　百（ペク）済（チェ）の鬼（クィ）室（シル・）福（ポク）信（シン）は、倭（ワ）国（こく）の反（はん）応（のう）が鈍（にぶ）いことに焦（じ）らされている。

　この国（くに）は新（シン）羅（ラ）と唐（タン）によって急（きゅう）襲（しゅう）され、都（みやこ）と王（コンキシ）を奪（うば）われたために、全（ぜん）城（じょう）が形（けい）式（しき）的（てき）に降（こう）伏（ふく）したとはいえ、全（ぜん）力（りょく）を挙（あ）げて戦（たたか）い敗（やぶ）れたわけではない。弓（ゆみ）矢（や）も矛（ほこ）も兵（ひょう）糧（ろう）もまだ消（しょう）耗（もう）してはいない。全（ぜん）土（ど）が反（はん）攻（こう）に転（てん）じれば勝（しょう）算（さん）が立（た）つ。ただしそのためには、王（コンキシ）というものが無（な）ければ、人（ひと）々（びと）の心（こころ）を繋（つな）げない。

　福（ポク）信（シン）は任（イム）存（チョン）山（さん）の柵（さく）に篭（こ）もった昨（さく）年（ねん）秋（あき）八（はち）月（がつ）、初（はじ）めは泗（サ）沘（ビ）城（じょう）に囚（とら）われた王（コンキシ）を救（すく）い出（だ）すつもりであったが、新（シン）羅（ラ）の兵（へい）に攻（せ）められて準（じゅん）備（び）が遅（おく）れ、そのうち九（く）月（がつ）三（みっ）日（か）に蘇（ソ・）定（テン）方（パン）は王（コンキシ）らを連（つ）れ去（さ）ってしまった。そこで貴（クィ）智（チ）を使（つか）いに立（た）てて倭（ワ）国（こく）へ送（おく）り、豊（プン）璋（チャン）の送（そう）還（かん）と援（えん）軍（ぐん）を乞（こ）うたのであった。人（ひと）々（びと）には、

「唐（タン）は新（シン）羅（ラ）と誓（ちか）い、我（われ）らをみな殺（ころ）し、然（しか）る後（のち）に国（くに）を新（シン）羅（ラ）に与（あた）えなむとしつ」

　という噂（うわさ）を流（なが）して、あくまで抗（あらが）うように仕（し）向（む）けた。

　九（く）月（がつ）下（げ）旬（じゅん）には、身（み）軽（がる）な者（もの）を泗（サ）沘（ビ）城（じょう）に潜（せん）入（にゅう）させて、捕（ほ）虜（りょ）を取（と）り返（かえ）したりもしたが、逆（ぎゃく）に各（かく）地（ち）の山（さん）中（ちゅう）に築（きず）いた拠（きょ）点（てん）や、反（はん）抗（こう）の呼（よ）びかけに応（おう）じた城（しろ）を攻（せ）められて、苦（く）戦（せん）を強（し）いられもした。

　福（ポク）信（シン）にとって心（こころ）強（づよ）いのは、高（コ）麗（リョ）がその王（コンキシ）と大（だい）臣（じん）淵（イル）蓋（・カ）蘇（ス）文（ム）のもと、一（いっ）致（ち）団（だん）結（けつ）して闘（たたか）う姿（し）勢（せい）を示（しめ）していることであった。高（コ）麗（リョ）にしてはもはや百（ペク）済（チェ）の牽（けん）制（せい）が期（き）待（たい）できない以（い）上（じょう）、いかなる攻（こう）撃（げき）にも徹（てっ）底（てい）して争（あらそ）う必（ひつ）要（よう）があるのだ。

