31話 火柱(後編)

湖の脇に生える大木、そこにぶつかって止まったのだろう。長身の男は大きな木の根本で胡座をかいていた。

細く編まれた橙の髪の三つ編みを指でくるくると弄びながら、ぼんやりと、日の暮れきった湖を眺めていた男が、リルと久居が近付く気配に、パッと身軽に立ち上がる。

やはり、派手に吹き飛んだわりには大した怪我はしていないようだ。


男は、三白眼でじろりとリル達を見ると、肩をすくめるような仕草で言う。

「もう俺は抜けるぜ。人間に負けた主なんて、なんの価値もねぇ」

その言葉に、リルはホッとする。

男の足元で、ぐにゃりと地面が揺れ、波紋が広がる。

黙ってそれを見ていた久居が、男の口元にニヤリと嫌な笑いが浮かぶのに気付いた。


「リル! 炎を!」


地に沈みながら、長身の男が腕を振るう。

もう帰るものと思い、油断してしまったのだろう。リルの反応は遅れてしまった。


何かが溶ける音、弾ける音。

ドッと何かが深く刺さる音が立て続けに三回。


「……くっ……」


バチバチと溶ける音は、まだ久居の胸で、脚で、腕で続いている。


「大〜当たり。こりゃ死んだな。ざっまぁみろ!」


嬉しそうにケラケラ笑いながら、捨て台詞を残して、男は地中に姿を消した。


「久居! ご、ごめんなさい、ボクが……」

リルが謝るが、久居の返事はない。


男の放った針……といっても、指三本分程はある棒のうち、リルに向かって飛んだ二本を久居は弾いたが、そこで刀は溶けてしまった。

何とか自身を守ろうと出した障壁は、炎を纏った針にあっけなく貫かれた。

情けない。リルの炎に頼らねば、自身を守ることすらできないなんて。

悔しさを噛み殺しながら、久居は刺さった三本のうち、肺を貫通した一本を治癒をかけながら引き抜こうとする。

一刻も早く、この穴を塞がなければ……。

だが久居の焦りも虚しく、次の瞬間には男が消え、三本の針も揃って消滅した。


派手な水音を立てて、三箇所の穴から一斉に液体が噴き出す。

久居が膝から崩れ、肩、頭と血溜まりに沈むのを、リルはどうすることもできないまま見ていた。


「あ……」

リルの耳に届くのは、どれも酷い音だ。

体液が次々と体の外に溢れる音。

息の音は水音とぐちゃぐちゃに混ざって、今にも途絶えそうだ。


(……久居が死んじゃう……)


リルの恐怖が炎の色を変える。

その暗い青色は、まだ炎を受け取っていた久居を内から焼いた。


声こそもう無かったが、久居の体が跳ね、リルは慌てて久居に纏わせていた炎を引っ込める。

自分は今とても動揺している。

コントロールできる自信はなかった。


ちゃんと、考えて。

ボクが助けなきゃ、久居を。

ボクに怪我が治せないなら、誰か。

誰かに知らせなきゃ。


カロッサに伝えなきゃ。


そこまで考えて、話し声がしていることに気づく。

カエンが、久居にとどめを刺して環を取って来いと大男に命じていた。

大男は約束したからと渋っているが、カエンの強引な要求に、今にも負けてしまいそうだ。


空竜は空のずっと上にいる。どうしたら気付いてもらえる?


リルは、ハッと思い付いて、両腕を空に伸ばした。

前に、初めて自分で炎を出せたとき。

うっかり火柱を上げてしまって、そう、久居が消火してくれてたよね。

あれを出そう。もう一回。

くーちゃんに当たらないように、よく狙って、まっすぐ。


リルは心を落ち着けて、目を閉じて、また開く。

久居の音は、怖いから、聞かないフリをしよう。

手も足もないカエンが、言いくるめたらしい大男に担がれてこっちに向かってくるけど、それも今は気にしちゃダメだ。


まっすぐ。炎をまっすぐ空高く……。


「せーのっ!」

リルの掌から溢れた火柱は、轟音と共に一気に遥か上空へと昇った。

堰を切られた炎は、掌から盛大にこぼれ、大地へも火の粉を巻き上げほとばしる。

それは透けるような、淡く鮮やかな蒼炎だった。


カエン達の元へも、炎の波が襲い掛かる。

それを防ごうとカエンが出した炎に、まず大男が焼かれた。

思わずカエンを落とした大男が、逃げ場のないほど広範囲へ広がろうとする蒼い炎に、どうすることもできずそのまま獄界へ避難する。

カエンも、身動きは取れずとも沈む事は出来たらしく、とぷんと音を立て地下へと逃れたようだ。


一方で、リルの足元にいた久居は、とめどなく溢れユラユラとたゆたう蒼い炎の海に全身をすっかり飲み込まれていた。

炎の中、久居は身動きひとつせず沈黙している。

もう意識は残っていないのかも知れない。


リルは、既に久居への炎の付与を止めていた。

その状態でリルの炎に触れれば、久居も融けるはずだった。


けれど蒼い炎は、あの日の誓い通り、久居の服も髪も、何一つ焦がしていなかった。

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