44話 憎悪(前編)

空竜は、出来る限り落下時のダメージを抑えようと、落ちるギリギリまで抗った。

久居は激突まで空竜から離れなかったが、リルは途中で手が離れてしまった。


久居は、女の去る気配を確認しながら、なるべく静かに深く息を吸い込むと、沈んでゆくリルを追って海に潜った。


背後で、一瞬気を失っていた空竜が、動き出したらしい揺れを感じる。


まだ久居の心には、先ほど見た赤い光を放つ痣の衝撃が残っていた。

あの痣は、自身の肩にあるものと同じだった。

私の肩の痣も、闇の力を放つ時にはあのように赤く光っているのだろうか。

服と首巻きで覆われた位置だったので、今まで指摘された事はなかった。

けれど、おそらくそうなのだろう……。


自分は真に『闇の者』と呼ばれる存在なのだと、天使にとって粛清すべき存在なのだと。

理解していたはずなのに。

改めて突きつけられた事実に、胸が騒めく。


リルはまだ意識を失っていた。

一刻も早く助けなくてはならないのに。なのに、赤い色が頭から離れない。

暗い海の底へ手を伸ばすほどに、閉じ込めた何かに手が触れてしまいそうで、そんな予感に体が強張る。


久居は、リルを助ける事だけに集中しようと、気持ちを切り替えようとした。

その時だった。

暗闇の中、偶然、波に揺られたリルの腕が、ふわりとこちらに伸ばされた。


その姿は、ずっと昔、海の底から久居に手を伸ばした、母の姿と重なった。


「っ!?」


忘れていたはずの、遠い日に海へ沈んだ母の、最後の姿。

鮮明に蘇ったそれを引き金に、記憶の数々が数珠繋ぎに久居の中を埋め尽くす。

受け止め切れない強烈な感情が、痛みが、苦しみが、恨みが、願いが、渦となって久居を襲う。

久居は思わず叫び出しそうになるのを、必死で堪えた。


心臓が早鐘を打ち、急激に息が苦しくなる。

体が……まるで動かない。


目の前の、リルの腕すら掴む事ができない。


ゆらり。と海流がうねり、久居とリルをじわじわと引き離す。


リルはピクリとも動かない。


(っ……このままでは、リルも私も……!)

肩に残った古傷が酷く疼く。

少しずつ、目の前が暗くなっていく気がした。

(……っ……菰野、様…………)

伸ばした自分の指先さえ、もう見えない。

そんな久居の頭に、菰野の声がハッキリと響いた。


『俺の手の届かないところで、勝手に死ぬ事は許さない』

いつも優しい菰野の声に、あの時は強い祈りが込められていた。

『お前は必ず、俺のところに帰って来るんだ。いいな?』

それは、旅立ちの日に、菰野が久居に授けた命だった。

久居はその命に、必ず戻ると答えた。


(必ず…………必ず、お傍に戻ります!!)


久居は、胸に菰野の姿だけを描く。

あの日、自分を励ましてくれた年下の主人は、ほんの少し寂しげに微笑んでいた。

あの方を一人でお待たせしているのに。

私の帰りを、信じて一人で待っていてくださるのに。


気付けば、ぐちゃぐちゃだった頭の中は、菰野の事でいっぱいになっていた。


久居は、もう一度腕を伸ばす。

腕は、ぎこちないながらも、なんとかリルに届いた。


まだガチガチの体を無理矢理動かして泳ぐ。

胸の内で菰野が微笑む度に、少しずつ余計な力が抜けてゆくのを感じながら、久居はリルを連れて海面を目指した。


ぶはっ!

と音を立てて久居が息を吸う。

胸が裂けそうに痛む。手足も先端の感覚が無い。

どうやら随分と体に無理をさせてしまったらしい。


リルは海面に叩きつけられた拍子に呼吸停止していたのか、水はあまり飲んでいないようだった。

気道を確保して、治癒の応用で水を出してやると、落ち着いた呼吸を取り戻した。

全身の打撲も、久居ほどではない。

鬼の頑丈さゆえか、子どもの柔軟さゆえかは分からないが、ともあれ無事でよかったと息をつく。


気が緩むと、途端に先程甦ったばかりの記憶が、久居の心を埋め尽くそうと襲い掛かった。


水面に浮いている空竜に手をかけたまま、俯いた姿で動かなくなった久居を

「クォン」

と空竜が鼻先で押して促す。


久居がリルを抱えてその背に乗ると、二人と一匹は静かに来た道を戻った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る