　唐（タン）は早（はや）くもその冬（ふゆ）十（じゅう）一（いち）月（がつ）、左（さ）武（ぶ）衛（えい）大（たい）将（しょう）軍（ぐん）の蘇（ソ・）定（テン）方（パン）をはじめ、右（ゆう）武（ぶ）衛（えい）大（たい）将（しょう）軍（ぐん）の契（ケイ）苾（ビツ）何（・ハ）力（リク）、左（さ）驍（ぎょう）衛（えい）将（しょう）軍（ぐん）の劉（リウ・）伯（パク）英（イェン）、蒲（ボ）州（チウ）刺（し）史（し）の程（ジェン・）名（ミェン）振（チン）らを差（さ）し向（む）け、高（コ）麗（リョ）に侵（しん）攻（こう）する作（さく）戦（せん）を企（くわだ）てた。しかし寒（さむ）さの厳（きび）しい高（コ）麗（リョ）の冬（ふゆ）は、南（なん）方（ぽう）出（しゅっ）身（しん）の者（もの）も多（おお）い唐（タン）の兵（へい）士（し）には耐（た）えがたく、攻（せ）めあぐねたまま年（とし）を越（こ）していた。

　今（こ）年（とし）の春（はる）二（に）月（がつ）、福（ポク）信（シン）は

「王子（セシム）を迎（むか）えて王（コンキシ）として戴（いただ）かむとするには、必（かなら）ず泗（サ）沘（ビ）城（じょう）に拠（よ）るべし」

　と号（ごう）令（れい）し、呼（こ）応（おう）した西（せい）部（ぶ）と北（ほく）部（ぶ）の兵（へい）を率（ひき）いて、鎮（ちん）将（しょう）劉（リウ・）仁（ジン）願（グェン）を攻（こう）囲（い）した。闘（たたか）いは月（つき）をまたいで続（つづ）いた。しかし帯（タイ）方（パン）州（しゅう）刺（し）史（し）の劉（リウ・）仁（ジン）軌（クィ）が至（いた）り、昨（さく）年（ねん）熊（コム）津（ナル）に都（と）督（とく）として赴（ふ）任（にん）した直（ちょく）後（ご）急（きゅう）死（し）した王（フヮン）文（・ブン）度（タク）の手（て）勢（ぜい）と、新（シン）羅（ラ）の兵（へい）を指（し）揮（き）して仁（ジン）願（グェン）に助（じょ）勢（せい）した。そのために福（ポク）信（シン）らは囲（かこ）いを解（と）いて逃（に）げねばならなかった。

　この三（さん）月（がつ）、皇（こう）帝（てい）は顯（けん）慶（けい）六（ろく）年（ねん）を改（あらた）めて、竜（りょう）朔（さく）元（がん）年（ねん）と号（ごう）した。

　唐（タン）はこの夏（なつ）に陣（じん）容（よう）を整（ととの）え直（なお）し、任（ジム）雅（・ガ）相（シャン）を浿（パイ）江（カン）道（どう）行（こう）軍（ぐん）大（たい）摠（そう）管（かん）、契（ケイ）苾（ビツ）何（・ハ）力（リク）を遼（レウ）東（トゥン）道（どう）行（こう）軍（ぐん）大（たい）摠（そう）管（かん）、蘇（ソ・）定（テン）方（パン）を平（ビェン）壌（ジァン）道（どう）行（こう）軍（ぐん）大（たい）摠（そう）管（かん）、蕭（セウ・）嗣（ジー）業（ゲプ）を扶（プ）余（ヨ）道（どう）行（こう）軍（ぐん）大（たい）摠（そう）管（かん）とし、回紇（ウイグル）や胡（こ）人（じん）の傭（よう）兵（へい）を含（ふく）む大（たい）軍（ぐん）を以（もっ）て高（コ）麗（リョ）を攻（こう）撃（げき）する作（さく）戦（せん）を発（はっ）した。その力（ちから）の入（い）れようは、皇（こう）帝（てい）が自（みずか）ら軍（ぐん）を将（ひき）いて征こ（ゆ）うと欲（ほっ）し、皇（こう）后（ごう）が苦（く）言（げん）したことによって止（と）められたと云（い）われるほどであった。

