第八話 遥①


 遥ちゃんを書きます。

 私の突然の提案に、遥ちゃんは怪訝な顔を浮かべていた。


「突然どうしたの、羽美ちゃん」

「前に言ったでしょ。今の私を描いて欲しいって」

「それは言ったけど、でもなんで突然?」

「私が今描きたいと思った。それだけだよ」


 だめかな、と私は遥ちゃんに笑いかけた。彼女は眉根を寄せたままじっと私を観察するように見つめている。つっかけサンダルにモスグリーンの作務衣を腰のあたりで結び、絵の具の染み付いたくたびれたシャツを着て。おまけに髪は後ろで一つにまとめられ、化粧もしていない。これは、絵にひたむきだった頃の私の姿だ。紙面上に描いた伸びやかな線を追いかけ、時にはスキャンをしてインターネットに掲載したり、誰かのイベントに参加して画集を作ったり。依頼を受けて装丁やジャケットを描いてみたり。私の創作意欲の全てを知っている存在だ。


「随分着てなかったんだけどね。やっぱり気持ちが入らなくて着替えてみた」

「羽美ちゃん、本気で描くんだね」

「うん。それでね、手始めに遥ちゃんを描くことにした」


 私があなたを描く。その理由を真っ向から伝える為にできることは、これだけだ。言葉よりもずっと響くと思った。同時に、これを着ることで、私自身がもう逃げられないようにする為の、いわば呪縛のようなものだった。

 私は彼女に手を差し伸べた。遥ちゃんはその手をじっと見つめている。眼鏡のフレーム越しに見えるまつ毛がぴんと立って、綺麗な瞳がほんの少し潤む。私は強引に彼女の手を取って、両手で包むと、優しく笑いかけながら、一言だけ口にした。


「見てみたくない?」


 私の言葉を聞いて、彼女は頷く。


「うん、見たい」



 彼女を椅子に座らせ、私は向かいのスツールに腰掛けた。キャンパス越しに見える遥ちゃんはとてもぎこちない。私は予め淹れておいたハーブティーをマグカップに注ぐと、彼女に手渡した。


「カモミール飲めたっけ。リラックスできるよ」


 湯気の立ち上るマグカップに顔を近づけ、遥ちゃんはそれを一口飲む。ほう、と丸い吐息と共に肩の力が少し解れるのが分かった。


「ぴったりかっちり座ってる必要はないからね。姿勢が辛かったら動いたりしていいし、何か飲みたかったり食べたかったら休憩もするよ」

「動いて大丈夫なの?」

「完璧な姿を書き写すわけじゃないから。ダゲレオタイプ・カメラみたいなことをしてもね」


 遥ちゃんが私の言葉を繰り返そうとするが、よく聞き取れなかったらしい。ダゲ、と小さく呟くのを聞いて、ダゲレオタイプ・カメラと私は改めて言った。


「昔、とても撮影時間のかかるカメラがあってね。複製もできないし失敗も多い。固定して撮るからモデルへの負担もかかるの」

「そんなに辛いの?」

「どうだろう。私は見たことがないから。でも、そうまでして撮りたかった美しいものがある。映像があると思うと、私は少しロマンチックに感じるかな」

「ロマンチック?」私は頷く。

「感動を切り取る行為って、総じてロマンチックで、それでいて独善的なものだから」


 今、こうして遥ちゃんを束縛しているように。

 鉛筆が紙面上を走る。私たちの何気ない会話の中で、彼女の何気ない仕草の中で、私はその中の最上を切り取るべく手を動かす。


「私は、分からないな、そういうの」


 遥ちゃんはそう言ってマグカップに目を落とす。

 しばらくの間、私と遥ちゃんは無言のまま向き合っていた。私の鉛筆を走らせる音だけが、部屋にノイズを生み出していた。

 やがて、微かな吐息の後、遥ちゃんは決心したように顔を上げると、口を開いた。


「佳波多はどんどん遠くにいっちゃうんだと思ってた。私なんか置いていって、大きなコンサートホールでピアノを弾いたり、才能を見込まれて海外に修行に出て、尊敬できる人を見つけて……ピアノの為に生きるとばかり思ってた」

「佳波多くんの進路、聞いたの?」

「音楽の先生」


 音楽の先生。私は胸の内でその言葉を繰り返す。


「学校でも、個人でもスクールでもなんでもいいから、選択肢を作れる道を選びたいって。先生と相談しながら、スムーズな道筋を探して勉強もしてるんだって」


 私、全然知らなかった。遥ちゃんはハーブティを一口飲んで、小さなため息をつく。


「もっと、佳波多は漠然としてるんだってずっと思ってた。プロになって一生音楽でご飯食べていくとか、そういう漠然としたことしか考えてないんだろうなって」

「私もそう思ってたよ。佳波多くん、すごく上手いから。てっきりプロを目指していて、その為におうちを出てきたんだろうなって」

「漠然としてたのは、私のほうだった」


 遥ちゃんは憂鬱そうな顔を浮かべ、両膝を椅子の上で抱える。私は構わず鉛筆を走らせる。


「好きなことだけをしようと自由に動き回る佳波多を、心の隅っこでずっと見下してたんだと思う。あいつなんかより私はしっかりしてるって。あいつが好きなことしてるのを横目に、優等生として立派にやってみせてるって」


