第2話 休暇
「橋本君、年末の予定のことなんだけどさ……」
昼休み、橋本は水田からそう話を切り出された。
年始は3日まで休みだが、年末は30日まで仕事の予定だったはずだ。ビル清掃の仕事はテナントからの要望で簡単に変わることも珍しくない。どうせ31日まで仕事に出てくれないか?という内容だろう。年末年始といえど特に予定があるわけでもないので、仕事になっても構わないと橋本は思っていた。
「休みが3日間増えたから。28日から休みね。有給溜まってるから使っとくよ」
水田から告げられたのは予想とは逆のことだった。
「たまには実家帰って親御さんに顔見せてきてあげなよ。顔見せてくれるだけで親は嬉しいもんだよ。橋本君、出身は名古屋だっけ?」
「……愛知県です。」
話のペースを水田に完全に持っていかれないように、橋本はささやかな抵抗を試みた。
「ほら、あれ買ってきてよ。きしめん!俺あれ好きなんだよね。」
「いや、好きなら自分で店行って食べた方が美味いんじゃ……乾麺とかなら通販で頼めば良いですし……」
「まあまあ良いじゃん。橋本君が買ってきたものが食べたいんだよ。」
その後も橋本は抵抗を続けたが、完全には断りきれなかった。
まったく、水田はどういうつもりなのだろうか?まさか本当にきしめんが食べたいだけなのだろうか?流石にそれはないだろう。橋本と家族との関係を心配して本気の善意で言ってきているのだろうが、こうも迷惑なことはない。
だが水田とは話を完全に無視できるような関係ではない。単にバイトと上司ならば適当に受け流しておけば良いのだろうが、水田には生活上の相談に乗ってもらったこともあるし、飯を奢ってもらったことも何度もある。ついでに言うと何となく期待に答えてあげなければならないような人間的魅力が水田にはある。そして今の橋本には人間関係と呼べるようなものはこの職場……つまり実質水田一人との関係しか残っていないのだ。
そもそも東京の大学に通うことを両親は反対していた。それでもどうしても東京の大学に通いたかった橋本は、なるべく学費の安い夜間の学部を選び進学した。橋本の意志の強さを知った両親は最終的に年間数十万円という学費を負担してくれたが、生活費は全て自分で工面しなければならなかった。
朝から夕方までは毎日バイト漬け。眠い目を擦りながら受けた授業が現在身になっているかは疑問だが、それでもこの辛かった学生時代が一番充実していたことは間違いない。いつも金がなかったので友人と遊びに行くことは少なかったが、東京での生活は全てが新鮮で刺激に満ちていた。何より、自分の人生を自分の意志で決められているような……そんな感覚は橋本の人生において初めての経験だった。
大学に通うため東京に出てきてからのこの十年間、橋本は一度として実家の敷居を跨いだことがなかった。もう父親の顔は朧気にしか覚えていない気がする。母親からは時々メールが来ることがあったが、返信するのは五通に一通くらいだった。
(……そんな俺が今さら実家に帰ってどうすりゃ良いんだよ?)
水田の「実家に帰って親に顔を見せろ」という言葉が妙に熱を帯びていたように思い出されて、橋本は苦笑した。
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