を押し殺しながら悠汰の頭を撫でる。

 が、触れようとした頭には無情にもすり抜けてしまい手が届かない。


「お姉ちゃん、あの時言うこと聞かなくてごめんなさい、ずっとちゃんと謝りたかったんだ」


「ううん、いいのよ、私の方こそ怒ってごめんね、怖かったよね」


「ううん、大丈夫」


 本当は悲しいはずなのに、悠汰はぐっと堪えて許してくれた。


「ありがとね、悠汰は偉いね、もう立派な男の子だ!」


「そうだよ! 女の子は僕が守るの!」


「うん! きちんとエスコートしてあげて! 良い人が見つかったら私にちゃんと言う事! 良いね!」


「分かった!」


 もう弟離れの瞬間が来てしまったようだ。


 悠汰はやっぱり天才だ、私の弟という肩書だけでいるには勿体無いほどの大器だ。


「お姉ちゃん……」


「ん? 何?」


 悠汰は私の顔色を伺いながら恐る恐る尋ねる。


「僕、良い子にするからお姉ちゃんの弟でいていい?」


 あぁ、そういうことか。

 今日一日、大人びた行動をとっていたのは、私が死ぬ程後悔していた最期の言葉を気にしていたからだったのか。


 だから、今日一日大人になろうと必死に頑張ってくれていたのか。


 私は気がついたら前が滲んで見えなくなっていた。


 今、悠汰はどんな顔をしているのだろう。


 愛しい愛しい私の弟は今、笑っているだろうか。


 私は今、笑えているだろうか。


 ちゃんと見てあげたい、二度と瞳の奥から離れぬよう、焼き付けておきたい、でも私は今笑っているんだ、目を擦るのは泣いている時にする事だから、今やったら駄目なんだ。


「もちろん! 悠汰はお姉ちゃんの大事な大事な、世界でたった一人の弟だよ!」


 最期に言えなかった、けれど本当に言いたかった言葉を、私は悠汰に伝えた。


「お姉ちゃん、大好き」


 軽い音と共に、頬に柔らかい何かが触れたような感触があった。


「お姉ちゃん、僕そろそろ行くね、またお婆ちゃんになったら僕に会いに来てね」


 もう行ってしまうなんて、もっと話がしたい、ずっと側にいて欲しい。


「悠汰! ありがとう! お姉ちゃんもう泣かないから! 安心して行っていいよ!」


 心とは裏腹に、私の声は悠汰の背中を押す。


「うん! お姉ちゃんならもう大丈夫だよね!」


「悠汰、寂しいかもだけど、待っててね、もう少し時間かかるけど、ちゃんとそっちに行くから」


「うん、ちゃんと待ってるね」


 悠汰の声は次第に遠くなっていく。


「お姉ちゃん、またね」


 その一言を最期に、滲んだ世界に美しい光の粒が瞬いた。


 悠汰はいなくなってしまったのだと、感覚で理解した。


 本当のお別れが来たのだと。


 けれども、私は悲しくなんか無い。


 もう泣かない、悠汰と約束したから。


 強く生きるんだ、悠汰に命を救ってもらったから。


 私は、横断歩道の隅に飾られてある花束の中に一つ、今日雑貨屋で買った、小物をそっと飾った。


 仲睦まじい姉弟を象った置物は、満面の笑みでお互いを見つめていた。


 私は、前を向き、青になった横断歩道へと、大きな一歩踏み出した。

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