44話 憎悪(中編)

朝日と共に、レイは目を覚ました。


光の波長から、外に朝日が登っていることを確認すると、レイはギギィと軋む物置の戸を開けた。

リルと久居は居間のソファを借りていたが、レイは部屋に窓がないところを希望したため、結果的に狭い物置で座った姿勢のまま寝る事になった。


「いたた……寝違えたか?」

首をゆっくり左右に傾けながら、レイは何気なく窓の外を見た。

窓の外、裏庭となる場所には、三人ほど腰掛けられそうな大きさの岩があった。

そこに久居がポツンと座っている。


(久居……?)


ここからでは後ろ姿で表情は見えなかったが、俯いたままピクリともしない久居の様子がおかしい事だけは、レイにも分かった。


朝の久居は、いつも忙しなく動いている。

バタバタといった風ではないが、速やかに、確実に、むしろスマートに、全員の朝の支度をサポートしているのがいつもの久居だ。

それがあんなところで、ただボーッと座り込んでいるなんて、あり得なかった。


昨夜確かに、闇の力を近くで感じた。

が、まだ夜中だったのと、それきりだったので、久居が何か実験でもしたのだろうと思う事にして、覚醒しないよう努めた。

夜中に目が醒めてしまったら最後、物置で一人発狂する羽目になる。


けれど、そうではなかったらしい。

どうやら夜のうちに何かがあったのだと理解して、レイはすぐに外へ出た。


外は、朝露に濡れてしっとりと湿った空気を纏っていた。

涼しいというよりも、肌寒い。

朝日はまだ闇を払い切るには弱く、レイは漂う闇の残滓にぞくりと背を震わせた。

そういえば、前に久居が闇の力を暴走させた時も、こんな時間だったな。と思う。

しんと静まり返った朝の空気の中で、久居は微動だにせずそこに座っていた。


「……何か、あったのか?」

背中からかけられた声に、久居がぴくりと小さく反応する。

(珍しいな。こんな近くに来るまで、久居は俺に気付かなかったのか?)

その様子にレイが内心驚きを感じていると、久居がポツリと答えた。

「敵に、環を奪われました……」

「!?」

「……後を追いましたが、不覚を取り、逃げられました……」

「鬼だったのか?」

「いえ、黒い翼で、空を飛んでいました……」

そう言って、久居は懐から黒い羽を一枚取り出した。


黒い羽は、朝日を浴びると闇色がじわりと滲んで溶けるように薄れてゆき、見る間にレイと同じ真っ白な羽になった。


「これは……」

久居の驚きを含んだ声に、レイが大きく息を呑む。

レイは、たっぷり躊躇った後に、酷く苦しげに答えた。

「…………っ、……天使の、羽だ……」

「天使の……」

久居の声に、レイが拳を握り締める。

震えるほどに強く握り込まれて、骨が小さく軋んだ音を立てた。

「っ、闇に染まった……天使の、羽だ……っ」

どうやら、天使であることに誇りを持っているレイにとって、世界の平和を乱そうとする敵が天使であった事は、余程の衝撃だったようだ。


----------


昨夜、ずぶ濡れで帰って来た二人と一匹を見て、クリスは環を失った事を知った。


言葉少なに報告をする久居の声が、隠しきれず震えていて、それ以上の事を尋ねることは出来なかった。

ただひとつ、久居の腕の中で動かないリルが無事な事だけを、なんとか聞かせてもらうと、クリスは部屋に戻った。


結局あれから、眠れなかった。

環が無くなってしまえば、もう狙われる事も無いのだろう。

酷い喪失感と同時に、どこかで安心している、もう解放されたいと、ずっと願っていた自分が、確かにいた。

今までの苦労も、我慢も、全てが、環のためだった。

家族も、生まれた場所も、環のために失われた。

今さら環が無くなっても、それはもう、戻って来ない。


透き通るような朝の光は、カーテンの隙間から細い光の筋をいくつも作っている。

天使の梯子のようだと、そう思ってから、昨日見た真っ白な翼が脳裏を過った。

天使が……。

天使が、本当にいたのなら、なぜ……。


なぜもっと早く、助けに来てくれなかったのだろう。


こんなのは逆恨みだってわかっている。

けれど、どうしても、そう思う気持ちを止められなかった。

おばあちゃんは、あんなに天使を信じていたのに。


喪失感と、安堵と、行き場のない暗い感情は、胸の内をぐるぐると渦巻き、昨日走り続けて疲労を蓄えたクリスの体を休ませてくれなかった。


クリスは眠ることを諦めて、ベッドから上半身を起こすと、自分の足の間で丸くなって寝ている牛乳をそっと撫でた。


「ねえ、牛乳。私、何にもなくなっちゃったよ……」


口にしたら、つられてポロリと涙が零れた。


牛乳が、まだ眠そうではあったが頭を上げ、クリスの手を宥めるように舐める。

「にゃーん」と優しく答えた牛乳は『俺様がいるだろ』と励ますようだった。

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