　新（シン）羅（ラ）も唐（タン）を援（えん）助（じょ）するために高（コ）麗（リョ）へ戦（せん）力（りょく）を振（ふ）り向（む）けねばならず、福（ポク）信（シン）には勢（せい）力（りょく）を盛（も）り返（かえ）す暇（いとま）が与（あた）えられた。加（くわ）えて夏（なつ）六（ろく）月（がつ）に新（シン）羅（ラ）の王（コンキシ）が死（し）んだことは、さらに福（ポク）信（シン）に期（き）待（たい）を抱（だ）かせた。新（シン）羅（ラ）では太子（コンセシム）の法（ポッ）敏（ミン）が王（コンキシ）の位（くらい）を継（つ）いだが、まさか傑（けつ）物（ぶつ）であった父（ちち）親（おや）ほどの能（のう）力（りょく）はあるまいと思（おも）われる。新（シン）羅（ラ）には王（コンキシ）の喪（も）に入（はい）ったばかりで高（コ）麗（リョ）へ参（さん）戦（せん）せねばならないことに不（ふ）満（まん）があり、また唐（タン）の軍（ぐん）勢（ぜい）に莫（ばく）大（だい）な食（しょく）糧（りょう）などを供（きょう）給（きゅう）させられることも予（よ）想（そう）される。

　福（ポク）信（シン）は焦（じ）れた。今（いま）こそ豊（プン）璋（チャン）を迎（むか）えて反（はん）撃（げき）の旗（はた）印（じるし）としたいのに、倭（ワ）国（こく）から良（よ）い報（しら）せはまだ来（こ）ない。一（いっ）体（たい）今（いま）まで歴（れき）代（だい）の我（わ）が百（ペク）済（チェ）の王（コンキシ）が、倭（ワ）の王（コンキシ）に対（たい）してしてきたことは何（なに）であったのか。呉（オ）の天（てん）子（し）への朝（ちょう）貢（こう）を仲（ちゅう）介（かい）してやり、書（しょ）物（もつ）や職（しょく）人（にん）を斡（あっ）旋（せん）してやり、勿（もっ）体（たい）なくも仏（ぶっ）教（きょう）をも伝（つた）わるように計（はか）らってやったではないか。豊（プン）璋（チャン）の身（み）柄（がら）を預（あず）けたことも、倭（ワ）の王（コンキシ）の威（い）信（しん）を高（たか）めるのに役（やく）立（だ）ったはずである。これらは全（すべ）て非（ひ）常（じょう）の時（とき）のためになると期（き）待（たい）したからではなかったのか。

　秋（あき）七（しち）月（がつ）になって、

「倭（ワ）の王（コンキシ）、軍（いくさ）立（だ）ちせむとして死（みまか）りぬ。かれ太子（コンセシム）、跡（あと）を継（つ）ぎて王（コンキシ）となれり」

　との急（きゅう）報（ほう）が伝（つた）えられた。倭（ワ）の太子（コンセシム）は豊（プン）璋（チャン）に親（した）しいと聞（き）いている。福（ポク）信（シン）は一（いち）縷（る）の望（のぞ）みを繋（つな）いだ。

　中（なかノ）大（おお）兄（えノ）皇（み）子（こ）が後（のちノ）崗（おか）本（もと）天（ノてん）皇（のう）の跡（あと）目（め）となるべきことは、もはや同（どう）世（せ）代（だい）の皇（こう）族（ぞく）には順（じゅん）位（い）を争（あらそ）いうる者（もの）も無（な）く、誰（だれ）にも異（い）論（ろん）の差（さ）し挟（はさ）めぬ所（ところ）であった。八（はち）月（がつ）一日（ついたち）に、中（なかノ）大（おお）兄（え）は天（てん）皇（のう）の棺（ひつぎ）を奉（ほう）じて、朝（あさ）倉（くら）宮（ノみや）から川（かわ）を下（くだ）って那（なガ）津（つノ）行（かり）宮（みや）に至（いた）った。

　中（なかノ）大（おお）兄（え）と鎌（かま）足（たり）は、百済（くだら）を救（すく）う兵（へい）を大（おお）船（ぶね）に乗（の）せて行（い）かせるという計（けい）画（かく）を、ここに来（き）て棄（す）てた。それは胸（むな）形（かた）君（ノきみ）徳（とく）善（ぜん）の意（い）見（けん）によるものであった。徳（とく）善（ぜん）は、

