マトリョーシカ / 蟻酸

追手門学院大学文芸同好会

第1話

 『ラプラスの悪魔』というものをご存知だろうか。現在のありとあらゆる要素──それこそ素粒子のレベルで全てを把握してそれらの挙動を予測することで未来予知が可能となるというものだ。実に夢に溢れ、素晴らしいものであり、それが完成したときはお祭り騒ぎであった。だが、致命的とも言える弱点があった。

 それはせっかくの予知結果を出力した瞬間にその予知は不適当なものになることである。例えば、ラプラスの悪魔がAという人物の死亡を予知したとする。ラプラスの悪魔であればAが何月何日の何時何分に、どういった理由でどのように死ぬかでさえを詳細に言い当てる。しかし、そのことをAとは無関係の人物に知らせたとしても、ラプラスの悪魔が予知を行った時点と予知を行ってその結果を知らせた後ではAの死亡についての情報が差異として現れる。つまり、先程の予知は正確なものから外れてしまったのだ。

 ならば、その情報を手にすることを前提に予知をしたとすれば。結果は同じである。出力されるのは予知した場合を予知した情報であり、やはり乖離してしまうのだ。

 できあがったのはただ電力を喰らって、現実を先行した仮想空間を展開するだけの箱庭である。全知全能ならぬ全知無能がラプラスの悪魔の正体だった。

 この有様に私は悲嘆した。しかし、すぐにある考えに至った。要するに使い方の問題なのではないか。未来という曖昧模糊なものではなく、過去という不変なものを予測の対象とすることで期待されていた通りのはたらきを成すのではないだろうか。

 私はすぐさま行動を始めた。地球が誕生する瞬間のデータをラプラスの悪魔に入力したのだ。これならば、見られる情報は過去のもののみであり、私がどんなことを知ろうとも過去に介入できない。

 高温の地球に海ができて生命が誕生し、植物が生い茂った頃に私の仮説は立証された。植生が実際の地球とほとんど同じだったのだ。生態系が発達していくごとに、現実の地球との違いの少なさに舌を巻く。

 そして私は地球の様々な謎に対する真実を目にした。恐竜に羽毛は生えていたのか、アトランティス大陸は実在したのか、ジャック・ザ・リッパーの正体が誰か、明智光秀はなぜ裏切ったのか。

 もちろん、これが真実であるとは限らない。ラプラスの悪魔が完璧であっても、そこに情報を打ち込む私が完璧ではない。全く同じ歴史を辿っているとは言えなくとも、この歴史ドキュメンタリーは私の知的好奇心を刺激した。

 そして、ついに時代が現代まで流れた。ここから先は未来の出来事であり、これ以上の観測は私の失敗の再認識となるだけだろう。

 予測を停止させようとしたそのとき、あることに気付いた。既視感である。今、私が観測している事象はつい最近私が経験したことに非常に似ている。

 間違いない。ラプラスの悪魔が予測している人間は私である。箱庭の私が何かを考え付いた素振りで、ラプラスの悪魔に情報を入力する。

 私はしばらく天を仰いだのちに、また箱庭の観測を再開する。

 そこでは私が天を仰いでいた。



 あとがき

 現代物理学においてはラプラスの悪魔は成立しない、として明確に存在を否定されているらしいです。これは量子力学で語られる原子の崩壊がランダムだどうだとか、説明すると長くなる上に説明できるだけの知識を持っていないので省略します。

 マックスウェルの悪魔しかりラプラスの悪魔しかり、物理学における悪魔って否定される運命にあるんでしょうかね。意外と悪魔不在の証明だってできるかもしれません。

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