白雉の遣唐使(上)

 たいろくねんしょうがつに、たまたまあなとノくにしろきじりにされた。きじもうしろいものはまれにはかることがあるものである。

 このことがなににもつたえられて、かまたりみみにもはいった。かまたりなかノおおってあなとノくにひとり、しろきじみかどけんじょうされるようにくばった。

 はるがつここのしろきじなにわノみやとどけられるに、みかどおおぜいひとあつめられた。とりかごみなとから輿こしせられてみやのぼってた。なかノおおえノは、

みかどにおかれてはかようなものがあらわれけることは何故なにゆえにしてあるかとわせたまう」

 としょうけんもとめた。しょうあたまなかしょいて、

かんじょいわく、かんめいていえいへいじゅういちねんときりんしろきじあまいずみよろしあわ所在いたるところいずる」

 うんぬんと、そのじゅつがあるというじつだけをこたえた。そこでせノとこだノおおおみもんされるところこころそんたくして、

いま睹ざるもの、みみかざるものなれば、くにぐにおおいにつみゆるしたまい、たみよろこびをともにしたまうべし」

 とよこからくわえた。そうみんも、

「これ吉祥きっしょういて、めずらしきものとするにれり」

 として、しろきじなるものは、おうじゃとくあふれ、そのせいただしく、さいそくく、しょくせつがあるときに、てんがそれにこたえてつかわすものだとべたうえで、やはりしょもつからいろいろれいいてじっしょうとし、かさねて

「これ吉祥きっしょうなり。くにぐにつみゆるしたまうべし」

 とこたえた。

 そこでこのしろきじは、みやかこいをもうけてわれることとされ、じゅうにちにはそのしゅつげんいわしきひらかれた。しゅくてんようはまるでしょうがつがんじつれいのようにせいだいなもので、ここでたいろくねんあらためて、はくがんねんごうすることがせんされた。


 おおしまノからると、あにかまたりはこのぎょうぎょうしいかいげんじっもって、いしかわノごろしからおもうようなごたえがられなかったことをわすれようとし、またひとびとにもそのけんわすれられることをたいしているようであった。

 またあにかまたりにはべつもあることがかんじられた。それはなにわノみかどにもっとけんたせようということであり、よりたかけんによってほうれいじっこうくにぐにしたがわせようということである。いままでのことはすべみかどわたっていないからいけなかったので、それさえなんとかなればうまくいくようになると、ふたしんじているようなのだ。

 おうけんしんこうじょうのために、なにわノみかどとうこうていあいだこっこうむすぶことも、あにかまたりはこのまえからかんがはじめていたようであった。たいさんねん新羅しらきノくにからこんしゅんじゅうしょうしたことも、とうとのこうしょうあしかりにすることがもくてきひとつであるらしかった。

 しゅんじゅうがわずかすうげつこくしたあとさくねんになって新羅しらきノこにきし金多遂クム・タスイというひとおくんできた。すい王子せしむであるしゅんじゅうくらべるとなんとうおとっている。しかしかまたりはこれも新羅しらきノこにきしなにわノみかどそうしゅみとめてけんじょうしたしちであるとしてせんでんした。新羅しらきとしてはこれによってやまとノくに百済くだらノくにえんぺいさぬようによくするがあるということには、あにかまたりいていないか、あるいはらぬふりをしている。

 はくかいげんしてから、あにかまたりはほとんどほかのことをほうてきして、けんとう使てることにねっちゅうしているようであった。このおとうととしてあにものぐるいをしているようにかんじられるのは、このためにはやまとノくににかつてれいいほどおおきいふねひつようだとしたことだ。たしかにかいがいふねはそのくにしょうちょうする。それはそうであろう。

 しかしおおしには、うみのことはあによりはいくらかくわしくわかるのである。おおしというは、ちちからよういくやくとしてけられたおおしあまノむらじといううじからている。おおしあまノむらじだいだい海人あまつかさどることをになったうじであった。

ふねなるものは、おおきくばこころやすしとはおもおすな」

 おおしあまノむらじぞくする乳母うばから、なんかそうかされた。ふねおおきいほどしずみやすいとは、ちょっかんはんすることだけに、よくおぼえている。ようふねつくり、またあやつじゅつげんかいちかくほど、けんおおきくなるということなのだ。ましてやげんかいえたおおぶねなどうみしてはどうなるであろうか。


 おおしねんをよそに、かまたりなかノおおとともにけんとう使けいかくすすめた。きノくにぎノくにくばりをして、もくざいふなだいかくしつつある。もくざいなにわノみやぞうえい使つかうものでもあったし、みやこつうじるどうせいすすめられた。

 はくさんねんあきがつみかどいて、なにわノみやらくせいしたとせんげんされる。せいしきにはなにわノながらノとよさきノみやと、しいあたえられた。

 かまたりはこのたびのけんとう使に、このとしじっさいかぞえるちょうなんくわえるつもりでいる。それはかつておのれがこのなにみなとそうした、しゅっしてうみわたろうというおもきのじつげんとなる。そのためのじゅんがくでもあるそうみんたのんだ。

 そうみんはこのろうこつさいごとともおもい、かまたりいにおうじて、そのしゅっさせ、かいみょうじょうあたえた。

 けんとうせんかんせいは、はくねんされた。けいかくそうていよりもおくれている。そのげんいんひとつは、新羅しらきとのこうしょう調ちょうしょうじてきたことであった。かまたりきたうみみちり、新羅しらきりょうとういたもくろみをしていたが、新羅しらきノくににはそのちゅうかいをするつもりがいようにかんじられてきた。なかノおお新羅しらきがかえって使せつつうさまたげるだろうといううたがいにかれた。そこでみなみうみみちわたほうけいかくへんこうするひつようしょうじたのであった。

 なつがついよいよ、りっそうされたせきけんとうせんが、ぎノくにからかいそうされて、なにみなとにそのようあらわした。

あらず、はにあらず、ふねりつる」

 となかノおおってよろこび、やはりこのあにただしいのだと、おおしくだす。かまたりもこれでせいこうすることはちがいのないものと、しかとしんんで、なかノおおらんらんとさせたわす。

 いちふねにはしノながたい使しノこまふく使とし、がくせいがくもんそうふくめてひゃくじゅういちにんむ。ふねにはたかたノおびとたい使かにもりノむらじふく使とし、やはりがくせいなどもふくひゃくじゅうにんむ。

 かぞえてじゅういっさいになるじょうは、いちふねる。かまたりじょうって、

「ゆめゆめいましめをまもりて、ひたぶるにくべし」

 とった。綿わたのようにやわらかく、ほおまるくてはだうちからべにしている。じょうけいことくわえず、ただしそうなうるませて、さんばしわたふねかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る