「我（われ）ら僻地（ひな）の者（もの）なれば、かように大（おお）きなる船（ふね）は見（み）も慣（な）れず、扱（あつか）いにも困（くる）しむべらなり」

　云（うん）々（ぬん）と頭（あたま）を下（さ）げて説（と）いたが、その趣（しゅ）旨（し）は船（ふね）が大（おお）きければ闘（たたか）いに強（つよ）いというものではないということである。徳（とく）善（ぜん）の肌（はだ）が黒（くろ）々（ぐろ）として、潮（しお）風（かぜ）に刻（きざ）まれたらしく、皺（しわ）の深（ふか）い顔（かお）から出（で）る言（こと）葉（ば）に、中（なかノ）大（おお）兄（え）と鎌（かま）足（たり）は、自（じ）身（しん）机（き）上（じょう）の学（がく）問（もん）家（か）に過（す）ぎないことの引（ひ）け目（め）を感（かん）じたのであろう。

「聴（ゆる）す」

　と中（なかノ）大（おお）兄（え）は言（い）って、伝（でん）統（とう）的（てき）な小（こ）舟（ぶね）による遠（えん）征（せい）軍（ぐん）の編（へん）成（せい）を許（きょ）可（か）した。

　大（おおし）海（あ）人（まﾉ）皇（み）子（こ）は、せめてもの抵（てい）抗（こう）が成（せい）功（こう）したことに、わずかながら溜（りゅう）飲（いん）を下（さ）げた。

　この八（はち）月（がつ）、阿（あ）曇（づみノ）連（むらじ）比（ひ）羅（ら）夫（ぶ）、河（かわ）辺（ベノ）臣（おみ）百（もも）枝（え）を前（ぜん）将（しょう）軍（ぐん）、阿（あ）倍（へノ）引（ひけ）田（たノ）臣（おみ）比（ひ）羅（ら）夫（ぶ）、物（ものノ）部（ベノ）連（むらじ）熊（くま）、守（もり）君（ノきみ）大（おお）石（いわ）を後（こう）将（しょう）軍（ぐん）とし、五（ご）千（せん）余（あま）りと号（ごう）する水（すい）軍（ぐん）を、百済（くだら）へ送（おく）ることがようやく決（き）められた。

　九（く）月（がつ）、中（なかノ）大（おお）兄（え）は自（みずか）ら倭（やまと）王（ノきみ）と称（しょう）し、豊（ふ）璋（しょう）に大（だい）織（しき）の冠（こうぶり）と、太（おお）臣（ノおみ）の女（じょ）性（せい）を妃（きさき）として与（あた）え、狭（さ）井（いノ）連（むらじ）檳（あじ）榔（まき）と秦（はだノ）造（みやつこ）田（た）来（く）津（つ）を護（ご）衛（えい）として着（つ）け、その国（くに）へ送（おく）り出（だ）す。冠（こうぶり）を与（あた）える時（とき）に、

「ああ汝（なんじ）糺（く）解（げ）よ」

　と中（なかノ）大（おお）兄（え）はその相（あい）手（て）を、豊（ふ）璋（しょう）という字（あざな）ではなく、全（まった）く目（め）下（した）に見（み）て諱（いみな）で呼（よ）び付（つ）け、

「天（てん）皇（のう）の遺（のこ）せし詔（みことのり）を奉（たてまつ）りて、汝（なんじ）を百済（くだらノ）国（くに）へ遣（つか）わし、王（こにきし）の位（くらい）を取（と）らさむ」

　と続（つづ）けた。

　豊（ふ）璋（しょう）はいよいよ死（し）ぬべき所（ところ）へ向（む）かう時（とき）を知（し）った。

　百済（くだら）への第（だい）一（いち）陣（じん）を送（おく）り出（だ）した後（あと）、冬（ふゆ）十（じゅう）月（がつ）七（なの）日（か）、中（なかノ）大（おお）兄（え）は人（ひと）々（びと）を率（ひき）いて、棺（ひつぎ）をあの船（ふね）に載（の）せ、東（ひがし）へ引（ひ）き揚（あ）げる航（こう）路（ろ）に就（つ）いた。中（なかノ）大（おお）兄（え）と鎌（かま）足（たり）にとっては、ついに思（おも）うままの王（おう）朝（ちょう）を築（きず）くための船（ふな）出（で）である。この途（と）次（じ）に、