 潤んだ瞳と、噛み締められた唇の下で、カモミールティーの湯気がとけていく。


「別に佳波多と仲が悪いわけじゃないよ。一緒にいて苦しくないし、私たちはうまくやってると思う。でもね、ずっと佳波多が私のコンプレックスだった」

「ずっと羨ましかったんだね、佳波多くんのことが」

「羽美ちゃんだって、やりたいことがちゃんとあるじゃん」

「絵のこと?」

「そう、絵のこと。私は、佳波多だけじゃなくて、羽美ちゃんのことも羨ましく思ってる」


 私たちは顔を見合わせる。そっか、と答えると、遥ちゃんは抱えていた膝を開放した。降ろされた右足のきれいな爪をした足先が、シートの上をくるくるとなぞる。


「羽美ちゃん、もっと絵を書くべきだよ。私ね、こっそり降秋さんとヨルベさんに聞いたから、ペンネーム知ってるの」


 私は顔を上げる。遥ちゃんが私の絵を見ていたなんて知らなかった。


「ネットとかSNSに上げてた絵も見たよ。羽美ちゃんの書く水彩のイラスト、綺麗だった。特に青色をすごく綺麗に使ったやつとか」

「見られてたんだね」

「あ、でも佳波多は知らないよ。興味はあるみたいだけど、聞くのが恥ずかしいんだろうね。あいつ羽美ちゃんのこと好きだから」

「やめてよ、一回りも歳が違うんだから」

「いいと思うけどな、羽美ちゃんと佳波多。私は祝福するよ」

「ないない、もっと歳が近くて良い子たくさんいるんだから、私なんか相手にする必要はないの。それに、独り身でのんびり絵を描いてるほうが良いから」

「彼氏とかいたでしょ、続かなかったの?」

「どうだったかな、もう二、三年いないから忘れちゃったな。最後の人は、会う時間全然作れないって喧嘩して、気まずくなってフェードアウト、だったと思う」

「羽美ちゃんマイペースだもんね。歩幅合わせてくれる人じゃないと合わなそう」


 言ってくれるなあ、と私は困ったように笑って、遥ちゃんにも同じ質問を投げかける。恋はしているのか、彼氏はいるのか、いたのか。私なんかよりずっと良い交際をしていることだろう。


「気になる人はいるよ」

「どんな人? 付き合ったりは考えてないの?」

「ないよ、私、佳波多への対抗心で一杯だったから」

「それこそ勿体ない。遥ちゃん綺麗なんだから」


 下絵を終えた段階で、私は大きく伸びをする。紙面上で遥ちゃんが片足を立てて椅子に座っている。マグカップを小さく繊細な指で包みながら、顔は彼方を見つめている。彼女の特徴である目元が憂いを帯び、目先の不安を感じさせている。時計を見ると、対話を初めてもう一時間ほど経っていた。


「うん、大分固まってきた。ここからは口数が少なくなるかもしれない。退屈になっちゃうかもしれないけど、ごめんね」

「ううん、気にしないで。それに私、羽美ちゃんが熱心になってるところ、見るの好きだから」


 遥ちゃんの言葉に私はきょとんとする。


「私、そんなところ見せたことあったかな」


 あったよ、と遥ちゃんは笑う。


「文化祭で佳波多の演奏見てたとき、羽美ちゃんすごくかっこよかった。ああ、この風景を描きたいんだろうなって、芸術とかに疎い私でも分かるくらい熱心に二人を見てた」

「そんな、恥ずかしい」


 照れくさくて、胸がむずむずする。


「私ね、卒業したら、実家に戻ろうと思う。大学も向こうで決めるつもり」


 下絵に向かい、絵の具の準備をしていると彼女はそう言った。パレット一杯に乾いた絵の具が広がっている。明るい色もあれば、混ざり合って暗く重たい色になっている部分もある。数年使っていなかったから、また一から色は作り直していかないと。私は絵筆を水に浸し、過分の水を拭ってから絵の具の上に置く。


「佳波多もここを出るみたい。お父さんとお母さんに、大学生からは一人暮らしに切り替えてもいいって言われたみたいだから」

「遥ちゃんはいいの?」


 遥ちゃんは首を横に振った。諦めたように、少し悔しそうに彼女は笑っていた。


「元々、対抗心だけで始めたことだから」

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